5-4

 校舎の脇を歩いていると、吹奏楽部の演奏する音が聞こえた。


 空き教室を使って練習しているのだろう。幾つかの方向から、トランペットなどの様々な音が鳴り響く。一年生なのだろうか。まだまだ不安定な重低音が、あたしの心を落ち着かせてくれた。


 頭は痛く、ついぼうっとしてしまう。

 昨日あまりよく眠れなかったせいもあるのだろうか。


 本館の正面玄関にまわったところで水道を見つけた。


 花の蜜につられる蝶みたいにあたしは歩み寄り、蛇口をひねって浴びるように顔を濡らした。気温のせいか若干ぬるい。それでも気持ち良かった。


 残暑はいつまで続くのだろう。もう十月に入っているというのに。さすがに日中の気温も下がってはきているし、夜はけっこう冷えたりする。半袖で寝ていると寒いくらいだ。しかし日差しの強さは相変わらずだった。


 あたしの顔に当たって飛び散る水の音だけが聞こえた。

 目をつぶっていると、何もかもを忘れられそうな気がした。


 蛇口を閉じ、顔を持ち上げる。

 水に濡れた瞳をこすって瞼を開けると、視界は驚くほど鮮明に映った。


 映したくないものも、一緒に映ってしまっていた。


「やあ、美晴ちゃん」


 声がかけられる。

 はっと目を見開いた先には智幸さんが立っていた。


 紺のジーンズに薄布のTシャツという、いつものとおりラフすぎる格好だ。ショルダーバッグを背負い、あたしに向けて小さく手を振っていた。


 駐輪場がここのすぐ傍にある。

 そこであたしを見かけたのだろう。


 あたしの意識は一気に現実へと引き戻されていった。

 洗ったばかりの瞳が渇いていく。


「みんな、もう部室のほうにいるのかな?」

「あ、はい。居ます」

「そっか。待たせちゃってごめんね」


 自嘲するように智幸さんは言ってくる。

 まるでカメラのことなど無かったかのように。


 自分のカメラが壊れて大変なはずなのに、どうしてそう笑っていられるのだろう。


 あたしには呑気に笑う余裕なんてなかった。宗也くんや菜摘ちゃんの視線が、あたかも責めるような目つきであたしを捉えているように見えた。


 本当はあたしが壊した事を知っているのではないか。そのうえで、何も言いださないあたしを無言のまま責めているのではないか。


 頭の中で気味の悪い想像が絶えなくなる。


 目が覚めて意識ははっきりとしているのに、実体のない悪夢があたしを襲ってくる。胸を締め付けるような痛みが強まり、ただ呼吸をすることがやけに疲れるように感じた。


 苦しい。今すぐにでも解放されたい。


 自業自得なのだと笑われることだろう。この苦しみから逃れるにはどうすればいいか。そんなもの簡単だ。打ち明けてしまえばいい。


 また別の痛みはやってくるが、少なくとも、今の苦しみからは救われる。


 でもあたしには、そんな勇気など無かった。

 どうしても宗也くんに嫌われたくなかった。


 あたしにとって宗也くんは全てなのだ。

 宗也くんが居たからこそ、あたしは――


「な、泣いてるの?」


 唐突に智幸さんが言った。

 その意味がまったく分からなかった。


 何をいきなり言いだすのだろう。あたしは自分でも驚くほどに冷静だった。


 泣いてなんていない。そんな恥ずかしい姿を人に見せられるはずがない。あたしが水道で顔を洗ったから濡れていることを知らず、智幸さんは誤解したのだろう。


 途端、頬を大粒の雫が伝った。


 顔にまみれた水道の水だと思った。

 でもそれは、熱せられた水道管を伝って出てきた水よりもずっと冷たかった。


「……あれ」


 咄嗟に手を当てる。

 日差しで水気を失い始めていたあたしの頬に、綺麗な縦の筋ができていた。


 また流れた。

 頬に置いた指先に触れる。

 眼はやがて智幸さんから焦点を外し、瞳に映る全ての輪郭をぼやけさせた。


 あたし、泣いてるんだ。


 そう思った瞬間、まるでせき止めていた柵が決壊したかのように、あたしの瞳から大量の涙が流れだした。


 人前で恥ずかしいはずなのに、あふれ出る勢いは止まるところを知らず、頬をまんべんなく濡らしていく。


 目は真っ赤になり、すでに恥ずかしいという感情すらなくなっていた。


「ぼ、僕、なにかしちゃったかな?」


 智幸さんはあたしを見てたじろぐような声を漏らした。あたしに駆け寄り、しかしどうすればいいのかわからないといった風に両手を宙に彷徨わせている。


 当然だ。いきなり目の前で泣かれて、事情がまったくわからないだろう。いい迷惑に違いない。


「あたしです」


 下唇が震えるのを我慢し、絞り出すようにあたしは言った。


「え?」

「あたしが、したんです」


 崩れ落ちそうになった身体をどうにか支える。顔を俯かせると滝のように涙が流れ落ち、足元のコンクリートを黒く染めた。


 どういうことなの、と智幸さんが戸惑いながらも説明を促してくる。


 智幸さんは首をかしげて眉をひそめながらも、落ち着いた様子であたしを言葉を待ってくれた。


 彼の優しさがひどく胸に響いた。

 言ってしまえば楽になれる。


 脳裏に浮かんだ浮かんだ一言が、自然とあたしの口を開かせた。


 あたしは全てを話した。

 自分がカメラを壊してしまったことを、ありのままに、飾ることなく伝えた。


 言葉を紡いでいくたびに肺の奥から何かが抜けていくようで、幾分か気は楽になっていった。涙腺も緩み、余計に溢れだしてくる。


「ごめ……ぁさい、智幸さん。あた、あたしのせいぇ――」


 口を締める力が入らず、まともに言葉が出てこない。声よりも、流れそうになる生温い鼻水をすする音のほうが大きかった。


 手のひらで何度涙を拭っても視界はまったく晴れてはくれない。智幸さんの表情を見ることができず、あたしはまた一抹の不安に身を縮こまらせた。


 怒っているに違いない。智幸さんのカメラを壊してしまったのだ。智幸さんには、あたしに罵詈雑言を浴びせる権利がある。どんな言葉も、受け入れようと思った。


 しかし智幸さんから、あたしが思ったようなことが返ってくることはなかった。


「そっか」


 深く息を吐いてから、智幸さんはただ一言、そう呟いた。


「怒って、ないんぇすか」


 潤んだままの瞳をどうにか持ち上げるように、あたしは顔を下げたまま智幸さんを見やる。虚をつかれ、鼻水も涙も一瞬の忘れたように止まっていた。


 どうして智幸さんはそんな反応をするのだろう。

 ぐちゃぐちゃになった頭で考えても、とてもわからなかった。


「どうしてそう思うんだい」

「ぁって、あたしが――」


 あたしが壊したのに。

 吐き出そうとする言葉がうまく喉を通ってくれない。


 あたしは怒られて当然のことをしたのだ。なのに、智幸さんは一向に穏やかな表情を浮かべ、苦笑するように頬を緩めながら言った。


「たしかにそりゃ、カメラが壊れたのは正直厳しいけど……。僕の財布はいつも寒いからね。だけどそうやって素直に言ってくれたなら、怒るにも怒りづらいよ」

「ぁけど……」


 言葉を返そうとしたあたしの頭に智幸さんの大きな手が乗っかった。わさわさと摩られる。爽やかな汗の臭いが、微かに漂ってきた。


 子どものようで恥ずかしくもあったが、不思議と心は落ち着いていた。


「もちろん、そのまま許すわけじゃないよ。それはケジメとしてわかってほしい。とりあえずこれからどうしようかをみんなで考えようか」

「み、みんなはダメっ!」


 智幸さんの言葉に、あたしは反射的に顔を上げ、叫ぶように声を出していた。


「どうして?」

「宗也くんに、知られたくない」

「まだ、言っていないのかい」


「……はい」

「どうして」


 訊かれ、あたしは思わず口を噤んでしまった。

 また首が垂れる。噛んだ下唇に痛みが広がった。


 しばらくあたしは黙り続けた。

 智幸さんも急かす事なくあたしを待ってくれた。


 日が陰る。陽光の暑さは退き、丘の上を駆ける涼しい風があたしの茶色い髪をなびかせる。眉にかかる前髪の先は、涙で濡れて癖が付いてしまっていた。


 やがて空を覆っていた高い雲は通り過ぎ、また眩しい日差しがあたしを熱く照らしつけた。


「……言うと、宗也くんに嫌われちゃう。そんなの、イヤだ」


 ぼそりと、あたしは呟いた。


 最低だ。

 それが卑怯なことだとわかっているのに、脳裏に宗也くんのことが思い浮かぶと、途端に恐くなってしまう。ひどく臆病で、そんな自分が大嫌いだ。


「宗也くんの事が好きだから?」

「…………はぃ」


 小さく、控え目に頷く。すでに涙は止まっている。目尻に溜まっていた残りの雫がすっと頬をこぼれ落ちていった。


「大丈夫だって。そんなことで嫌いになったりしないよ」


 あたしの表情が悲嘆に崩れていくのがわかる。それとは裏腹に、智幸さんは涼しい顔であたしに言っていた。平静を装うようにして、しかしいつもより語調は明るい。


 気遣いが嬉しくもあり、悲しくも思えた。


「なりますよ。宗也くん、すごく頑張ってたのに。それをあたしが邪魔しちゃったから――」


 きっと、嫌われてしまう。


「宗也くんは凄い人なんです! なんでもできて、なにをするにもやる気に満ちていて。そんな宗也くんを、あたしなんかが邪魔したらダメなんです!」


 一度開いた喉はなかなか閉じず、あたしは矢継ぎ早にまくし立てていた。


「あたしのせいで宗也くんが立ち止まっちゃダメ! 後ろを振り返るような事をしたらダメ!」


 外的要因でも、内的要因でも。

 たとえどんな理由があっても、


「宗也くんはいつも、あたしの前に立っていないとダメなんです!」


 やっと一拍が置かれる。肩が激しく上下するほど、息は荒くなっていた。深く吸い込んで呼吸を整え、溜まったつばを呑み込む。


「だって――」


 また、涙があふれ出そうになった。必死に堪え、声を絞り出した。


「あたしの、目標で。理想なんですから……」


 言い終わると、肩の力が抜け、智幸さんに身体を預けるようにしてすすり泣くことしかできなくなっていた。


 大きな身体があたしを支えてくれる。

 腕を回すわけでもなく、智幸さんは丁寧に両肩を掴んでくれていた。


 優しくて、温かかった。


 だけど智幸さんの表情はさっきよりも曇っていた。穏やかな目つきで、しかしほっそりと目を細めてあたしを見下ろしている。まるでどこか冷めているかのよう。まったく遠い場所から見つめられているみたいだった。


 そっと肩にあてられた智幸さんの手が、途端に重たく感じた。


「ねえ美晴ちゃん。きみの言う宗也くんっていうのは、僕の知っている宗也くんなのかな?」


 下げた声調で智幸さんが言った。


「きみの瞳には、宗也くんがどう映っているの?」


 あたしには、智幸さんの言っている意味がわからなかった。


 宗也くんは、宗也くんだ。他に居ない。野原宗也、ただ一人。

 あたしの知るその人で、智幸さんと一緒に星空を眺めたりした宗也くんだ。


 何故そんな事を訊くのだろう。

 わからなかったけど、不意に胸がズキリと痛んだ。


「どういう、ことですか」

「短い付き合いでしかない僕が言うのもなんだけど。宗也くんは、きみが思うほど強い子じゃないと思うよ」

「……えっ」


 大きく目を見開かせ、あたしは言葉を漏らす。その声が震えていることに自分で気付き、咄嗟に智幸さんから見上げる視線を逸らした。


 胸が締め付けられるような気分だ。

 心臓の鼓動に合わせて刻むように、頭にも痛みが走った。


 顔を伏せ、表情を隠す。

 きっと今のあたしは情けないほどに顔を崩している事だろう。


 瞳はどこにも焦点を合わせられず、ただ足元のアスファルトの筋を右往左往となぞっている。遠くで聞こえていた吹奏楽部のトランペットの音も、風でそよく木の葉のさざめきも、一瞬にして凍りついたかのごとく耳に届いてこない。


 時間が止まったような感覚だった。

 その中で、心臓の高鳴る音だけがあたしの頭の中にうるさく響き続ける。


 思わず目をつむろうとした時だった。

 智幸さんの手が、あたしの肩からそっと離れる。反射的に顔を持ち上げたあたしを見て、智幸さんは半歩下がり、改めて目を合わせた。


「なんだか、ずっと違和感があると思ってたんだ。きみから聞く宗也くんの話と、僕が知る宗也くんはいつも違うんだよ」


 言い放つのではなく、疑問を持たせるように語尾を抑えて智幸さんは言う。だけどその言葉たちはあたしの鼓膜を容赦なく貫いていった。


「なんて言うんだろ。そうだな、まるで別人の話をされているみたいに、ね」

「……ぃや、あたしは」


 これ以上、聞きたくない。

 頭が割れそうなほど痛くなった。


 智幸さんを直視することができず、頭を抱えて俯く。

 腕で耳を塞いでもあたしの脳を揺さぶるような音は絶えない。


「美晴ちゃんの目に映ってる宗也くんは、美晴ちゃんの中にしか居ない宗也くんなんじゃないかな」


 智幸さんの言葉に視界が歪んだ。

 アスファルトの区切れた線が曲がって見えた。


 あたしの中にしか居ない?


 そんなはずはない。

 あたしの傍に宗也くんは居る。

 あたしの想っている宗也くんは、居る。

 今日だって、ついさっきまで一緒に居たばかりなのだ。


 居ないなんてはずがない。


 智幸さんの言葉の意味がわからない。

 宗也くんはずっと変わらないままだ。あたしの知っている宗也くん。


 テニスが上手で、人付き合いも上手くて、いつもみんなに慕われて大きな輪の中に居る。一生懸命で自分の夢に向かって頑張っている。そんな宗也くんを、あたしは知っている。


『俺、テニスはもうやめたんだ』


 ふと、頭の中で声がした。宗也くんの声だった。


 聞こえちゃダメだ。聞いちゃダメだ。


 耳をふさごうとしてもその声は関係なく響く。

 たった一言に、あたしの心は埋め尽くされるようだった。


 宗也くんの言葉。

 まるで悲観でもするような、『らしく』ない言葉。


 あたしの知っている宗也くんが、そんなことを言うはずがない。


 宗也くんは、テニスが大好きで……上手で、将来はプロになって――。


 テニスに関しても、人付き合いに関しても、あたしのお手本のような人なのだ。そんな宗也くんが、言うはず、ない。


『俺、気付いちゃったんだ。結局のところ俺は、ちょっと周りから頭が出てたことで浮かれちゃってただけで、プロになんてなれなかったんだよ。当然だよな。本気で目指してる人たちみたいに、必死に努力もしてない俺なんかがさ。そんな夢を掲げてたことが可笑しな話だったんだよ』


 宗也くんがテニススクールをやめた日、彼の口から聞いた言葉。心の隅に押しやっていたそれが、今になって波のように押し寄せてきた。


 きっとその頃から、あたしの中には歪なズレが生じ始めていたのだろう。だけどそれから必死に目を背け、あたしは宗也くんを昔のままに見続けようとした。彼が自ら夢を壊してしまう以前の、宗也くんのままに。


 結局あたしは恐かったのだ。


 自分の憧れた人が堕落して、その姿を正面から見てしまう事がどうしようもなく恐かった。


 あたしを支えてくれて、励ましてくれて。あたしの目標である人がその座から転落してしまうなんてありえない。

 ずっとあたしが見上げる立場でなければいけないのだ。


 だからあたしは宗也くんを持ち上げ、見上げ続けた。


 宗也くんがスクールをやめて微妙な距離が生まれたことが、その手助けになっていたのかもしれない。遠目から彼を見続けるのは容易だった。


 だけど天文部に入ったことで、宗也くんと時間を過ごすようになり、あたしの中のズレは知らぬ間に大きなものとなっていた。


 それを隠そうと、あたしはより依存するようになった。過去の宗也くんを今の宗也くんに投影し続けた。智幸さんに宗也くんのことを話した時も、もしかすると自分に言い聞かせるためだったのかもしれない。


 だけどもう、あたしは気付いてしまっている。智幸さんの言葉で。


 心の奥底で、最も気付きたくないと目を背け続けていたことを、はっきりと認識してしまっている。


「ちょっと、僕はグラウンドのほうを歩いてくるよ」


 顔を俯かせ続けているあたしに、智幸さんは言った。


「少しばかり遅れていくから、宗也くんたちに伝えておいてくれないかな」


 そうとだけ言い残し、あたしに構わず立ち去ってしまった。あたしは、潤んだ瞳でその行方を追いかけることしかできなかった。


 気を遣ってくれたのかもしれない。

 あたしが宗也くんたちに謝れるように。


 これはあたしの問題なのだ。

 自分でどうにかしなければならない。


 もう。理想の宗也くんにすがることはできないから。


 校舎の向こうに消えていく智幸さんの背中を見届けると、あたしはゆっくりと足を動かしはじめた。


 部室棟に入り、通い慣れた階段を上る。

 三階の、突き当たりの教室の前で深呼吸をし、あたしはドア開いた。


 握ったノブがひんやりと冷たかった。

 ゆっくりと、あたしの身体をさましてくれた。

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