6-2

 当たり前のように朝はやってくる。


 と言っても、僕が起きたのはもう昼と言ってしまってもいいような時分だ。随分と寝過ごしてしまったらしく、目を開いた途端に身体が重く感じた。


 洗面所に向かい、乱れた髪を整える。歯を磨いているうちに瞼がゆっくりと持ちあがってきた。口をすすいだ時の冷たさが意識をより覚まさせてくれる。


「さて、行くか」


 人前に出ても恥ずかしくない程度に身なりを整え、家を出た。


 ちょうど昼くらいだった。宗也くんたちには「昼に向かう」としか連絡を入れてないので、もしかすると遅いくらいかもしれない。


 白いシャツとジーンズというぱっとしない格好のまま、僕はショルダーバッグを片手に自転車を走らせた。


 土曜日の昼間。

 長く引きずった残暑も弱まり、それでも街角にはまだ半袖を着た人たちが目立つ。


 昼間でも若い子たちの姿が見受けられるのは週末だからこその光景だ。ゲームセンターやコンビニには、派手に髪を染めた子や随分と服を着崩した子たちがたむろっている。商店街の服飾屋の軒先からは女の子の嬉々とした奇声が漏れ出していた。


 だが駅から離れるにつれてその活気も無くなりだす。やがて簡素な住宅街に変わり、十分ほど走っていると、今度は田園が目の前に広がりはじめた。


 次第に道にも傾斜が加わる。

 蛇のようにくねらせた坂道を進んでいくと高校が見えた。


 さすがに慣れたのか、それとも自転車の性能が良いのかあまり息は乱れていない。


 僕は校門の脇に居た看守さんに馴染みの挨拶をすませると、自転車を駐輪所へと持っていった。


 校舎を気ままに歩いていると菜摘ちゃんを見つけた。


 本館から部室棟に移動すると、二階の渡り廊下に彼女は居た。窓の桟に肘をつき、どこか遠くを見つめている。


 やあ、と僕が声をかけると、菜摘ちゃんの瞳だけがゆっくりと僕へ向いた。次いで顔が同じように持ち上げられる。腰ほどまで伸びる黒髪が、日差しを浴びて妖艶に揺れた。


「おはようございます」

「おはよう。もう昼だけどね」


 嘲笑交じりの僕の言葉に、菜摘ちゃんは口許を僅かに緩めただけだった。瞳の先はもう、窓の外のはるか向こうへと戻ってしまっている。


「さっき美晴ちゃんに会って、みんな部室に居るって聞いてたんだけど」


 つい先ほど水道の前で出会ったから、あとは宗也くんだけだ。


「部長くんは居ると思うよ」

「そうなんだ」

「はい」


 菜摘ちゃんの口調もいつもより歯切れが悪く、まるで会話が続かない。すぐに沈黙が降りては気まずさが胸にあふれかえった。


 あまり気分が良くないのかもしれない。


 カメラが壊れたことが原因だろうか。自らの夢に、僅かながらの支障をきたしてしまってショックを受けているのだろうか。


 どうにせよ、いつもと様子が違うことだけは見てとれる。


 僕はゆっくりと彼女に歩み寄り、しかし数歩の距離は開けて立ち止まった。


 一緒に窓の外を眺める。

 彼女の視線の先と思われる場所は、遠くに見える天文部の部室の窓だった。


 静かに時間が流れていった。


窓から風が微かに吹き込み、目の前に佇む少女の髪を揺らす。甘いシャンプーの香りと、窓の桟から吹き上げられた埃のざらつきが鼻孔を満たした。


 廊下のはるか向こうから聴こえてくるのは、さきほどから懸命に練習を続けている吹奏楽部の不協和音たち。一つの音がやむと、また別の場所から断続的に鳴り響いている。


 呆然と外を見やる菜摘ちゃんの横顔は綺麗で、日本人形のように繊細なつくりをしていた。


「蒼井さんは、部室に行かなくていいんですか?」


 しばらくして、瑞々しく膨らんだ少女の唇がふいに言葉を紡いだ。


 僕に目を向けるでもなく、まるで独りごとのようだったので、僕は思わず聞き逃すところだった。どうにか認識できたのは彼女に見惚れていたからかもしれない。


「もう少ししたら行くよ。急がなくても何も逃げはしないからね。きみこそ戻らないのかい?」

「わたしも、もう少ししたら」

「そっか」

「はい」


 彼女の声には明らかに覇気がなかった。

 普段のような達観した口ぶりも、今日は歳相応の大人しいものに感じられた。


 やはりカメラのことを気にしているのだろう。もしかすると、罪悪感を抱いてしまっているのかもしれない。自分がカメラを借りるなんて言いだしたから、と。


 カメラを貸し出したのも、菜摘ちゃんからの頼みがあったたからだった。


 もしかすると曖昧に笑みを浮かべるしかできない今の僕の表情すら、彼女には鬼面が顔を向けているようにしか映っていないのかもしれない。


「ねえ、菜摘ちゃん」


 棘の無いように、僕はできるだけ穏やかな声調で言った。


 そっぽを向いていた菜摘ちゃんの顔が僅かにこちらへと振り返る。目が合うと、氷のように冷たい彼女の視線にドキリとした。


「カメラのことは残念だったけど、そう落ち込むことはないよ。聞いた話だと電源が付かないだけみたいだし。きっと記録媒体のほうは無事だろうから、いままで撮った写真は残ってると思うしね」


 可能な限り彼女の沈んだ気持ちを払拭できるように、僕は矢継ぎ早に言葉を並べていった。どれか一つでもいい。菜摘ちゃんの機嫌を取り戻せるようなワードを、頭の片っ端から探した。


「それに、僕の知り合いにも写真を撮るのが趣味の人がいてね。夜の観測会をするときは、その人に一晩だけ貸してもらえばいい。そうすれば今までどおりに活動ができるよ」


 並べ立てた励ましの言葉。必死に取り繕った言葉。

 だけど、菜摘ちゃんの表情が晴れることはなかった。


 なぜ僕はこんな風に言ってしまっているのだろう。

 これでは彼女の傷をよりえぐるだけではないか。


 不用意な親切は時に、人を深く傷つける。

 僕は、考えもなしに気安い台詞を吐いてしまった事を後悔した。


「もし……」


 菜摘ちゃんが消え入るような声で言った。


「どうしても欲しいものがあって、押し入れの整理をしていたら、それが入っている箱が見つかって。だけどもしかすると、その中身は別のものに変わっていて、見るととてつもなく後悔してしまうようなものが入っているかもしれないってわかっちゃったら――」


 遠くを見ていた瞳がまたこちらへと向けられる。

 今度は、彼女の華奢な身体ごと僕へと対面させていた。


「智幸さんは、どうします?」

「それは、なにかの例えかい?」

「いいえ。昨日のテレビ番組でやってた診断みたいなものです」


 深い意味はないですよ、と作ったような薄い笑みを菜摘ちゃんは浮かべる。


 見上げた彼女の瞳はまっすぐに僕へと据えられていた。黒くて真ん丸いつぶらな二つの眼球に、輪郭のはっきりとしない僕の顔が映った。


 茶化すように答えるのは失礼だと思った。

 直感的に汲み取り、僕は改めて彼女の顔を見つめた。


 それは雪のように白くて、だけど簡単に汚れてしまいそうなほど儚く見えた。


 彼女の指す言葉の意味はよくわからない。

 何を伝えたくて、どんな言葉を欲しているのかも。


 だから僕は、自分の思うままに答えた。力強く息を吐き出した。


「僕は、開けるよ。絶対にそうしなければ欲しいものが手に入らないのだったらね」

「恐く、ないんですか」


「恐くて諦めるようなら、きっと僕は初めから欲しいなんて考えないと思う。そりゃあ、途中になってからその恐さに気付いてしまう事だってあるかもしれないよ。だけど僕は、どうせならその箱を開けたいと思う。それで後悔するかどうかはまた別の話だしね」


「そう、ですか……」

「うん。なにか診断できたかな?」


 菜摘ちゃんは顔を微かに俯かせ、それでもどうにか僕のことを見つめながら微笑を浮かべた。


「はい。わたしとは正反対だということがわかりました」

「どういうことだい、それは」

「褒めているんですよ」


 菜摘ちゃんはくすりと頬を緩め、渡り廊下の真ん中に身体を放り出した。僕から距離をとるように、後ろ向きに足を動かす。その足下はステップを踏むかのように軽快だった。


 彼女の笑みは妖艶で、つい見とれてしまいそうになる。


「ねえ、智幸さん。その記録媒体って、カメラに挿さったままなんですよね。まだデータは残っているんですよね」

「そのはずだよ。誰かが抜いていない限りはね」

「わかりました」


 菜摘ちゃんはそう頷くと、僕に背を向けて部室棟とは逆の方向へと歩き出した。


「わたしは、もう少し歩いたら向かいますよ。蒼井さんは先に行っててくださいな」


 背を向けたまま、だけど声を高らかに彼女は言う。


 少しは機嫌を取り戻してくれたのだろうか。


 一抹の不安は残しつつも、僕は黙々と歩いていく菜摘ちゃんを見送った。


 また、吹奏楽部の練習する音が聞こえた。

 上級生だろうか。今度は綺麗な音色も重なっていた。


 廊下の窓からグラウンドを見渡せば、駆けずり回る野球部員の姿が見える。

 高く薄く広がった雲に遮られ、照りつける太陽の日差しは弱まり始めている。


 涼しい風が行きかう廊下を、菜摘ちゃんは歩いていった。


「ねえ、菜摘ちゃん」


 小さくなった彼女の背中に、僕は思わず声をかける。菜摘ちゃんは足の先を奥に向けたまま、小首をかしげるように振り向いた。


「絶対、新星を見つけようね」

「……はい」


 彼女の返事はどこかぎこちなかった。

 菜摘ちゃんの背中が、どこかいつもより小さく見える。


 誤魔化すように顔を背け、菜摘ちゃんは廊下の奥へと消えていった。


 僕は、それをやるせない気持ちで見送った。



 その時僕は、気付いてはいけない何かに気付いてしまったような気がした。

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