4-6

 土曜日で学校が休みにも関わらず、昼前には天文部メンバー全員がそろっていた。


 俺が着いたのは十一時ごろだ。駐輪場に自転車を置いていると、僅かに遅れて美晴がやってきた。互いに小さく挨拶を交わす。


「あの……」


 部室に向かう途中、美晴が声をかけてきた。小さくて、グラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声に掻き消されてしまいそうな声だった。


 俺は、なに、と耳だけを傾けて答える。


「活動、またできますよね」


 やっぱり小さな声で美晴は言った。


「しらない」

「終わっちゃうような事、ないですよね」

「……さあ、わからない」


 どう答えればいいのかわからず、俺の返事は単調なものになってしまう。


「野原くん、す、すごく頑張ってました。菜摘ちゃんと一緒に、夢に向かって一生懸命になれてるじゃないですか。だから、このまま終わるのはダメだと……思います」


 柄にもなく俺を励まそうといているのだろうか。しかし、美晴の声はだんだんとしぼんでいき、最後辺りはまったく聞きとれなかった。


 ――頑張っている。俺が?


 何をどう頑張っていたというのだろう。

 そう見えていたのなら、その眼はきっと節穴だ。


「俺が頑張ったところで何かが変わるわけじゃないし。天乃の世話だって、智幸さんが一人いれば十分なことなんだ。俺はなにもやってない」

「でも――」


「四年前にテニスをやめた時から、俺には夢を見る権利すら無くなっちゃったんだ。だからなのかな。俺はただ、誰かの見ている夢にすがりつこうとしてるだけなのかもしれない」


「いや……ちが……」

「俺はそれぐらいちっぽけな存在なんだよ。俺が何かをしたところで、何も……変わらないんだ」


 吐き捨てるように俺は言った。

 胸の奥がむしゃくしゃした。


「…………そんなはず、ないです」


 俺の背中に、掠れそうな美晴の声がぶつかった気がした。


 横目に彼女を見やる。

 美晴は肩をすぼめ、頭は俯かせていて表情がわからなかった。


 部室につくと、菜摘がすでに居た。


 俺はいつもの窓際の席に腰を下ろす。だが文庫を読んでいるような余裕はなく、しきりに窓の外へと目をやっていた。菜摘は入り口の傍の壁に背を預けたままずっと立っている。美晴もなぜか、部屋の隅に椅子を持っていってちょこんと腰掛けていた。


 あとは、智幸さんがやってくるのを待つだけだ。


 誰も、何も話さない。


 さすがに蝉の声ももう聞こえなくなり、校舎の外には、運動部のランニングをしている掛け声と吹奏楽部の不規則な音色だけが響いていた。


 頂点に昇った昼の太陽はまぶしく、それを遮る雲も見当たらない。中庭を歩く数人の男子生徒たちは、制服のシャツを肌に張り付かせ、全身から汗を垂れ流していた。


 暢気に笑いあいながら歩いていく彼らを見て、俺の口からはため息しか出てこなかった。


 部室には気まずさだけが居座り、昨日の空気そのままに時間が凍り付いているかのようだった。


「どうかしたのかな?」


 窓の外を眺めていると、ふいに菜摘が声を発した。とっさに目をやるが、その言葉が俺に向けられたものではないとすぐにわかった。


 隅にいた美晴が、


「な、なんでもないです」


 過剰なほど瞬間的に肩を震わせ、上擦った声で答えた。様子がおかしいのは明らかだった。


 見れば、額には多量の汗が流れている。顔も僅かに赤く上気しているようだ。


 窓を開けているとはいえ、空調設備のないこの部屋は蒸し風呂のように暑い。何時間も居続ければ熱中症にもなりそうなほどだ。


 過ぎていった夏の残りは、しぶとく留まり続けていた。

 美晴の首筋にも、多量の汗が流れている。シャツに湿り、小麦色の肌にぴったりとくっついてしまっていた。暑さにでもあてられたのだろうか。


「きつかったら、保健室にでも行くかい? 確か今日は先生も居たと思うよ」

「あの、大丈夫ですから」


 弾みをつけて壁から背を離して近づこうとした菜摘を、しかし美晴は声で制止した。強張った微笑が美晴の表情を埋め尽くす。


「ほんとに、大丈夫です」

「そうは見えないぞ。せめて、水でも飲んでこいよ」

「あ……うん。じゃあ、ちょっと」


 俺が脇から一言入れると、美晴は途端に静かになった。ゆっくりと、時間をかけて立ち上がる。そして、俺や菜摘とは決して視線を合わせずに、そそくさと部屋を出て行ってしまった。


「暑いもんね」


 また壁にもたれかかった菜摘の声に、俺は何も返すことができなかった。


 おそらく、それだけではないと思う。

 それは菜摘もわかっているようで、それ以上、何かを口にすることはなかった。


 異様なほど重苦しい空気の中にはどうしても居づらいだろう。体調を崩してしまうのも仕方ない。


 俺自身、この居心地の悪さに胸が押しつぶされそうだった。


 菜摘と目が合わない。

 俺も彼女も、自然とそっぽを向いていた。


 カメラが壊れてしまったことで、活動は足踏み状態になってしまうだろう。新しいカメラなんてそうそう買えるようなものではないし、ほとんど廃部同然だった天文部に降りる部費もない。


 もしかすると、カメラに挿していた記録媒体のデータはすべて消えてしまっているかもしれなかった。確認が必要だが、データとして溜め込んだ写真が消失してしまっていたならば、ここ半月の活動はほぼ無駄になったと言っても過言ではない。


 初期のものは現像していたが、まだパソコンなどにデータを移してはいなかった。また後でいい、という楽観的な思考を持っていたせいだろう。そもそも、データを保存する宛てすら用意していなかった。


 勢いづいた出ばなから、早々に腰を折られたみたいだった。


 ほんの些細な躓き。

 人によってはくだらないと嘲笑されることだろう。


 しかし一度調子に乗っていた無知な俺達の勢いを削ぐには、それは十分だった。


 本当に新星なんて見つけられるのか。

 こんなことで動揺してしまう自分たちなんかに。そう思考が巡ってしまう。


 俺たちはすっかり、熱を失くしてしまっていた。


 ――天乃はどう思ってるんだろう。


 そんな思いが喉元まで湧き出し、しかしそれを俺は必死に呑み込んだ。


 夢を掲げ、あれだけ頑張っていた菜摘のことだ。受けたショックは俺や美晴よりも遥かに大きいに違いない。


 あまり弱みを見せようとしない彼女は、愁う仕草など見せてはいない。あたかも平静を取り繕い、大人ぶった風に余裕を交えた微笑を浮かべている。だがそれも、俺の目からはどこかぎこちないようにしか映らなかった。


 彼女がシャツの襟を引っ張って中に風を送るたびに、両脇からまっすぐに垂れた鬢の髪がふわりとなびく。唇が渇くのか、しきりに下唇を咥えこむように舐めていた。


 なあ、天乃。

 そう投げかけようとした言葉を、俺は寸でのところで留める。


 声をかけることが出来なかった。

 カメラが壊れたのは、俺のせいかもしれないのだ。


 ――あの日、最後に触ったのは俺なんだもんな。


 心を落ち着かせ、当時のことを思い出そうとする。


 智幸さんにカメラを借りたことで興奮していて、俺はずっと触り続けていた。機能を把握するためということもあったが、ほとんどが物珍しさからの面白半分だった。


 マニュアルでピントを合わせる練習をしたり、適当なスナップ写真を撮ってみたり。ちょうど一緒にいた美晴を撮ったりもした。


 その日は木曜日だったが、毎週恒例だった放課後のテニススクールが休講らしく、暇だからという理由で彼女は部室を訪れていた。


 俺がカメラを向けると、恥ずかしがりはしたが、顔を赤くしながらも逃げないでくれた。


 続いて俺はレンズの先を横にずらし、椅子に座って読書をしていた菜摘の横顔を捉えた。用事がなくても、彼女はなぜか毎日のごとく部室に居座っている。無断で撮るのは感心しないな、と俺に言いつつも、菜摘はしっかりとピースをしていた。


 カメラをいじっていると、あっという間に日は暮れてしまった。


 美晴が窓を閉め、戸締りを確認する。俺も、机の上に出していた私物を鞄に詰め込んだりと、帰る準備を急いで進めていた。


 活動申請を出していなければ、午後六時半以降の居残りは原則許されていない。見つかれば執拗な注意を受けるため、五分前くらいには部屋を出るようにしている。


 カメラを触ることに夢中だった俺は、いつもより帰宅準備が遅れていた。その焦りがあったのだろう。


 俺はカメラを雑多に机の上へ置き、そのまま部室を後にした。


 その時、カメラをどう置いたのか憶えていなかった。もしかすると、俺が際どいところにカメラを置いたせいで落下してしまったのかもしれないのだ。


 そうだとすれば笑い話にもならない。


 あれだけ強く抱いていた菜摘の夢を、俺が折ってしまったような気がした。


 邪魔をしてしまったのだ。

 俺はただ、夢をかなえる手伝いをしていただけだったはずなのに。


 何十回もの楽しかった出来事が、たった一度の後悔でいとも簡単に塵へと還っていく。更地になった心の表面に残ったのは、冷め切らずも熱せられない生温い感情と、途方もない喪失感だけだ。


 その原因を作ってしまったのは、俺――。


 智幸さんを待つ間、俺はずっと窓の外を見続けた。菜摘と目が合ってしまうと、後悔と罪悪感に苛まれて立ち上がれなくなりそうだった。


 腰掛けた鉄パイプが陽光に照らされて熱を篭める。遠くに見えるグラウンドに人は消えうせ、気が付けば鳥の泣き声ひとつ聞こえなくなっていた。


 過ぎていく一分一秒がいやに長く感じた。心臓の鼓動は落ち着いた調子を保っているのに、耳に届く音はドラムをかき鳴らしたかのように鬱陶しい。


 すうっと息を吸い込むと、居心地の悪さが肺を満たした。


「蒼井さん、遅いね」


 耳に、澄んだ声が届いた。


 ゆっくり振り返ると、菜摘は壁の時計にぼうっと目をやっていた。次いで視線が俺へと移る。俺は意図せず、流動的に彼女から瞳を逸らしていた。


「ちょっと様子を見てくるよ」


 もたれ掛けていた壁から背を離すと、菜摘は扉へと向かい始めた。

 彼女がノブに手をかけたところで、俺も慌てて立ち上がろうとする。


「あ、俺も――」

「いいよ」


 俺が咄嗟にかけた声も、すべて言い終わる前にはっきりと拒絶されてしまった。それでも次の言葉を発しようとするが、上手く喉が鳴ってくれなかった。


 穏やかに頬を緩め、菜摘は言う。


「行き違いになっても困るしね。誰かは残っておかないと」


 ノブを掴み、菜摘がドアを開く。

 温い風が、滑り込むように廊下から流れてきた。


「よろしくね、部長くん」

「あ、ああ……」


 菜摘が廊下に出ると、ドアがゆっくりと閉まり、俺は部室に独りきりになった。

 立ち上がろうとした力が膝から抜け、パイプ椅子の革生地に深くお尻を沈ませた。


 どうにか引き留めて、菜摘に全てを話したかったのだろうか。もし今回の事が俺のせいだったと言ったとして、彼女はどういった反応をするだろう。


 わからない。わかりたくもなかった。

 所詮、俺には何もできないのだ。


 そんなことも忘れて、俺はいつしか、菜摘の夢を一緒に叶えてやりたいなどと考えるようになっていた。

 天文部のみんなで過ごした時間が、その気持ちを募らせていった。


 夜に星を見上げるのは楽しくて。くだらない談笑に花を咲かせたり、涼しくなった夜の空気を肌に感じながら夜食のおにぎりを食べたり。


 思い出すのは、ここ半月ほどの間にこれでもかと詰まった明るい時間。


 菜摘の夢を叶えてやるはずだったのに。

 智幸さんたちと一緒なら、叶えられると思ったのに。


 ――結局、俺は邪魔しただけじゃんか。


 みんなのやる気を削ぐようなことをしてしまった。


「……最低だ、俺」


 言葉が漏れる。


 しばらくして、俺はのらりと立ち上がった。かといって外に出ることもできず、呆然と立ち尽くす。四角いケースに入れられて机に置かれたままのカメラを、俺は薄らとした目つきで見つめた。


 その時だった。


「あれ?」


 ふと、違和感がよぎった。


 普段、智幸さんのカメラは専用のケースに入れて保管している。革の生地をふんだんに使ったものだ。本体とレンズを外し、それぞれの大きさにこしらえられたポケットに入れている。ブロアーと呼ばれる空気ポンプなどの手入れ用品を収容する場所もあった。


 ケースのふたを開け、俺は中身を取り出す。


 机の上から落下したカメラ。

 最初に見つけたのは、放課後にすぐやってきた俺だ。


 扉を開けると、黒いボディを露出した一眼レフカメラが床に転がっていた。それを急いで拾い上げたのだ。


 あの時のことは良く覚えている。

 だからこそ、自然と俺の口から言葉が出ていた。


「違う、俺じゃない」


 そうだ。

 俺は、カメラをケースの中に入れて帰った。


 カメラは湿気などでレンズにカビを生じさせたりする危険があるらしく、ケースには防湿剤や防カビ剤が入れられている。そう簡単に部品の代用はきかないので保管は大切だ。


 昨日だって例外ではない。俺は急いで帰る支度をしながらも、ちゃんとケースに直していた。


 曖昧だった記憶が、はっきりとよみがえってくる。


 そうだ。間違いない。

 カメラがケースから出されたまま落下しているはずないのだ。


 気付き、肩の力がぐっと抜けるような感覚がした。強張っていた顔の筋肉が、優しく弛む。


 だが同時に、疑問が浮かんだ。


 俺じゃないとしたら――


「……じゃあ、誰がやったんだ?」


 自然と、誰かが間に介入したことになる。

 ひとりでにカメラがケースから出るなどあり得ないからだ。


 手に取ったカメラをまじまじと見つめる。


 下校時間を過ぎてみんなが帰ってから、翌日までの短い時間。天文部の部室。


 触れる人間など、限られている。


 息を呑んだ。

 背筋に一瞬の寒気を覚え、身が震える。


「まさか、な」


 俺が呟いたのとほぼ同時に、部屋の扉が勢い良く開かれた。


「あの、野原くん」


 そこには、美晴が居た。

 顔色が悪いというわけではなさそうだが、いつもとどこか様子が違った。


 彼女が睨みつけるように見てきたかと思うと、一度俯いて視線を落とし、また俺へと戻す。力のこもった栗色の瞳は、ぶれることなく俺に据えられていた。


「ちょっと、話があるの」


 息を整えるように深く息を吸い、そして彼女は言った。

 蒸し暑かったはずの部屋は、いつしかその温度を下げていた。

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