唐突に始まった理想の世界
家に帰って来てからも、摩夕はずっと泣き続けていた。
俺は病院内ではしっかりと顔を見れなかったので、久々に顔を上げた摩夕をしっかりと見ながら慰めようと思った。
しかし……。
俺は摩夕の顔を見て、絶句してしまった。
口の周りはしわくちゃ。支える物がないので、力が抜けてしまっているのだった。
その影響で激しく老けて見えてしまい、老婆のようになってしまっていたのだ。
これでは、ばあちゃんと変わらないようにも感じる。
そうなると、仮にばあちゃんと摩夕を間違えたりなんかしたら――。
俺は結局何も言えないまま、摩夕から距離を取ってしまった。
その日は、俺はもちろん、摩夕もばあちゃんも、ほとんど話さないまま一日を終えることとなった。
せいぜい覚えている言葉と言えば、家に帰って夜が更け始めた時にばあちゃんが言った言葉。
「今日は、いろいろ大変だったねぇ」
俺は強く同意した。
そして、そのゆっくりとした口調が、少しだけ安心感を与えようとしているように聞こえた。
――本当に、申し訳ない。
翌日になっても、摩夕は部屋に引きこもっていた。
「へぇえええん。へぇえええん。ひっく。へぇえええええん」
部屋から聞こえてくる声を聞く限り、傷はまったく癒えていない。
昨日からずっとこの調子である。
俺はばあちゃんに現状報告をする。
ばあちゃんは台所に立って朝食を作っていた。
見てみると、畑で採れたであろう人参をつぶして、それをお粥と混ぜている。
どうやら離乳食に近いものを作っているようだ。
「摩夕はまだ出てきそうにないよ」
「そうかい……。やっぱりまだ落ち込んでいるんだねぇ」
「そうだね」
「これで元気になってくれればいいんだけどねぇ」
「そうだね……。大丈夫だよ。ばあちゃんの飯はうまいから」
「だといいけどねぇ……」
ばあちゃんもまだ立ち直れてはいないようだった。
俺も家族三人が元の状態に戻るのは、まだまだ時間がかかると思っていた。
まして摩夕からすれば、離乳食なんてものを見せられたら、その現実に余計ショックを受けるだろうなぁ。
昨日の昼から何も食べていないので当然栄養補給は必要だが、普通の食事が出来ないというのはやはり切ないだろう。
「ばあちゃん。俺がそれを持って行くよ」
俺はそう言って、ばあちゃんへの負担を軽くするように努めた。
「いいよぉ。私がやるから」
優しい口調で俺をいたわってくれるばあちゃん。
嬉しいけど、俺としては昨日のこともあるからフォローしたかった。
ばあちゃんも、もう七十歳を超えている。
その状態であるのに、普段はお世話になりっぱなしだ。
だから――、
「大丈夫。俺が何とか食べさせるから」
俺は半ばゴリ押し気味に、ばあちゃんに頼み込んだ。
「そうかい。じゃあお願いしようかな」
ばあちゃんもこれに応じてくれた。ありがとう、ばあちゃん。
そうこうしているうちに離乳食も出来上がった。
「じゃあ、お願いね」
「うん」
俺はばあちゃんの作った離乳食を持って、二階へと上がって行った。
摩夕の部屋の前に着いた。
中からは、物音一つ聞こえない。
眠ってしまったのだろうか?
「おーい。まよー、入るぞー」
鍵はかかっていないようだ。俺は扉をゆっくりと開けた。
恐る恐るだが、少し勢いをつけて。
摩夕は部屋の左側にあるベッドの柵に寄り掛かって、体育座りをしていた。
顔は下を向いていて、俺の声にも反応して上げようとはしない。
「まよー。食事持ってきたぞー。ばあちゃんが作ってくれたんだから、食べろよー」
出来る限り病人とか障害者ということに触れないようにするため、俺はいつもの感じの空気を出しながら食事を置いた。
また歯が抜けてしまったことを思い出させるフレーズは良くないと思ったので、あえて離乳食という言葉は伏せた。
しかし摩夕は下を向いたまま、食事に手をつけようとはしなかった。
そりゃそうだよなぁ。俺が触れなくても、自分の目には入ってしまうもんなぁ。
でもお腹は空いているはずだし、時間が経てばそのうち食べるだろう。
俺は、いろいろと案じて部屋を出ることにした。
さっさと部屋を出て、ドアを閉めた。
そして一階へと下りようとする。
「へぇ、へぇ(ねぇ、ねぇ)」
ドアの向こうから弱々しい女子の声が聞こえる。
俺は最初、それに反応出来ず少し固まっていた。
すると、
「へぇ……、へぇっへふぁ(ねぇ……、ねぇってば)」
先ほどよりも大きな声で呼ぶ声がする。
今度ははっきりと聞こえた。
「どうした?」
俺は少し慌てて入る。
摩夕は顔を上げていた。目立ったのは目の周りの腫れ。
昨日今日とたくさん泣いたんだろうなぁ。
「ふふーん(??)」
そんなことを思っていると摩夕が言葉を発する。
だけど、なんて言ったの?
「ふふーうん(??)」
いや、まだわからないんですけど。
「ふ・ふー・ん(??)」
次からは筆談にした方がいいだろうか。
そんなことを思っていると、摩夕は右手でグーを作り、何かを救う仕草をした。そして、
「ふふーん(スプーン)」
「スプーン? あぁスプーンね」
摩夕は小さくうなずいた。
「そういや入れ忘れてたわ。今、持ってくるよ」
俺はすぐに階段を下りて行き、スプーンを取りに行った。
「悪かったね。はい、どうぞ」
スプーンを離乳食に入れた。
これで俺の役割は終了だろう。
「へぇ(ねぇ)」
えっ、まだ何かあるの?
「ふぁふぇはへへ(??)」
今度は何?
「は・へ・は・へ・へ(??)」
ジェスチャー付きでお願いします。
そう思っていると今度は俺を手招きし始めた。
俺が近くに行ってあげると、俺を指さしてスプーンの時と同じ動作をする。
俺はこれで理解した。
「ふぁふぇはへへ(食べさせて)」
「食べさせて欲しいんだね。はい、わかったよ」
俺はそっと摩夕の口に離乳食を入れてあげる。
摩夕はしわくちゃの口を必死に開けようとする。
しかし力が入らないのか、なかなか大きくは開けられない。
とても不便そうだ。
また歯がないことで噛むという動作が出来ない。
よって少しずつでないと口に入れられなかった。
時間が相当かかる。
ぶっちゃけ、めんどくさくなってきた。
ばあちゃんと交代しようかな……。
そんなことが頭をよぎった時だった。
「ほへんへ(ごめんね)」
摩夕が頭を下げる。
その直前まで、完全に彼女の現状を忘れていた俺がいた。
「ほへんへぇ(ごめんね)」
「大丈夫だよ、別に。迷惑とか思ってないからさ」
「ふぇほ、ほへぇんへぇ(でも、ごめんね)」
摩夕はまた頭を下げる。深く、本当に深く。
俺はそれを見て少し懐かしんでいた。
昔のことを思い出したからだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
それは俺が幼稚園の時に、公園で父親と母親、そして俺と摩夕の家族四人で仲良く暮らしていた時のこと。
公園で遊んでいた時に、摩夕が転んで手を怪我してしまったのだ。
その日の夕食時、摩夕は手を怪我した影響で、スプーンを持つことが出来なかった。
その日は美味そうなハンバーグだったのに、不便でならなかっただろう。
それでも摩夕は最初、自分でハンバーグを食べようとした。
でも結局食べられないとわかると、半ベソをかいてしまったのた。
その状況を見てられなかった俺が、とっさに横に行ってあげたのだ。
「お兄ちゃんが食べさせてあげるよ」
摩夕は最初こそ俺に対して遠慮していたが、ゆっくりと口に入れてあげるとすぐに喜んでくれた。
「ありがとう。お兄ちゃん」
こう言われたのをはっきりと思い出した。
ほっこりしたいい思い出である。
……そういえばあれ以来、兄らしいことってしてきたかなぁ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
物思いにふけっていると時間はあっという間に過ぎるもので、摩夕は離乳食を完食していた。
「じゃあ俺は戻るね。何かあったら俺を呼びなね」
俺はそう言って、リビングに戻ろうとする。
「へぇ(ねぇ)」
またしても呼ばれてしまった。
ただこの時はうっとうしいとは思わなかった。
俺が摩夕のところに再び寄る。
すると摩夕は正座をした。そして少し涙ながらにこう言いだした。
「ひぃふぁはふぇ、ふぉんほうひぃ、ふぉふぇんふぁはい(今まで、本当に、ごめんなさい)」
摩夕は床に着くギリギリまで頭を下げた。
俺は摩夕のその姿に驚いた。想像したことがなかったから。
確かに謝る姿は久しぶりだったし、うざかったときは何度も見たかった姿だったはずだ。しかしやっぱり今は違う。
少なくとも、こんな弱々しい姿では見たくはなかった。
そしてこのような状況を望んでいた自分が、本当に情けなく感じた。
俺は妹のために動いて来ただろうか。そして頼れる存在だっただろうか。
本当にごめん。まよ。
俺は自分自身を悔いた。
こんな情けない兄、こんな頼りない兄。
それでも妹は俺への言動を詫びている。
俺が責め立てたとしても、反撃できないほどの弱々しい姿をさらしながら――。
グッ。
自然と拳に力が入る。
気がついたら摩夕と同じ正座になっていた両膝は、震えていた。
摩夕にはない歯も、ギシギシさせていないといられない。
本当なら摩夕だって歯ぎしりしたいだろう。いや、摩夕こそしたいだろう。
でも彼女にはそのための歯がない。だから力が入らず、悔しがることも出来ない。
これもデントレス病の弊害なのか。
俺は自然とさらに摩夕に近寄っていた。
責めて今だけでも……、いや、これからは頼られる存在にならなければいけない。
そう心に誓いながら――。
「もう一人で悲しむな! 俺が治す方法を見つけてやる。それがないなら、一生面倒を見てやる。だから心配すんな」
「ふがあ……」
「今まで俺は兄らしいことを一つも出来なかった、だから今回は絶対にお前に寄りそうって約束する」
「……」
「だから……、こんな兄ちゃんだけど、こんな情けない兄ちゃんだけど、少しだけでいいから頼ってくれ」
「……」
「頼む!」
そう誓って、俺の方こそ土下座をしてお願いした。
下を向いてしばらくすると、摩夕のすすり泣く声が聞こえてきた。
俺は顔を上げた。泣いていた理由は、正直分からなかった。
摩夕は泣き過ぎたことで疲れ切っていた。
自分では何も出来ない様子だったので、俺は肩を持って支えてあげて、ベッドの方に連れて行ってあげた。
「今は無理に答えなくていいよ。とりあえず今日はもう寝な」
俺はそう言って、今度こそ部屋を出るのだった。
兄らしいことが、少しは出来た……かな?
そして今、厳密には摩夕がデントレス病にかかってから三日目の夕方。
学校から帰ってきた俺は、家の中でくつろいでいた。
ドン、ドン、ドン、ドン。
階段を、下りる音が聞こえてきた。
あの音は――、
「ふがーーー!」
やっぱり摩夕だ。
摩夕は昔のお祭りで買ったであろう、般若のお面を持って現れた。
私は般若だぞー! とでも言いたいのだろうか。
久しぶりに見る妹のこういう姿に、俺はほのぼのした。
そして久しぶりに思った。
よく見りゃ……、可愛いじゃねーか。
「こら。大人しくしてないとダメでしょう。早く部屋に戻りなさい」
ばあちゃんが冷静にしっかりと注意をする。
それに対し、摩夕は頬を膨らませている。
やっぱりよく見りゃ、可愛いじゃねーか。
「ふぁーい(はーい)」
摩夕は渋々部屋に戻って行った。少しその背中が寂しくも見える。
あぁ……、もう少し見たかったなぁ。
ただ昨日の俺の思いと誓いは、届いたみたい、だな。
嬉しくなった俺は、ばあちゃんが淹れてくれたお茶を口にした。
こうして俺にとっての理想としていた世界が、幕を開けるのだった。
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