7-2
智幸さんのカメラが壊れた。
金曜日の放課後。
用事で遅れて部室に行くと、宗也くんがいつになく早い口調で説明をしてくれた。
宗也くんが来た時にはすでにカメラが壊れてしまっていたこと。どれだけ電源を付けようとしてもまったく反応してくれないこと。
カメラを手にあくせくする宗也くんを横目に、私の心はまったく騒いでいなかった。それどころか、安堵の念すら覚えてしまっている自分が居ることに驚いた。
喉が詰まる。何も話せない。
どうして。
わたしは、なぜ安心してしまっているのだろう。
頭の中がこんがらがるようで、だけど内心はひどく落ち着いていた。
結局、翌日に智幸さんが来てくれることになり、今日の活動はなくなった。
しばらくは夜の観測会もないだろう。
これで私の夢がわずかに遠ざかってしまった。
みんな気まずそうに口を閉じてしまっている。もしかするとわたしに気を遣ってくれているのかもしれない。それとも智幸さんのカメラを壊してしまったことへの罪悪感にさいなまれているのだろうか。
わたしは、そのどちらでもなかった。
気味が悪いくらいに平静で、どこか冷めた目つきで宗也くんたちを見つめている。
普段のような軽い言葉も出せず、かといって真剣に悩む事もできない。それがある意味、一番の苦痛に思えた。
消沈する二人を見るに堪えず、わたしは一番に部室を出ていった。
逃げたのだ。
わたしだけ平気な顔をしているところを二人に見られたくは無かった。
足早に駐輪場へと向かい、自転車に乗って校門を抜ける。長く続く坂道を颯爽と下っていった。
道が平坦になってからは宛てもなくのろのろと走らせる。見知らぬ路地に入り、そこでやっと足を止めた。
「……さて、どうしようかな」
家に帰ればお母さんが待っている。今のうちに帰れば怒られるような事は無いだろう。またあのような口うるさい暴言の嵐を聞かなくて済むかもしれない。
足をかけたペダルに一瞬だけ力を込め、しかしすぐにやめた。
自転車のスタンドを下ろして一息つく。
いったい、わたしはどうしてしまったのだろう。
気持ちの整理がうまくできない。
日が暮れるまで、わたしはずっと路地に立ちつくしていた。
家に帰ったのは結局いつもとそう変わらない時間だった。
観測会をする日ほど遅くはないが、お母さんは例によって不機嫌だった。
その日は家族揃ってリビングで夕食を食べた。カレーだった。
両親と三人で食卓を囲む。
広々としたリビングには、高価な食器が並んだアンティークの戸棚や大型のテレビが置かれている。艶のかかったフローリングには埃も一切見当たらない。テレビ台の上に置かれたたくさんの猫の小物は完全にお母さんの趣味だ。
テレビでは、有名なお笑い芸人が司会をしながら奇声に近い笑い声をかき鳴らしている。ギャグも滑っているし、これではせっかくのカレーが不味くなる。どうせならば気分よく食べたいものだ。
お父さんが熱心に見ているようで、テレビの客が笑うのと同時にお父さんもげらげらと笑っていた。唾がこっちにまで飛んできそうで、正面に座るわたしは、こっそりと眉をひそめながらお皿を手前に寄せた。
「この芸人は面白いなあ」
「そうね」
お父さんの言葉にお母さんが頷く。
わたしはただ、カレーを食べる事に専念した。
「このアイドル、あんまり可愛くないなぁ。菜摘のほうが可愛いんじゃないか」
「そうね。まあ、自慢の娘をこんな衆目の前で晒したくは無いけれどね。変な輩が集まって来ちゃうわ」
「そうだな」
テレビを見ながら、二人でくだらない会話を続けるお父さんとお母さん。
割って入ろうともせず、わたしはただ聞き流す。
以前、智幸さんが教えてくれた神話を思い出した。
ケフェウスとカシオペヤ。娘のアンドロメダは、親バカとも言える親の過ぎた愛情のせいでひどく苦しめられることになってしまう。
そこまで自分を悲劇のヒロインと言うつもりは無いけれど、わたしはきっと、そのアンドロメダなのだ。
ただ、わたしを食べようとするクジラの姿も見えなければ、ペルセウスのように希望をもたらしてくれるものも見当たらない。
いや、あるいは――。
「お、性格診断だとよ。菜摘、お前もやってみろ」
やっと食べ終わってティッシュで口許を拭っていると、お父さんがわたしに言ってきた。
無視をすると酷く怒る。
だから視線だけでもテレビに向けた。
どこかで聞きなれたアナウンサーが設問を述べている。一つずつ出されていき、それに答えていった最終的な総論で性格をみつけるというよくある診断だ。ゆっくりとしたペースで出されていく設問をお父さんたちは真剣に答えていた。
何を必死にやっているのだろう。
そんなことで、わたしの何がわかるのか。
うつろな目でテレビ画面を見つめる。
数問目の設問にさしかかり、わたしはふと目を見開いた。
その設問は、非常に簡単なものだった。
目の前に置かれている宝箱を、開けるか開けないか。だけど宝箱は二つあって、どちらか一つしか開けられない。片方は金銀財宝。もう片方は苦しみながら死んでしまう猛毒のガス。でもどっちかわからない。それを目の前にしてどうするのか。
「菜摘ならどうする?」
「…………え」
お父さんの言葉に、わたしは素っ頓狂な声を出していた。
すっかり見入ってしまっていたのだろうか。
お父さんがわたしの顔を見ていることすら気付かなかった。
なぜか無性に悔しくなり、食べきったカレーのお皿を持って勢いよく席を立った。
「わからない。ごちそうさま」
キッチンの流し台に食器を置き、水に浸す。お父さんたちに何かを言われる前に、わたしはそそくさとリビングを後にした。
部屋に戻って明かりもつけずベッドに倒れ込む。
やっぱり、柔らかくて気持ちいい。
大きく息を吸って目を閉じた。
「どうするって……」
ぼんやりとした頭で、さっきのテレビの設問を思い出す。
わたしには答えられなかった。
開けられない。その先に待っているかもしれない恐怖に身をすくめ、ただどちらかが勝手に開いてくれるのを待つことしかできないだろう。
必ずしも幸福が訪れるわけではない。
約束されていない未来。
それは無責任なほど不確かで、踏み出そうとするわたしを足を引き留める。
わたしはひどく臆病なのだ。そのくせ自分勝手で、傲慢な性格をしている。自覚してしまっている分、それもそれで性質が悪い。
みんなならどうするだろう。
美晴ちゃんや智幸さんだったら。
開けるのだろうか。それとも、開けないままでいるのだろうか。
「部長くんなら、強欲にどっちも開けちゃいそうだな」
いつかの買い出しの時のように、わたしが迷っている目の前で、何気なく宝箱を開けてしまうのだろうか。猛毒も恐れずに。
光景を想像して、わたしは思わずくすりと息を吹き出してしまっていた。
それができればどれだけ楽な事だろう。
一度は綻んだ口許から、あっという間に笑みがひいていく。
――ああ、わたしはなんてちっぽけなんだろう。
単純な答えすら出すことができない。
いろんな事にがんじがらめにされて、まるで身動きの取れない籠の鳥のよう。ずっと待ち望んでいた外の世界が目の前に広がっているというのに、羽ばたくことを恐れ、安心だけは保障されている籠の中に居留まってしまっている。
翼を広げられるだけの勇気が、わたしには無いのだ。
箱を開けられるだけの勇気が、わたしには無いのだ。
うつ伏せになって枕に顔を埋めた。
胸を押しつけた息苦しさが、わたしをより心細くさせる。
視界が黒一色になった。
奇妙な静寂に満たされ、心臓の鼓動すらも届いてこない。
「開けないままじゃ……ダメなんだよね」
呟いた声はこもり、吐いた湿り気のある深い息はわたしの顔にぶつかって、醜く悲愴に歪ませた。
静かに、夜は更けていく。
わたしの中にある箱は、まだ固く閉まったままだった。
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