第619話 三十六計逃げるにしかず

 手のひらに拳を打ちつけてバシバシと音を鳴らす紅の長は、既に臨戦態勢に入っており、九鬼に対する威圧感が半端ない。


「さっさとやるぞ、下等生物」


「ふ、不戦敗でいいです」


 早くも戦わずして逃げようとする九鬼だったが、火のついた紅の長を止めるすべは今の九鬼にはなかった。かと言って、他の者がそれを止められるわけでもない。クララは除くとして。


 だが、そのクララが焚きつけたということもあるので、ケビンの嫁たちは静観を決めこんでいる。そのような、ある意味四面楚歌の状態である九鬼に対し、思いもよらないことが起こる。


 それは、九鬼を擁護するものではなく、逆に紅の長を援護する外野からの言葉だった。


「桃太郎! 男なら受けてたて!」


 その声の主に九鬼が視線を向けると、そこには東西南北よもひろに殴り飛ばされ伸びていた月出里すだちの復帰した姿があった。


 その月出里すだちは、気絶から目覚めた時に自身で回復魔法でもかけたのか、東西南北よもひろから受けたダメージは尾を引いてないように見える。


「外野が口を挟むな」


 あからさまに嫌悪感を示す九鬼だが、これで引くほど月出里すだちは賢くない。むしろ、馬鹿のままである。


 その月出里すだちが目覚めた時には、既に紅の長は人化しており、相手がドラゴンだということに1ミリたりとて気づいていない。月出里すだちの頭の中にあるのは、目が覚めたら何か知らないけど、特攻服に身を包んだカッコイイ漢が喧嘩上等を背負い、漢らしさを見せているということだけだ。


 ならば、それに応えるのが漢というもの。


 奇しくも、おバカなヤンキーである月出里すだちの至った結論はそこである。


「男がタイマン勝負から逃げてんじゃねぇ! テメェも男なら戦ってみせろ!」


 完全に余計である月出里すだちからの言い分にイライラした九鬼は、紅の長をそっちのけで月出里すだちとの間合いを詰めると、思いきり殴り飛ばした。


「ぐぁばっ!」


 そして、殴られた月出里すだちは、せっかく回復して戻ってきたというのに、九鬼によってまたもやリングアウトしてしまい、意識を手放すハメになったのだった。


「ふぅ……少しだけスッキリしたな」


 ほんの少しだけスッキリした顔つきでそう呟く九鬼だったが、それを見ていた一部の勇者たちは一様に唖然とする。まさか、この状況において仲間を殴り飛ばすとは思いもしなかったのだ。


 それと同時に九鬼の過去を知る女子たちは、その有無を言わせぬ情け容赦ない一撃に対して、鬼神と言われていた九鬼のヤバさ加減を再認識してしまうのだった。


 だが、そのような時に轟音が鳴り響く。


 それは、今まで九鬼が立っていた場所が土煙にまみれることによって、どこが発生源なのかは周りの者にもすぐにわかった。


「……ほう……今のを避けるか」


 風が吹き土煙が晴れると、地面虐待の影響でできたクレーターの中心に立っていたのは、奇襲をかけた張本人である紅の長だ。


「ちょ……いきなり襲ってくるとか、何してんですか!?」


 少し離れた所からそう叫ぶのは、紅の長の攻撃を避けていた九鬼だ。


「てめぇが、いつまでも煮え切らねぇからだ。今から俺様の俺様による俺様のための強制バトルの開始だ」


「理不尽なっ!?」


 九鬼がいくら抗議しようとも相手はドラゴンであり、更にその中でもレッドドラゴンを統べる長のドラゴンだ。人間の理屈が端から通用するはずもない。


「おら、次いくぞ!」


 九鬼がぎゃーぎゃーと抗議の声を上げている中、紅の長は聞く耳を持たず戦いを優先して、再び九鬼に襲いかかる。


「おらぁ!」


「ひっ!」


「そらぁ!」


「ちょ……」


「まだまだぁ!」


「危なっ!?」


「やっぱり狩りは楽しいぜ!」


「俺は全然楽しくないですよ!!」


 紅の長が九鬼に対して襲いかかってからというもの、楽しげに殴りかかる紅の長とは対照的に、九鬼は必死な形相でそれを避けては逃げている。その光景は、完全に紅の長から遊ばれている状態だ。


 そのような場外乱闘が繰り広げられている中で、いち観客と化していた東西南北よもひろに対し、ダーメが口を開いた。


「今のうちに逃げるぞ」


 その言葉を聞いた東西南北よもひろは、驚きで目を見開く。


「はっ? 逃げるってなんだよ!?」


 闖入者という乱入者によって状況はグダグダとなってしまっていたが、東西南北よもひろの目的は未だ何ひとつとして達成できていないのだ。その状況で逃げるなど、せっかく使役したドラゴンをやられた東西南北よもひろのけしかけ損である。


「お前を守りながらじゃ、存分に戦えない。少なくとも警戒すべき相手が2人いる」


 そして、ダーメの語る内容は乱入してきた紅の長と、その紅の長を殴り落としたクララのことだった。ダーメがパッと見で得た情報では、東西南北よもひろを気にしながらだと、存分に戦えないと判断したゆえの説明だ。


 その話を聞かされた東西南北よもひろは、苦虫を噛み潰したような表情になる。


 東西南北よもひろ自身の中では、ドラゴンをけしかけ勇者たちに手も足も出させず蹂躙し、高みの見物を終えた後には、女子たちに奉仕させるという未来予想図を描いていたからだ。


 それが蓋を開けてみれば、連れてきたドラゴンたちはほとんど狩られてしまい、今となっては自身の乗るブラックドラゴンと、硬さが売りのブラウンドラゴンしか残っていない。


 ――せめて、一人。


 手ぶらで帰るわけにもいかない東西南北よもひろは、辺りを見回しながら簡単に連れ去ることのできそうな獲物を物色し始める。そして、その物色が終わると、念話を使ってブラウンドラゴンに指示を出した。


 それからというもの、あとは逃げるタイミングをダーメが図るだけとなり、ついにその時がきたところで、東西南北よもひろはブラックドラゴンを羽ばたかせて飛び立つ。


 そして、九鬼と紅の長の対戦を見ていた勇者たちは、一目散に逃げ出す東西南北よもひろの行動に気づいて唖然としてしまう。


 それもそのはず。いきなりやってきて偉そうに喋っては、ドラゴンをけしかけてふんぞり返っていたのに、何も言わずに飛び去ってしまったのだ。


 その一連の行動は、勇者たちにしてみれば何が何だかわからない。そして、皆が一様に思い浮かべるのは、いったい何をしに来たのだろうかということだ。それは、ケビンの嫁たちにしても同様である。


 そのような中で、気配を消していたブラウンドラゴンが東西南北よもひろからの指示通りに動き、唖然としている女子の1人を前足で器用に掴むと、そのまま東西南北よもひろの後を追うようにして飛び去った。


 その一連の行動に対して勇者たちは、東西南北よもひろに注視していたこともあり、ドラゴンという巨体が動いたにもかかわらず全く反応できずにいた。


南足きたまくらさん!!」


 我に返った勅使河原てしがわらがそう叫ぶと、周りの勇者たちもハッとして口々に南足きたまくらの名を叫ぶ。


 そして、慌てだした勇者たちは、魔法を唱えてはブラウンドラゴンを止めようとして闇雲に撃ち放っていた。


 だが、当のブラウンドラゴンは、既に魔法が届きもしない上空まで高度を上げていて、撃ち放たれた魔法はかすりもしない。


「ダメだ! 届かない!!」


 止め処なく勇者たちの焦燥感が増していく中で、誰とはなしに叫んだ。


「せ、戦車だ! 魔導砲で撃てば――」


 その言葉を耳にした勇者たちの視線は、ケビンから戦車を貸し与えられているあずまたちへと向く。そして、いちじくも同じ結論に達していたのか、あずまへ魔導砲を撃つように主張した。


 だが、あずまから返ってきたのは否定の言葉だった。


「どうして撃たないのよ! 仲間が攫われたのよ!」


「どうしても何も、当てたあとのことは考えているのでありますか?」


「当てたあとは南足きたまくらさんが助かるだけじゃない!」


「ふぅ……ヤレヤレでありますな」


 ヤレヤレなポージング付きであずまがそう言うと、それを見せられたいちじくは怒り心頭になり口を開こうとするが、続くあずまの言葉により、言い返せなくなってしまう。


「仮に魔導砲が当たったとして、それを受けたドラゴンが怯み、掴んでいる南足きたまくら氏を離してしまった場合、あの高さから人が落ちて無事に済むわけがないであります。確実に即死は免れないかと。早い話が、目にする光景は地面に叩きつけて潰れたトマトでありますな」


 あずまがトマトという代替えによってオブラートには包んでいるものの、それを耳にした勇者たちは一様に想像するつもりはなかったのだが、南足きたまくらが地面に直撃してミンチになっている姿を想像してしまい、顔色を悪くしていた。


 そして、中には肉パで食べた肉が胃から逆流しそうになったのか、「うっぷ……」と声を上げる者までおり、そのような光景を目にしつつも、あずまは続きの言葉を発する。


「で、あるからにして、ここはひとまず、ケビン氏の奥様方に頼るのが最善かと思われますが、何か?」


 落ち着いているあずまが提案した内容を耳にした勇者たちは、マリアンヌたちに直接頼み込むのは気が引けるのか、そういう役回りをしてくれそうな者へ視線を向ける。


 すると、その視線の先には、まとめ役である勅使河原てしがわらが、予想通りの展開と言わんばかりにため息をついている姿があった。


「……香華きょうか、皇后陛下たちにお伺いを立ててくださいます?」


 勅使河原てしがわらが親友という身近な存在であり、しかもケビンの嫁である弥勒院みろくいんに対してそう言うと、弥勒院みろくいんは二つ返事で引き受け、マリアンヌたちの所へと駆けていく。


 そして、弥勒院みろくいんの後ろ姿を見送った勅使河原てしがわらは、次に、未だ我関せずで九鬼をいたぶっている紅の長へと視線を向けるのだった。


「あちらはあちらで忙しそうですわね」


 その紅の長から襲われている九鬼は、ダメージを受けつつも必死になって逃げ回っているが、体に蓄積したダメージによって開始直後ほどのキレがない。既に気力だけで体を動かしているように見受けられた。


 その様子を眺めている勅使河原てしがわらは他人事であるためか、弥勒院みろくいんたちの話が纏まるまでは、今しばらく紅の長の相手を頑張って欲しいと思うのであった。


 一方で、マリアンヌたちのところに向かった弥勒院みろくいんは、すぐさま解決策がないかの話を切り出していた。


 それによって出た案は、クララかアブリルに追ってもらうというものであるが、その二人からは否定的な意見が上がる。


「よその男の前で裸になると、主殿が不貞腐れるでな。この場で【龍化】はできぬよ」


「ドラゴンとしてはおかしいのでしょうが、私も主様以外に肌を見せたくはありません」


 そう言う二人は己の羞恥心から断るのではなく、あくまでもケビンが絡むからと、真っ先に上がった案を受け入れられない姿勢を見せた。


 そうなると、次はどうするかの話し合いが行われるのだが、行き着く先の終着点は口には出さないものの“ケビンに頼る”という、マリアンヌたちからしてみれば甚だ不本意な結論しか頭に思い浮かばない。


「これだけのメンツが揃っておきながら、結局のところケビンに泣きつくしかないのね」


 マリアンヌが代表して皆同じであろう気持ちを吐露すると、それを聞く一同の中からクララが申し訳なさそうに口を開いた。


「すまぬの……せめて男どもがおらねば後を追えたのだがの……」


 そして、皆がため息をつく中で、1人考え事をしていた弥勒院みろくいんが盲点とも言えるべきことを告げる。


「男子たちに目を瞑ってもらって、あっちを向かせるのはダメなの? その間に変身したら、男子たちに裸を見られたことにはならないよ?」


「ん…………っ!? そ、そうよ! その手があるじゃない!」


 弥勒院みろくいんから出た提案に対して、マリアンヌが我が意を得たりと言わんばかりに賛成するも、残念ながらここにいる男たちは聞き分けのいい者たちだけではない。


 ただ1人、手に負えない厄介なやつがいることを弥勒院みろくいんは失念していた。


 そして、そのことを指摘するためにクララが再度口を開く。


「それは無理だの。紅のやつが指示に従うとは思えん」


「クララさんが言ってもダメなの?」


「あやつの価値観はドラゴンそのものだ。【龍化】する相手から、目を背ける意味など理解せぬであろう。私らにとってドラゴンの姿が本来の姿であって、人の姿は余興に過ぎぬからな」


 結局のところ、当然のことながら服を着るなんて文化のないドラゴンは、人で例えるなら真っ裸で過ごしているということに帰結する。


 それゆえに、『裸を見るな』と言われたところで、『常日頃から裸だろ』という当たり前の返しがくるだけだ。


 そして、力あるドラゴンが人の姿を取った時に服を着ているのは、ただ単に人の文化に合わせているだけである。クララとて当初、ケビンと出会った時に【人化】した時は、指摘されるまでは裸のままだったのだ。


 長年生きてきたクララが、今さら人の価値観に合わせて矯正するわけもなく、ドラゴンの価値観を持ったまま、ケビンが嫌がるようなことだけは避けるよう図らっているだけである。


 それにケビンもケビンで、クララに対して人の価値観を押しつけるような真似はせず、最低限これだけはやめて欲しいということだけを守らせているだけだ。


 その中の1つが、先程クララが言った“ケビン以外の男の前で裸にならない”ということになる。家族である子供たちは別として。


 そして、その子供たちも結局のところ、思春期に入れば母親たちと一緒にお風呂に入るということはせず、自然と兄弟で集まって別の時間帯に入るというところに落ち着くことになる。姉妹は同性のためか、特に気にもせず母親たちと一緒に入るのだが。


 ゆえに、クララが躊躇いなく裸になってもケビンが何も言わない状況は、家族である子供たちや女性たちの前だけとなるのだ。


 たまに、ケビンとクララが“よいではないか”プレイで遊んでいるところに、思春期の息子が現れるというハプニングに出くわしたりもしてるが。


 ――閑話休題


 妙案と思えた弥勒院みろくいんの提案が、招待すらしていない紅の長のせいで却下になると、いよいよもってマリアンヌはケビンに報告する旨を皆に告げ、指輪の通信機能を使い、ケビンに連絡を取るのであった。

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