7-3


 日もまたぎ、十月はじめの土曜日。朝早くにわたしは家を出た。


 智幸さんのカメラの処遇は今日で決まる。

 その事もあってか、昼前には智幸さんを除く天文部のみんなが揃っていた。


 もうすっかり秋だというのに今年は台風が少ないらしい。

 天気も晴れの日が続き、気温は例年よりも高い値を示していた。


 わたしたちの住む地域も、風は冷たいのに日差しは暑い。気候の移り変わりを、まさしく肌で感じているようだった。


 三人で智幸さんを部室で待った。


 どこか調子が悪そうに退室した美晴ちゃんを追いかけるように、しばらくしてわたしも部室を出た。宗也くんが一緒に来ようとしたのを、適当な理由を付けて拒む。どうも、誰かと一緒に居るような気分ではなかった。


 気晴らしに校舎を隅から隅へと歩きまわる。三年生の教室は全てしまっていて、一年生の教室からはどこかの部活の生徒が談笑する声が漏れていた。


 カメラが壊れてからずっと、天文部の空気は悪いままだ。誰もが息苦しさを覚えているだろう。数日前まで笑いながら他愛のない話をしていたのが、ずっと昔の事のように思えた。


 校舎をずっと歩きまわっていると、智幸さんがやってきた。


 わたしが居た渡り廊下は部室棟への通路でもなかったから、虚をつかれた風にわたしの心はざわめいた。


 智幸さんの話から察するに、どうやら美晴ちゃんとも会っているらしい。どういう事情かわからないが、時間をつぶしたいのだそうだ。


 簡単な話をした。

 わたしたちに気を遣ってくれているのか、カメラの話もしてくれた。


 わたしからも話をすこしだけ持ちかけた。

 あの、箱の話を。


 すると、智幸さんは言った。


「僕は、開けるよ。絶対にそうしなければ欲しいものが手に入らないのだったらね」


 その言葉はわたしの頭を強く揺さぶるようだった。


 いつまでも脳内を反響し続けた。


 智幸さんと別れてからも、廊下を歩く足取りは重く、その言葉をずっと引きずっているかのようだった。


 しばらく時間を置いて部室に戻った。

 その時には、すでに智幸さんを含む全員がそろっていた。


 美晴ちゃんはなぜか瞳を赤くしている。部屋の真ん中に立っていた宗也くんも、いつもより険しい表情を浮かべていた。


「みんな揃ったみたいだね」


 壁にもたれかかっていた智幸さんが身体を起こして言う。それを皮切りに、全員の視線が智幸さんへと集まった。


「とりあえず、カメラの件はもうどうしようもない。見たところ、完全に壊れちゃってるみたいだからね」

「結局、直るんですか?」


 宗也くんの問いに、智幸さんは深く頷いた。


「これぐらいなら修理はできる。でも結構費用がかかるから、正直に言うと、安い新品を買った方が得だったりもするんだ。でも、とりあえずは修理に持っていってみようかなと思ってるよ」

「お金って……どれくらいかかりますか?」


 細々とした声で尋ねたのは美晴ちゃんだ。


「それはわからない。数万円か……もしくは、もう少し安いくらいか」


 智幸さんはさらりと答える。

 さすがに、高校生が易々と出せるような額ではない。


 訊いた本人である美晴ちゃんも、ぽっかりと口を開いていた。


 また、嫌な空気が流れ始める。

 気まずさが部屋を満たしていった。


 そんな時だ。


「なあ、天乃」


 不意に、宗也くんがわたしを見つめてきた。

 胸が瞬間的に締め付けられ返事ができなかった。ただ、慌てて彼に視線を向ける。


 宗也くんは、わたしを一心に見ていた。


「新星、見つけるんだよな」

「うん。もちろんだよ」

「見つけたいんだよな」

「……うん」


 質問の意図がよくわからない。


 わたしはずっとそう言い続けてきたではないか。なぜ今になって確認しようとするのか。


 不審に思い、しかし内心では自分自身を笑っていた。

 なぜ、だと。そんなもの、わたしが一番わかっているはずなのに。


「智幸さん、カメラは絶対に弁償します。今払えなくても、いつかは。だから――」


 身体を智幸さんに向けなおし、宗也くんは真摯に言葉を並べた。

 智幸さんはそれに穏やかに微笑を浮かべて耳を傾け、


「わかってる。僕もこんな中途半端でやめるつもりはないよ。記事のほうもまったく書けてないしね」


 宗也くんだけじゃない。わたしたちに、彼は言う。


「またやり直そう。幸い、これまで撮ったデータは残ってるんだ。どうにかカメラを調達できれば、問題なく再開できるよ。まだ練習とかばかりだったけど、次からは座標とかもちゃんと定めてもっと本格的なものにしようか」


 智幸さんの声はとても力強かった。

 わたしの、心の奥の何かがざわりと騒いだ。


 歓喜――いや違う。よくわからない、なにか。


「これでまた一歩、夢に近付けるよ。菜摘ちゃん」

「そう、ですね」


 頬をつり上げ、わたしは智幸さんに笑顔を作って答える。


 不思議な感覚だった。


 智幸さんの大人びた対応のおかげだろうか。みんなが安心して、良い具合に調子を取り戻してきている。部屋の隅で縮こまっていた美晴ちゃんも、すっかり表情を整え、小さく笑みを浮かべていた。


 また元通りの天文部に戻るのも、きっと時間の問題だろう。


 わたしの夢が、近付く。


 わたしは、大人になれる。子どもではない事を証明できる。お父さんもお母さんも、これでやっと認めてくれるはず。


 …………。


 これが、わたしの望んでいたことなのだ。


 わたしが欲しいもの。

 箱を開けなければ、それは手に入らない。


 なら、まずは開けてみよう。そう思えた。

 そうしなければ、何も始まらないし、終わらない。


 悔むのも、喜ぶのも、全てはその後だ。


 わたしは独りではない。宗也くんが居てくれる。美晴ちゃんや智幸さんも手伝ってくれている。もし倒れそうになっても、支えてくれる人たちがいるのだ。


 みんな、わたしについてきてくれている。わたしの夢を応援してくれている。


 だけど、踏み出すにはまだ勇気が足りない。

 どうしても付き纏う恐怖を払拭しきれない。


 あと、ひと押し。


 開いてしまわないようにと、わたしが自分で箱にとり付けた錠。それを開けるための鍵が、わたしには足りない。


 岩に打ちつけられたわたしを悪夢から救ってくれる、勇者が――。


     *


 スマートフォンで時間を確認する。

 九月も終わる、木曜日。もうすぐ夜の八時だ。


 とっくに完全下校時間の過ぎた校舎は気味が悪いほどに静かだった。


 わたしは息を呑んでゆっくりと部室の扉を開けた。


 見慣れた部屋の様子が閑散と広がっている。

 宗也くんも、美晴ちゃんもそこに居ない。みんな帰ってしまった暗がりの部室。


 無駄に広く感じるそこは、違和感の塊だった。


 気が付くと空はもうすっかり暗くなっている。

 電気もつけていない部屋に、淡い月光が差し込んでいた。


 部屋の中へと足を踏み込んでいく。

 一歩一歩が重たく、自分の足音に胸が高鳴った。


 机の上に、ケースから出されて剥き出しになったカメラが置かれていた。


 智幸さんに無理を言って借りたカメラ。さっきまで誰かが触っていたのだろう。机の端で今にも落ちそうになっていたそれを、わたしはそっと掴み上げた。


 この中に全てが詰まっている。

 わたしの夢を叶えてくれる、全てが。


 わたしはぐっと強くカメラを握った。両手で、しっかりと。


 唇を強く噛み締める。痛みが広がり、わたしの意識を無理やりにでも鮮明に覚ましていく。薄らと、瞳に涙が浮かんだ。


 そして――。



 わたしはカメラを高く掲げ、指の力を抜いた。

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