第7話『素顔』 Side菜摘
7-1
なにもかもが悪い冗談に思えた。
だからわたしは――。
「菜摘、今何時だと思ってるの?」
疲労の溜まった両腕で玄関の扉を押し開けたわたしを待っていたのは、ひどくうるさいお母さんの怒り声だった。
火山が噴火でもしたかのような言葉がわたしへと降りかかり、しかし、浴びた火の子は驚くほどに冷たい。私の心までをも一瞬にして凍りつかせるようだった。
「ごめんなさい」
「まだ高校生なのにこんな夜遅くまでふらついて。危険だって思わないの?」
「ごめんなさい」
「そんなに遅くばかりになるような部活、やめてしまいなさい」
「ごめんなさい」
いつもと変わらないやりとり。わたしは、ぶつけられる金切り声にただ謝辞の言葉を繰り返す。そうすればいつかは終わるとわかっているのだ。
父も母も、わたしを大事にしてくれた。
過剰なほどの愛情を注いでくれた。
父が一流企業に勤めていて、お金に困る事はまったく無かった。
ただ、仕事の都合上で引っ越しが多くなるため、ずっとマンション暮らしだ。それでも一般家庭よりもずっと裕福な暮らしはできていただろう。
お小遣いが欲しいと言えばすぐに貰えたし、何かの記念日には欠かさずケーキを並べてお祝いされる。
その反面、わたしの自由は束縛される。親が勝手に決めた習い事に行かされたり、テーブルマナーなどの作法を教えられたり。近所のスーパーに出かけるだけでも、どこに向かうのかを言ってから出なさい、としつけられてきた。
一人娘という事もあるのだろうが、鬱陶しいほどに過保護な親だった。
「ご飯、あるわよ。もう冷めちゃってるけど」
「いらないよ。お腹すいてないから」
「ちゃんと食べなさい」
睨むような目つきでお母さんはわたしを見てきた。リビングのほうからお父さんもこっちを見つめている。目つきの厳しさから、わたしの味方ではないのだとすぐにわかった。
仕方なく、わたしは夕食を食べた。お母さんが温め直してくれたスープは美味しかったし、つなぎの使われていないハンバーグはボリュームたっぷりだった。お酢のドレッシングがかかったサラダが、油でまみれた口内をさっぱりしてくれる。
だけど、全ては食べきれない。
つい数時間前に宗也くんたちとおにぎりを食べたばかりなのだ。
半分ほどだけ手を付け、私は席を立った。
「お風呂が沸いてるから入りなさいよ。お湯が温かったらもういちど温め直して良いから。あと、パジャマは押し入れにしまっておいたから、そこから出してね」
「うん、わかったよ」
わたしは投げやりに返事をして自室に向かった。
部屋に入り、扉を閉める。
制服を着たまま、わたしはベッドに倒れ込んだ。
柔らかなマットレスが、疲れ果てた身体を優しく受け止めてくれた。
大の字に天井を仰ぐ。
照明の消えた部屋は、夜の静かさに満ちていた。
天文部の活動は順調だ。わたしの目標にみんなが力を貸してくれる。達成だって、もう夢ではないような気すらしていた。
大丈夫。問題は無い。
全てが上手くいっている。
わたしは大人になりたかった。
どんな大人でも良い。
とにかく、大人になりたかった。
わたしはいつまで、こんな檻の中にいなければいけないのだろう。
口から出るのは不自由な家庭への不満ばかり。
かといって飛び出す勇気もなければ、その折を壊す力すら持ち合わせていない。
籠の中で育ち続けた鳥は、外の世界に飛び出ても、餌を食べる事ができずに死んでいく。何もしなくても不自由のない生活にずっと甘んじていた鳥が、過酷な外界で生き残る術など持ち合わせているはずがないのだ。
だけど、わたしは違う。
そんな籠の鳥とは違うのだ。
わたしはもう、成長した。いつまでも子どものままではない。
別に達成する目標が新星である必要はない。
ただ、たまたまそう思い至った時にニュースで見かけた新星発見に感化されたせいだ。画面の向こうでとても称賛されている学者風の男性が、わたしにはひどく輝いて見えた。
だからわたしは新星を見つけるのだ。
評価を受ければ、それはきっと大人だと認めてもらえるに違いないから。
新星を見つけることで、それを証明してみせるのだ。
羽ばたいてみせる。遠くへ行ってみせる。
父も母も、子ども扱いしないでくれるはずだ。
だけど――。
全ての思考をやめ、わたしはじわじわと襲ってきた眠気に身を任せることにした。
ああ、着替えてないや。まあ良いか。
重くなった瞼を閉じる。
何もかもを忘れられるこの瞬間が、人生で最も幸せなのかもしれない。
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