自分が宙に浮いている以外は妙に現実めいた場の空気に、菜々美は急に不安になる。


(――まさか)


「そう。その、まさか」


ふいに耳元で、男性の声がした。



驚いて天井近くまで飛び上がった菜々美は、下を見下ろし、声の主の姿を探す。


「ここだよ、ここ」


また、耳元で声がした。


「ひっ」


今度は壁まで勢いよく後ずさり、菜々美と同じように宙に浮いている男性を凝視した。中肉中背だが癖のないサラリとした黒髪と、すっきりとした目鼻立ちの、まぁイケメンといってもいい部類で、二十代半ば頃に見える。が、その顔はとても不機嫌に歪んでいた。


「なんだよ、驚くことないだろ」


「驚くでしょ! あなた、誰」


 訊ねながら、どこかで見た顔だと思って菜々美は首をひねる。


「誰って……お前のせいで俺までこんな目に合ってるんだからな。ふざけんなよ、飛び出しやがって」


「はあ? 飛び出すって何」


「信号無視しただろ! お前にぶつかって動揺したせいで、ハンドル操作を誤って対向車線に出ちまったんだよ! で、運悪く大型トラックにぶつかって……」


その言葉を聞きながら、耳障りなブレーキ音を思い出す。


――この音……崇人の部屋に行く途中で……


認めたくない現実に気づいた菜々美は、目をむき出して自分の遺影を凝視する。


「やっと分かった? 死んだんだよ、お前。俺を巻き添えにして。ったく、迷惑極まりない女だな」


「巻き添えって……交通事故は、たいてい車のほうが悪いじゃん」


男の口調にかちんときた菜々美は、思わず言い返してしまった。


「ふざけんなよ。赤信号無視したほうが悪いって、小学生でもわかるだろ! あほか」


男の顔がさらに歪んだ。その迫力に怯んだ菜々美は、もごもごと歯切れ悪く謝罪する。


「そりゃそうだけど……ああ、もう。す――すみませんでした……?」


「謝れば済むって問題でもないしな。俺、死んだんだし。ケガならまだしも、取返しがつかないことをしたって自覚はあるのかよ」


「自覚もなにも、目が覚めたらいきなり自分の葬式だったんだから! そんなに責められても……頭が追い付かないっていうか……。え? ということは、私、幽霊ってこと?」


菜々美は慌てて自分の足元を確認した。宙に浮いてはいるが、ちゃんと両足ともついている。そんな菜々美を睨み付けながら、男は淡々とした口調で答えた。


「そうなるな」


「じゃあ、あなたと私は幽霊仲間ってこと?」


「心底仲間とは思いたくないが、そうなるな!」


男は今度はやや切れ気味に答える。


「……でも私……」


つぶやきながら、菜々美は崇人の頭を見下ろした。


「やだ。まだ死にたくない! だって崇人とデートに行く途中だったのに! 下着だって奮発して新調したのに!」


大声でわめいても、目の前の男以外には誰にも聞こえていない様子だ。


「それはご愁傷様」


男の皮肉も耳に入らず、菜々美は崇人のもとへ飛んでいく。


「ねえ、崇人! 私、ここにいるよ! お父さん! お母さん! お姉ちゃん!」


目の前で叫んでも、誰一人として反応してはくれない。


「なんで誰も気づいてくれないのー! ああ、うちの家族に霊能者がいれば……崇人に霊感があれば……」


今まで霊感の必要性など感じたことはなかった菜々美だったが、生まれて初めて、そのことを心底残念に思ったのだった。

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