第5話『秋川美晴の悩み事』 Side美晴

5-1

 カメラを壊したのはあたしだ。

 紛れもない、あたしのせいだった。



「珍しいね、美晴ちゃん。こんな所で買い物かい?」

「あ、ちょっと見てるだけです」


 レジカウンターで立ちつくすおじさんに声をかけられ、あたしは咄嗟に笑みを浮かべて答えた。


 顔なじみのおじさんが経営する、個人営業のカメラ屋さんだ。趣味でやっているらしく、品揃えはなかなかだが、あまり売れたりはしていないらしい。


 あたしは店内のショーウインドウを食い入るように見つめていた。薄いガラスケースの奥には、あまり見た事がないほどに桁が多い値札と、真っ黒なフィルムを光らせるデジタル一眼レフ。幾つも並ぶそれを、あたしはひとつずつ丁寧に見て回った。


 十万。十五万。


 考えられない数字が、当たり前のように並ぶ。

 生まれてこの方こんな高価なものを買ったことはない。


 ポケットから花柄のピンクの財布を取り出した。

 千円札が一枚。百円などの硬貨が数枚。郵便局からおろしてきた、とっておきの五千円札も一枚ある。


 だがとても、目の前に貼り出された金額に手が届くようなほどではなかった。


「……どうしよう」


 あたしはため息交じりに財布をしまい、店を後にした。


 天文部に置かれていたカメラが壊れた事に気づいたのは、今日の放課後が始まってすぐのことだった。


 宗也くんから話を聞いた時、身の毛がよだつような感覚に襲われた。


     *


 晴れ間が続いていた、九月も終わる木曜日。

 智幸さんのカメラが壊れたと思われるその日のことだ。


 珍しくテニススクールが休講になったあたしは、放課後の時間を持て余していた。


 毎週欠かさずに続けていたため、急にぽかりと時間が開いてしまうと妙な違和感がある。何かをする用事もなければ、かといって手持無沙汰に時間を浪費するのはもったいない。


 どうしようかとしばらく考えた末、宗也くんが居るはずの部室へと向かった。


 あたしの期待通り、宗也くんは居た。

 窓際に座って、黙々と文庫本を読んでいる。

 窓から入り込む風が眉に届くくらいにまで伸びた彼の前髪を何度も揺らしていた。


 菜摘ちゃんも居た。

 彼女も同じく本を読んでいる。


 あたしは近くのパイプ椅子に腰をかけると、鞄を置き、読書に夢中だった宗也くんをぼうっと眺めた。自分の膝に両肘をつき、背を猫のように丸める。丸めた両手の間に顔を乗せると、静かに、気づかれないように凝視した。


 あたしは宗也くんのことが好きだ。


 宗也くんのことは昔からよく知っている。小学生のころからの顔なじみなのだ。学校は違ったけれど。


 あまりよく会話するほど仲が良かったわけでもないし、宗也くんはもともと口数の多いような子ではなかった。冷静で、大人しい。十人前後いたキッズスクール生の中でも、彼はいつも存在が浮き出ていた。


 レッスンは一生懸命。一番上手で、もっと年上の人も相手にできるほどだ。まさに、ある種の才能という資質を持って生まれてきたのだろう。上達の早さは群を抜いていた。


 彼の周りにはいつも人の輪ができていた。

 みんなに褒められる、その中心に宗也くんは居た。


 内向的で人見知りの激しかったあたしとはまるで大違いだった。


 だから惹かれたのだろう。憧れたのだ。あたしは、宗也くんに。


 小学校二年の時に宗也くんがスクールに入り、出会ってからもう八年間以上も経った。中学で同じになり、高校も同じところに行けるように勉強した。学力レベルは平均程度なところだったけど、彼が居てくれるだけで十分に魅力的だった。


 高校に入ってからはあまり話す機会もなかったけれど、偶然菜摘ちゃんから天文部への勧誘を受け、チャンスを得た。


 今は、一分一秒でも長く、宗也くんの傍に居たい。


 だからこうして、ぼうっと彼の顔を見続けられることが幸せで仕方なかった。


 文庫本を読み終えたのか、宗也くんは長い息をついて本を窓の桟に置いた。ゆっくりと立ち上がると、棚に置かれていた革の四角いケースを手にとってカメラを取り出した。


 標準レンズを取り付けたかと思うと、その先をあたしへと向ける。


 あたしは、思わず背けようとしてしまった顔をどうにか引き留めた。緊張から硬直してしまった表情をどうにか崩し、微笑を作る。心臓は既に、破裂しそうなほど高鳴っていた。


 突然の事に顔はすっかり紅潮してしまっている。全身が熱いのは、部屋が少し蒸し暑いせいではないだろう。


 それから、宗也くんはずっとカメラを触っていた。あたしや菜摘ちゃんを撮ったり、いろんなボタンを押したり。


 下校時刻の六時半が来るまで、宗也くんはカメラに夢中だった。


「そろそろ時間だね」


 菜摘ちゃんが読んでいた本を閉じて言ったのを皮切りに、あたしたちは帰る準備を始めた。宗也くんも慌てた様子でカメラを片付けていた。


 ちょうど六時半をまたぐ頃、あたしたちは部室を後にした。下校時刻になった学校はいやに静まり返っている。日の沈んだ空には薄い朱色が広がり、照明の灯されていない廊下を染めあげていた。


 部室棟を出ようとした時、あたしはある事に気づいた。


「あ、すみません。忘れものしました」


 筆箱を忘れてしまった。机の上に置いたままだ。一緒に出していたノートはしまった覚えがあるが、筆箱は記憶にない。あたしも急ぎ気味だったため失念してしまっていたのだろう。


 あたしの声に、前を歩いていた宗也くんと菜摘ちゃんは一斉に振り返った。


「取りに行ってもいいですか。ちょっと筆箱を取るだけですから」

「ああ、いいけど。あんまりもたもたしてると、先生に捕まるぞ」


 冗談交じりに言う宗也くんから鍵を受け取り、あたしは部室へと走って戻った。


 階段を駆け上がり、息が切れてつらいのも我慢した。日が沈んで気温が下がっていたためかそれほど汗は出なかった。


 部室の前に着くと、急いで鍵を開けて中に入った。


 机の上にちゃんと筆箱はあった。

 安堵の息をつき、あたしはそれを鞄にしまう。


 部屋から出るために踵を返そうとすると、机の上にカメラのケースが置かれている事に気づいた。もう何度も目にして物珍しくもないはずなのに、あたしの視線はそれに釘づけになっていた。


 ――宗也くんが使ってたカメラ。


 あたしは、思わずカメラケースを開け、手に取っていた。


 電源を付ける。あたしはまだ数回しか触ったことがないため、どのボタンがどう反応するのかがわからない。


 宗也くんが触っていた様子を思い出しながらボタンを押す。すると、これまで撮影した写真が手元の画像モニターに映し出された。


 宗也くんがさっきの時間に撮ったものだろう。部室の一角を適当に撮影したものや、菜摘ちゃんの横顔。窓の外の中庭。


 ボタンを操作しながら次の画像たちを見ていくと、一枚の写真に目がとまった。


 あたしが写っていた。当たり前だけれど、それがなんだかとても嬉しかった。顔を赤くして、ぎこちない笑みを浮かべている。なんて情けない顔なのだろう。


 自然とあたしの口許が緩んだ。


 気分が良くなり鼻歌交じりにファインダーを覗きこんだ。真っ黒で何も見えない。


 レンズを付けていないからだろうか。見てみると、やっぱりレンズは取り外され、キャップで蓋をされていた。


「おーい、秋川。まだか?」


 廊下の方から宗也くんの声が聞こえ、あたしは身体を震わせた。

 急いでいる事をすっかり忘れていた。正気に戻り、焦りが生まれる。


「す、すぐ行きますっ」


 声を上ずらせながらも、どうにか叫んでカメラをしまう。あまり、自分の写真をみてにやついていただなんて、宗也くんに知られたくない。気持ち悪がられるかもしれないし。


 カメラをケースへと入れずに机に置き、そのまま部屋を後にした。


 知らなかったのだ。

 カメラの保管がとても慎重なものだったなんて。


 あたしは飛びつくように扉を開け、廊下へと飛び出した。


 思えば、机の端に置いたカメラから、肩に掛けるストラップが下に垂れていた気がする。おそらく、その重みで落ちてしまったのだろう。

 智幸さんのカメラに付くストラップは、ブラウンのレザー素材を使ったものだ。それ単体でも、重量は十分にあった。


 本体自体も随分と際どい所に置いてしまっていたように思う。その時は宗也くんの声に驚き、まともに考えることができなかったのだ。


 宗也くんのこともあったし、下校時刻の事もあった。動揺していたあたしは適当にカメラを置いて出ていってしまった。


 カメラを出したまま放置して問題があるのならば、また明日に謝れば良いだろう。そんな気楽な考えだけを持って。


     *

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