『レス病』とは

『レス病』


 それは最近この地球で流行り出した病気だ。

 レスというのは英語で『~ない』という意味である。

 この病気を引き起こすとされるのは、『レスウイルス』という新種のウイルス。

 このウイルスが体のどこかの部位に付着したり体内に入り込むと、そのウイルスに侵された体の部位が失われてしまうのである。

 例えば目に付着してしまえば、アイレス病となり、手に付着してしまったら、ハンドレス病となるのだ。

 この病気の最大の特徴は、少しずつ弱ったり衰えたりして消えるのではなく、マジックのように一瞬にして消えてしまうことである。

 例えばアイレス病になれば、かかった瞬間にいきなり失明した状態になってしまい、他人から見ると眼球が無くなっているので、目の中にある血管や視神経が丸見えになるというのだ。

 もはやその姿はリアルなお化けである。普通に怖い。

 そしてこのウイルスはとても厄介なことに、なぜこの地球にやってきたのか、そしてウイルスと病気のメカニズムはどうなっているのかなどの詳しいことが、現在明らかになっていないのである。

 だからどうしたらウイルスを防げるのかも解明されていないし、どうしたらウイルスが治せるかもわかっていないのだ。

 つまり摩夕の歯が元に戻る方法はわからないのである。

 よって現状出来ることは、彼女に寄り添いながら身の回りの世話をすることと、俺とばあちゃんがレス病にならないこと。

 そしてウイルスが自然消滅してくれることを祈るしかないのだ。



 俺はつい最近驚くようなニュースはなかったと思ったが、このことをすっかり忘れていた。

 このレス病はまだ流行り出した段階であったため、そこまで公に取り上げているところは少なかったのだ。

 そんな状況だったので、俺や摩夕はあくまで噂とか、都市伝説の一つという程度にしか考えていなかった。

 しかしそれが今、現実となって摩夕を襲っているのだ。

 俺や皆が驚くのも無理はない。



「ひっく、ひっく、へぇぇえええええん、ひっく、へぇぇえええええええん」


 医者から現実が伝えられると、摩夕はまたむせび泣き始めた。

 ただこれに対して、俺は何もしてあげられない。


 ガリガリガリ。


 悔しい。ただただ悔しい。

 そんな風に俺が悔しがっていると、医者が優しく声をかけてくれた。


「でもラッキーでしたよ。あなたは」


 正直これだけ聞いたときは、愕然とした。

 おい! それが医者の言うセリフかよ!

 しかしこれには医者なりの気遣いがあったようだ。


「なぜならあなたが失ったのは歯。これから生きていく上で、そこまでの心配はいりませんからね」


 ……確かに。

 納得してしまったが、そう言われると少し考えが変わる。



 目を失うアイレス病の場合、もし感染してしまったら、毎日のように寄り添ってあげなくてはいけなくなる。

 そうしないと、どこかに体をぶつけてしまうから。

 口を失うマウスレス病の場合、人工呼吸器を鼻に毎日つけなくてはいけなくなる。

 そうしないと、息苦しくなってしまうから。

 手を失うハンドレス病の場合、もし感染してしまったら、常に介護をしてあげないといけなくなる。

 そうしないと、自分では何も出来ないから。

 それと比べると、歯を失うデントレス病はそこまで苦労しないように感じる。

 日常生活もそこまで問題なさそうである。

 せいぜい言葉がうまく発せないことや上手に食べられないことくらいだろうか。

 多少の介助は必要になるかもしれないが、大抵のことは自分で出来る。

 だったら、まだマシなのかも。


「へえええええん、へえええええん」


 いや、そんなことはやっぱり思ってはいけない。

 摩夕は俺の想像以上に苦しんでいるのだから。

 よりしんどいのだから。

 どんな状況であれ、そんなことを思ってはいけない。



「ただお婆さんとお兄さんに移してしまってはいけないので、これを渡しておきます」


 お医者さん。こちらの方はお婆さんではなくておばさんです。

 ただ医者はそんなこと気にせずに、後ろの道具箱から小さな箱を三つ取り出した。

 救急バンでも入ってそうな小さな箱である。


「今、それを開けてもらって、すぐに着けてください」


 医者からの指示を受けて、俺は箱を開けた。

 中に入っているのは……、パッと見カーキ色の布のようだった。

 しかしそれに付属するように、通気口のようなものもついている。

 何だこれ?


「それはガスマスクです」


 ガ、ガスマスク?


「それをつけることで、感染を比較的防ぐことが出来るでしょう。少し息苦しくなるかもしれませんが、我慢してお使いください」


 ぶっちゃけ、こんなのいきなり渡されても困るんですが……。

 ただ医者はそんな俺の気持ちを考えることなく、話し始めた。

 医者によると、今までレスウイルスはかかった患者の統計上、空気感染するリスクが高いことと、ウイルスが増殖していることは確認されているそうだが、接触感染や飛沫感染の事例は確認されていないらしい。

 また一度レス病にかかった患者が、また別のレス病を発症するという事例も、現在確認されていないらしい。

 つまり、目が無くなった状態で、同時に鼻も無くなるということはないそうだ。

 すごくホッとする。

 それが現実として起これば、いつかは完全消滅してしまうわけだから。

 よって患者に触ったりすること自体は、大きな問題ではないとのこと。

 それよりも今、この時も空気中に漂っているであろうウイルスの方が、よっぽど脅威だと医者は言うのだ。



 レス病はかかってからが本当に早い。

 その早さゆえに、病気の前兆や警告信号と呼ばれるものも存在しない。

 おまけに感染力が強くなっているという現状。

 それなら水際で徹底的に防ぐことが何より感染の拡大を防ぐのだと医者は言う。

 う~ん。そこまで言われると、着けた方がいいんだろうなぁ。

 ただガスマスクだ。やっぱり気が乗らない。

 こんなものを着けて街中を歩いたら、間違いなく変質者だ。

 ハロウィン気分でうろついているイカれたやつか、危険物処理班にでも憧れている浮かれたやつにしか見えない。

 ただ俺も感染したくはなかったので、医者の指示に従ってガスマスクを着けてみた。

 感想は、ただただ苦しい。

 通気口のところに小さな穴は、確かにたくさん空いている。

 しかしその一つ一つはとても小さかったので、うまく呼吸することがなかなか出来ない。

 さらに目の部分にはゴーグルのようなものが装着されていたのだが、これが透明ではなかったようで、周りの物が少し黄昏色に染まって見えた。

 目にも悪く、息苦しい。

 早く脱ぎたい。

 もちろんそれは、ばあちゃんも同じだった。


「やっぱり息苦しいわねぇ……。これからずっとこれを着けて過ごすのは、少ししんどいわねぇ」


 ばあちゃんは年老いてるから、俺らよりもそういうことを感じやすいのだろうなぁ。


「ふぉへぇんへぇ。ほひゃあはん(ごめんね。おばあちゃん)」


 それを見た摩夕が申し訳なさそうに頭を下げた。

 ばあちゃんはそれに対して、いいよいいよと慰めてあげる。

 その気遣いに、摩夕はまたしてもむせび泣いてしまうのだった。



「でも……、今回はちょっと特殊なようですねぇ……」


 医者が突然不思議がる。

 その言い方が、最初に落ち着いたトーンからゆっくりと上がっていったので、少し怖く感じた。


「どうやら普通のデントレス病ではないようです」


 こんなことを医者に言われると、俺たち患者はさらに恐怖を感じる。

 何だよ。普通じゃないって。


「デントレス病になると、だいたいの場合は、歯そのものが消えるんですよ。レスするわけですからね」


 そう言われるとそう思う。


「しかし摩夕さんの場合は、歯が消えたのではなく抜けたんですよね?」


 頷くが、その通りだということが怖い俺。そしてそれ以上に怯える摩夕。

 結局何が言いたいの?


「だとすると珍しいケースですね」


 医者は少し目を丸くしている。興味津々な様子で。

 いや。医学的には珍しいことでも、俺たちにそんなことを考える余裕はないからね!


「ちなみに今、抜けた歯とかは持って来ていますか?」

「は、はい。一応持ってきました」


 俺は食品保存用の小さな袋に入れた摩夕の歯を見せた。

 実は早く治るヒントになるかもしれないと思い、念のため落ちていた歯を拾って持って来ていたのだ。

 医者はそれを見るなりこう言った。


「歯の原型はしっかり残っていますね。折れているとか欠けているということもない。ということは、間違いありませんよ」

「何がですか?」

「彼女が失ったのは歯そのものではないということです」


 なるほど。

 ……あれ? それじゃデントレス病じゃないんじゃ?


「まよちゃんが失ったのは、歯茎だったんですよ」


 俺はそれを聞いてハッとする。

 そうか。そういうことね。


「歯茎は歯を支える物。つまり家で言えば土台のような物です。どんなに外観が良くても、土台が無くなってしまえば崩れてしまうでしょう。歯茎もそれと一緒で、どれだけ歯磨きをして歯そのものをきれいにしても、歯茎が弱ければ歯は抜けてしまう。今回のように無くなってしまっても、それは同様です」


 確かに、そう言われると納得してしまう。

 試しにもう一度摩夕に頼んで口を開けてもらうと、それがよくわかった。

 通常デントレス病になって、歯そのものを失ったとしても、失った歯を支えていた歯茎はそのまま残るはずなので、舌の周りに抜けた歯の土台部分が残っていないとおかしい。

 しかし摩夕の場合、歯茎が無くなっているので、歯があった部分は舗装されたように真っ平らになっている。そのため舌の底の部分まではっきりと見えるのだった。


「だとすると、摩夕の歯は戻って来ないんじゃ……」


 摩夕に絶望を与えてしまうとも思ったが、どうしても聞きたかったので聞いてしまった。


「大丈夫ですよ。レス病はその最大の特徴として、治った時に完全に元に戻るというものがある。だから歯茎が現れたと同時に、新しい歯も生えてくるんですよ。現に歯茎を無くした方が、病気を完治させた時に歯がすべて元に戻ったというケースが届いておりますので、おそらく大丈夫でしょう」


 それならいいんだけど……。



「とにかくこれで色々とわかりましたので、診察は終わりです」


 医者は終始、驚くほど冷静だった。


「後、これも渡しておきますね」


 医者はそう言うと、後ろの棚から箱を取り出した。

 ガスマスクが入っていた箱よりも一回り小さな箱だった。


「それは消毒用のアルコール綿です。その箱の中に百枚入っています」


 感染症予防には確かに有効的なものだが、ここまでする必要があるのか。


「レスウイルスの飛沫量が多くなっているので、出来る限りそれを手に塗ってお過ごしください。未然に防ぐことがとても大事になってきますので、お願いいたします」

「は、はあ」

「これから二人はそれをなるべく外さないでください。空気感染のリスクがこれから上がる可能性が高まっておりますので。よろしくお願いいたします」


 よろしくお願いいたしますと言われても困ります。


「それと摩夕さんは外出を控えてください。身体的にも精神的にも病んでいるうえに、学校や職場で避けられてしまう可能性もあります。診断書は書いておきますので、ご安心ください」


 これから摩夕は外にも出れないのか。かわいそうに。


「それでは、お大事に」


 役割を終えた医者は、あっさりとした口調で診察を終えた。



 それにしても、こんな息苦しい生活をずっとしなきゃいけないなんて。

 なかなかにしんどく、耐えられそうにない。

 おまけにウイルス消滅の出口が見えないのだからなおさらだ。


「ひっ……、ひっく……、へえええええん」


 っていかん、いかん。

 そんな気持ちは、摩夕を見てすぐに消した。

 摩夕は俺以上に苦しんでいる。

 歯を無くしたことで、これから様々な試練が襲ってくる。

 絶望と不安しかないだろう。

 それに比べれば、俺は――。

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