第3話 孤独のランナウェイ

「まっ、待ってくれぇ! 俺を置いていかないでくれぇ!!」


 遠ざかる連中に向かって俺は声を張り上げていた。

 どんだけ早く脚を動かしても、追いつくどころかその距離は開いていく。


 意味がわからない。

 なぜ俺の足はこんなにも遅い……?

 いや、違う。俺が遅いんじゃなくて……俺以外の連中が速いんだ。


 まるでパワードスーツを着込んでいるかのように速い。

 体重百キロは超えていそうな巨漢も、運動神経がまるでなかったクラスメイトの女子ですら、俺とは比べ物にならない。


 それでも俺は走って叫んで腕を伸ばした、遠く離れていく友人たちに助けを求めるように……だけど。

 俺の声に気が付く者なんて皆無。

 誰もが突如襲ってきた恐怖から逃れようと正面だけを見据え、振り返ることはない。


 いや、違う。気付かないのではなく。振り返る余裕なんて誰にもないんだ。

 この状況で後方を気にする余裕なんて、ましてや他人を気遣う余裕なんてある訳ない。


 ただみんな、死にたくないと必死だったんだろう。

 見たこともない。得体の知れない怪物が全速力で刃物を手に、数百匹の群れをなして迫ってきているんだから、当然だ。


 だけど、俺だって死にたくない。怖いんだ……。

 頼む、お願いだから誰か俺に気付いてくれ。

 藁にもすがる想いで俺は手を伸ばし、喉が張り裂けるくらい叫んだ。


「助けてくれぇえええええええええっ! 俺を置いてくなああああああっ!!」


 鼓動は今にも爆発寸前、感情は高まり鼻水と涙が滴り流れゆく。

 視界の先に写ったこの手は霞み、追い討ちを掛けるように後方からは大地を揺らす地響きが迫り来る。


 俺は咄嗟に走りながら首を回して後方を確認した。


 この世のものとは思えない化物はすぐ背後に迫ってきている。

 俺は野兎で、この化物たちは獲物を狩るハイエナ。

 逃れることなどできない。これが捕食する側とされる側なのだ。


 生まれて初めて捕食対象となってしまった恐怖に、俺は何年か振りに泣き叫んだ。

 この世に生を受けたばかりの赤子のように喚いた。

 恐怖心は体を鎖で拘束するかの如く巻き付き、死神が俺の首元に大釜を押し当て、嘲笑う。


 地獄のそこから這い出た骸が足首を掴み、下半身にまとわりつくと。ただでさえ遅い俺の体は失速し、走ることを放棄しようとする。

 違うっ! そんなのはただの錯覚だっ!

 恐怖がこの体を支配し、体力ももう限界で、徐々に動かなくなっていたんだ。


 おしまいだ……。俺は一人で死んでいく。

 一度失速した体は、この脚は再び走ることを拒絶し、俺の体は地に崩れゆく。


 夏の終わりを告げる冷ややかな風が、灰色に染まる海が、築き上げた砂の城を消し去るように。

 俺の体躯は地面に張り付いた。


 だが、その時――

 俺の視界に希望の光が差し込む。

 それは陽の光を反射して、”諦めるな”と俺に強く問いかける。

 左手にしっかりと握られていた小さな小瓶。


 ヴァッサーゴは言った。


『――お客様が窮地に陥った際、それを飲み干せばお客様は必ず助かります』


 あんな胡散臭い奴の言葉を本気で信じていたわけじゃない。

 こんなものを飲んだくらいで助かるなんて思っちゃいない。

 だけどっ!!

 俺にすがるものはこれしか残っていない。


「うあ゛わ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」


 俺は震える手で素早く小瓶の蓋を外し、一気に喉の奥へと流し込んだ。

 ひどく酸っぱくて、レモン百個分の果汁を口内で絞り出されたような味。

 飲み干した俺は全てから逃げるため、頭を抱え目を瞑り、その場に伏せ込んだ。


 ――刹那。


 四方を取り囲むような爆音が鼓膜を揺らし、脳に直接音が叩き込まれる。

 母なる大地が怒り狂ったように俺の体を振動させること――数秒。

 悪夢のようなそれは徐々に遠ざかり、次第に揺れは収まり音が小さくなっていく。


 どうなっているんだ……? 助かったのか……?


 俺は恐る恐る体を起して周囲を確認するが、そこには何もいない。

 先ほどまで確かに迫ってきていたはずの化物が一匹もいないんだ。


 何がどうなってるのかわからない俺が遠く前方に目を向けると、そこには先ほどの化物の小さな後ろ姿が見える。

 化物は俺に気付かずに走り去ってしまったのか?


 そんな幸運があるのか?

 と、思った次の瞬間――

 視界に文字が浮かび上がった。


 《霊体化が発動されました》


 なっ、なんだ!?


《効力 霊体化することで他者からは使用者の姿が見えなくなります。ただし音や臭などは消えません。持続時間は15分》


 仕様書きのようなものが視界に浮かび上がり、すぐに理解した。

 間違いなくヴァッサーゴに貰ったあの酸っぱい液体のことだろう。

 あれは早い話が透明人間になるための薬だったという訳だ。


 透明人間になったことでオークの群れは俺を見失い、駆けて行ったということか……。

 未だ鳴り止まない胸の鼓動を抑えながら、自身に起きたことを必死に理解していると。

 どこからともなく断末魔の叫びが響いてくる。


 それは山彦のように幾重にも重なり、降りしきる雨のように途切れることなく何度も俺の耳朶を打った。

 悲鳴はみんなが逃げ、オークたちが駆け抜けて行った方角から聞こえてくる。


 俺は息を呑み、耳を塞ぎたくなるほどの畏怖に身を堪えながら立ち上がっては、遥か前方を見据えた。


 一体何が起こっているんだ……?

 考えたくはないけれど、みんなオークの大群に追いつかれてしまったということか?

 だとしたら、この声は……。


 俺は頭を振って、脳裏に過ぎったそれを振り払う。

 そんな最悪のことは考えたくもない。


 とにかく、こんなところに一人置き去りにされるのは嫌だ!

 もちろん。オークの元に向かうのは死ぬほど嫌だけど……一人で生き抜けるほど俺は強くはない。


 それに、みんなの足の速さがステータスと関係しているのなら。

 力とか耐久が高い者ならオークを倒している可能性もある。

 そんな淡い期待を抱いて、俺が一歩足を前に踏み出したとき。


 視界斜め左上に数字が浮かび上がっていることに気が付いた。

 それはタイマーのように徐々に数字が減少している。


 14:08から14:07……。

 感覚的に一秒毎に減っている。

 おそらく先ほど飲んだ薬の持続時間を示しているのだろう。


 こうしちゃいられない。この薬の効果が続いている間に誰かと合流しなくては。

 オールFの俺ではオークに勝つことは不可能でも、高いステータスを保持している者なら可能かもしれないんだ。


 俺は恐れを振り払うように走り出した。


 ただ、死にたくはないと。

 一人にされるのは嫌だという思いだけで、俺は疲れきった脚を何度も振り上げ前進した。



 その先になにが待ち受けるかも知らずに……。

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