むしばまれてしまった妹
床には湯呑みの破片が散乱し、フローリングがこぼれたお茶によって変色している。
「ばあちゃん!? 大丈夫!?」
俺は当然、お茶をこぼしたばあちゃんのことを心配する。
ケガでもしたら大変だ。
しかしばあちゃんは、そんな俺の事が見えていないようだった。
顔は青ざめ、血の気が引いている。
「ま、ま、まさか……」
ばあちゃんの声が震えている。
緊急事態だということがわかる。
しかしこの時点で、まだ詳細なことはわからなかった。
「おばあ……、ちゃん?」
「ダメ! これ以上しゃべるんじゃない!」
今まで聞いたことがない声に俺は驚いた。摩夕も驚いている。
俺たちはその後沈黙した。
「ばあちゃん……? どうした?」
俺が恐る恐る聞いてみる。
「これは……、あれじゃないかい?」
「あれ? あれって?」
「ほら。あの病気だよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺はばあちゃんと同じように血の気が引いた。
「ひっ……!」
そして摩夕を見ると、ばあちゃん以上に顔が青ざめている。
その後先ほどよりも長い沈黙が続いた。
「ま、ま、まさかぁー。たまたまでしょ?」
俺がそう言って気を紛らわそうとする。俺自身がそう思いたかったから。
だが少し冷静になると、その可能性は限りなく低いことがわかった。
摩夕は高校一年生。つまりは十五歳だ。
通常、十五歳になれば、歯はすべて乳歯から生え変わって、永久歯になっているはずだ。
「これで大人の仲間入りだー」
摩夕に関しても、このようなことを言っていた気がする。
だとすれば、たとえ一本であっても、歯が抜けるということはおかしい。
ということは……、まさか、本当に。
「い、嫌だなー。おばあちゃん。そんなことあるわけが――」
「それ以上しゃべるんじゃない!」
またしても聞き慣れない声に驚く俺と摩夕。
「ほげぇぇぇえええええええええ!」
次の瞬間、今度は摩夕が奇声のような声を上げる。
ポト、ポト、ボト、ポト、ボト、ポト、ボト、ボト、ボト、ボト。
その直後、床に何かが落ちる音が聞こえた。
俺はさらに驚き、とっさに床の方に目をやった。
これは……、歯だ!
すべて歯だ!
「ひっ……」
摩夕はさらに顔が青ざめている。いや、それを通り越して気持ちが悪いくらい顔が白くなっている。
「嘘……、だろ?」
すべてを悟った俺も呆然とするしかなかった。
これは、間違いない。
レス病だ。今、巷で流行り出しているレス病だ。
重大な社会問題にもなっている、原因不明の難病、レス病で間違いない。
ついに我が家にもその時が来てしまったということなのか。
「ひがあああああああああああああああ! (いやあああああああああああああああ!)」
摩夕の悲鳴が家中に響き渡る。
その声は、恐怖と絶望に苛まれていたように思えた。
ばあちゃんは床にひざまずいた。散乱した湯呑みの破片など気にせずに。
摩夕は悲鳴の後、自らの顔を手で覆って大泣きした。
現実だと受け入れたくはなかったのだろう。
それは俺もそうだった。
まさかこんなことが本当に起きるなんて……。
それほどまでにレス病というのは、驚異的な病気なのである。
かかってしまったら最後、様々な体の部位が『レス』。つまり無くなってしまうのである。
こんな病気、今まで見たこともない。
具合が悪くなることも、気分が悪くなることもなく、突然無くなってしまったのだ。
摩夕が叫ぶのも当然だと感じる。
「とにかく、早く医者に診てもらいましょう」
なんとかばあちゃんが我に返った。
「あ、ああ。今すぐ行こう」
俺もそれにつられるようにして、我に返る。兄としてしっかりしなければという思いで。
「へぇぇえええええん、へぇぇえええええん、ふぇぇえええええええん」
摩夕はまだ泣き続けている。かわいそうで見ていられない。
とにかく早く医者に診てもらうしかない。
俺たちは近くの小さな病院に駆け込んだ。
病院の中はマスクをした人ばかりだった。
もちろん風邪を引きたくないという理由もあるだろうが、しかし患者の本当の目的はそれだけではないはずだった。
そう。レス病を防ぐため。
巷で流行り出していたこの病を防ぐためというのが、一番の目的であろう。
摩夕はマスクをしていたが、いまだに泣き続けていた。
ばあちゃんはそれを必死で慰めている。
こんなに弱々しい妹を見るのは、彼女がかけっこで転んでビリになってしまった、幼稚園の時以来だ。
最近はあまりにも態度が傲慢なので、妹の弱い姿を見たいとも思っていた。
しかしその姿をいざ見てみると、やっぱりどんな形であれ見たくはないと思った。
そんなことを思っているうちに、摩夕の名前が呼ばれた。
診察室に入るなり、ばあちゃんが医者に病状を説明する。
「突然、歯がすべて抜けてしまったんです」
にわかには信じられない説明だが、これがまぎれもない真実だ。
その後、医者に口を開けるように言われた摩夕は、ゆっくりと口を開く。
俺もそれと同時に口の中を見た。
歯が一本もない!
手前を見ても、奥を見ても、左を見ても、右を見ても、下を見ても、上を見ても、どこをどう見ても、歯が一本も生えていない。
あまりにも非現実的な光景に、俺は言葉が出なかった。
夢にも思えるが、夢かと思ってほっぺをつねることさえも思いつかなかった。
「ああ。間違いないですね。これは」
医者は思ったよりも冷静だった。
何度かこの症例を見たことがあるのだろうか。
「これはレス病の一種で、『デントレス病』ですね」
ついに正式な病名が告げられた。
やっぱり摩夕はレス病だったのだ。
その後、医者がこの病気のことを教えてくれた。
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