第百七話 残喘の終わり
右手首に巻かれた黒皮のシンプルな腕時計で時刻を確認すると、間もなく昼食の時間だということにシナブルは気が付いた。机上の書類から顔を上げ、眉間を揉んで大きく伸びをする。
「──姫」
アンナ達が出発してから二時間が経とうとしていた。無事に早く帰ってきて欲しいと内心穏やかではないが、やらねばならぬ仕事は山積している。
──コンコン。
「はい」
「おつかれ」
シナブルが返事をすると、廊下側のドアがキイッと音を立てて開いた。煙草を咥えたエリックが、数枚の書類を片手に部屋へと歩み入る。
「気を紛らわす為に仕事をしているのかい?」
「そういうわけでは……」
「こういう時くらい、大人しく待っていなよ」
「……はあ」
主に言われるまでもなく確かに、仕事は全く捗っていない。小さく溜め息を吐き顔を上げると、エリックが煙草を揉み消しているところだった。
「はぁ……結局吸ってしまったな。アンナがいないと、つい油断してしまう」
「ゆっくり禁煙されては?」
「うーん……そうするしかないのかもしれないね」
雑談をしつつシナブルは立ちあがる。部屋に備えてあった二つのコーヒーカップに、作り置いていたコーヒーを注いだ。その内一つのカップをエリックに差し出すと、受け取ったエリックは壁に掛けられている小さな風景画を見やりながら礼を言い、目を細めた。
「アンナに……酷いことを言ってしまったんだ」
「酷いこと、ですか?」
「ああ」
昨夜エリックはアンナにこう言ったのだ──。
『殺すと決めて、それを口に出し続けるのなら、ちゃんと殺さないと駄目だ』と。
「アンナとノルの町で再会した時俺は……『もう強くなんてなくていい』と彼女に言ったんだ。アンナが強さを求めるのは、兄上を殺す為だったからね」
「……そうですね」
「口癖のように『兄上を絶対に殺す』とアンナは言っていたけれどあれは……本心じゃないということはわかっていた」
「レン様にあれだけ身内を殺されたのです。姫なりのけじめだったのでしょう」
祖母に弟、いとこに大切な
「──王妃様と母上が塞ぎ込んだのも、大きかったのだと思います」
アンナの母ネヴィアスは十八年前の内乱時、二人の息子を失った。シナブルの母サンは、娘と二人の息子を失った。
当時は悲惨なものだった。子を失った母達の泣き狂う姿は、今でもシナブルの記憶に鮮明に残っている。
「俺は
「……はい」
「だからつい……発破をかけて、無理矢理アンナの背を押してしまった。すまなかったと、早く謝りたいんだ……」
「エリック様……」
──コンコン。
廊下側から執務室へと続く扉がノックされる。
「兄上かもしれませんね」
シナブルはエリックの顔を見ながら言う。しかし「どうぞ」とエリックが応えても、扉の開く気配はない。
「兄上? 何をなさっているので──」
──どさり
「シナブル?」
「う……あ…………ッ……兄上!!」
胸から血を流す虚ろな瞳のルヴィスの体が、シナブルの肩にのし掛かる。その体を仰向けにし名を呼ぶも、返事はない。
「兄上! 一体どうして……」
「ごきげんよう」
シナブルとルヴィスの背後にエリックが駆け寄ろうとしたところに、二人の人物が割って入った。振り向いたシナブルは目を剥き、開いた口の塞がらぬエリックの手からは刀が滑り落ちた。
「ティ……ティファラ? それにフォード……か?」
「エリック……ああエリック! 会いたかった!」
頬を染め、エリックに駆け寄らんとするティファラだったが、くるりとシナブルを振り返るとニタリと不気味な笑みを顔に張り付けた。
「『思い出した?』」
「え……?」
「『思い出した?』」
「え……あ………………う、あ……うわああああぁぁぁぁッ!!」
「シナブル!」
赤い絨毯の上にうずくまるシナブルにエリックは駆け寄ろうとするが、ティファラに阻まれてしまう。
「……ティファラ、シナブルに何をした」
「そんなことよりも、どうして私とフォードが生きているのか聞きたいんじゃないの?」
「そんなことよりも、だって?」
怒気を孕んだエリックの声に、ティファラの顔に影が射す。不満げに唇を突き出すとシナブルの後頭部を踏みつけた。
「この男はあの女を抱いた時のことを思い出して、身悶えしているのよ」
「……なんだと?」
ノルの町でシナブルと対峙したティファラは、彼に二つの魔法をかけた。一つは──忘れねばならぬと封印していた記憶の蓋を開けたこと。もう一つは──彼女自身と再会した際にそれを思い出し、苦しませることだった。
「嫌な男でしょう? 妻子もあるというのに、駄目な男でしょう?」
「……シナブルは」
「なあに?」
「シナブルは家族だ。侮辱するな」
「……何を怒っているの?」
シナブルの後頭部から足を除け、エリックとの距離を詰めるティファラ。彼の目の前で立ち止まると、その体を固く抱き締めた。
「……質問をしてもいいか」
愛しい男の口調が
ティファラの肩越しにエリックは、フォードを睨んでいる。
「アンナはどうしたんだ」
エリックの言葉の後、床に伏せていたシナブルが額から汗を流しながらゆっくりと起き上がった。フォードの胸倉を掴むと、握り締めたシャツごと激しく彼の体を揺さぶった。
「……フォード」
「久しぶりだな」
十八年ぶりに再会する二人の臣下。アンナリリアンという主の為に尽くし、命を捧げてきた──はずだった。
「どういうことだ」
「俺はあの時死んでいなかった。自らに魔術をかけ、死んだフリをしていた。わかるか?」
首を横に倒し、下から挑発的な目でシナブルを睨むフォード。長年時を共にしてきたつもりだったが、シナブルがフォードのこのような顔を見るのは初めてだった。
「何の為にだ」
「怒るなよ、相変わらずだな。何の為って──これは復讐だよ」
「復讐だと?」
「これから死ぬ奴に説明する気はないさ」
「なっ────」
シナブルが視線を下げると自身の胸から鮮血が溢れ出していた。フォードに胸を刺されていたのだ。そのまま体はぐらりとうつ伏せに倒れる。
「シナブル!」
ティファラの腕の中でエリックが叫ぶ。彼女の腕を振りほどこうともがくも、抜け出すことが出来ない。
フォードはシナブルの胸から刀を抜きざまに「そうそう」と彼に語りかけるように言った。
「アンナ様は地獄に落としてきたから」
「……ッ……な、にを」
「もうこの世にはいない」
「ふざけ──ぐっ………………」
叫び、身を起こそうとした刹那、エリックから手を離したティファラによってシナブルの胸は再び貫かれた。噴き出す鮮血を眺めながら、ティファラはくすくすと笑声を漏らした。
「よかったじゃない。大切で大切で仕方のないあの女の所に行けるのだから」
「俺は……」
「なあに? 聞こえないわ」
胸から血が溢れるのもお構いなしに、シナブルは肘を曲げ上半身を起こす。耳を疑ったフォードの台詞──つまりは
主はもう────
「……姫のことは大切だ。しかし……俺は……俺には妻以外……ありえない」
「子供を連れていた、あの髪の綺麗な女のことかしら?」
その言葉に、シナブルは思わず息を呑む。
「貴様らサーシャとエルディアに何を──!」
「主と二人、地獄でお幸せに」
質問に答えることもなくティファラは、再度シナブルの胸に刃を突き立てようと腕を上げた。
「ティファラ、やめろ! 何が望みだ!」
張り上げたエリックの声を聞き、ティファラの口許は恐ろしいほどに歪む。爛々と輝く彼女の目を確認すると、フォードは「あとは任せる」と言い残し、その場から姿を消した。
「ティファラ、フォードはどこへ行った」
「目的を果たしに行ったわ。場所は──言わなくてもわかるわよね」
床に倒れた二人の臣下は血を流すばかりで、先程から微動だにしない。シナブルはまだ呼吸をしているのがわかるが、部屋の入口でうつ伏せるルヴィスは、ぴくりとも動かない。
(──早くティファラをどうにかしないと)
二十年ぶりに再会する、将来を誓い合った女が生きていた。あの時確かに彼女は死んだ。フォードに胸を貫かれて────。
「ティファラ、まさか
君は──」
「あら、気付いたの?」
「……フォードは君を利用するために、アンナに叱られるとわかっていながらも、わざとあの時君を殺したのか」
「正解!」
二十年前、戦場で出会った五人の男女。アンナはフォードとシナブルという臣下を引き連れ、エリックとティファラに対峙した。
最終的にアンナは一人でエリックとティファラの相手をしたのだが、手を出すなという命令に反し、フォードはアンナの危機に割って入ったのだった。
その結果ティファラはその場で死に、致命傷を受けたエリックは、ファイアランス王国に取り込まれた。
「『俺の為に働けば、きっといつかエリックをあの女から取り返してやる』フォードはそう言ったわ」
両手を広げ、ティファラはその場でくるりとターンをする。ドレスの裾がひらりと揺れ、真っ赤なヒールの爪先はエリックへと向けられた。
「あなたも憎いでしょう? 大切な私と母国を奪ったこの国と、あの女が!!」
「……ティファラ、俺は」
「さあ、早く行きましょう? あとの始末は全部フォードがしてくれるわ。グランヴィ家も、この国もおしまい! 二人だけで、二人だけの幸せを築くの」
「……そうか」
絨毯の上に転がっていた刀を拾い上げ、エリックは納得したようにそれを鞘に収めた。ティファラの顔をじっと見つめると、張り詰めていた表情を緩ませた。
「ティファラ、おいで」
「エ……エリック様、なにを……」
ティファラを受け入れんと両手を広げるエリックの姿に、シナブルは絶句する。ティファラはというと、花が咲いたように顔を綻ばせ、手にしていた刀を脇へ放り投げて彼の胸へと飛び込む。
「ああ、エリック……私の、私だけの愛しい人」
「ララ」
「ララ! 嬉しい……ララと呼んでくれるのね。ねぇ、どうするの? なんなら今ここで──」
「──すまない」
ティファラの背に回されていたエリックの右腕が、スッと解かれる。刹那、高々と持ち上がった彼の腕は──手刀は──ティファラの首を目掛けて、目にも止まらぬ早さで振り下ろされた。
「え──」
目の前に合ったエリックの顔が──体が──徐々に離れていく。視界に入るのは彼の爪先。この時になって漸くティファラは、自分の首が落とされたのだと気が付いた。
「ティファラ、俺は……あの時死んでしまった君を確かに愛していた。でもね──悪魔に魂を売ってまで生き返ってなんて欲しくなかったよ。その目的がこの国と、アンナを消し去る為だっただなんて、愛しい君の口から聞きたくはなかった」
「エ、リック、私は、」
私はただあなたと共にありたかっただけ──不本意にも二十年前に終わってしまったこの人生を、再びあなたと共に歩みたかっただけなのにどうして。
ティファラの思いは、言葉は──もうエリックに届くことはない。
「酷い男だと罵るのなら罵ればいい。俺はもう、君を愛せない。
「…………」
「ごめんなティファラ。さようなら──今度こそ安らかに眠ってくれ」
首を落とされても暫く、ティファラの意識はあった。フォードにかけられていた魔術の影響だったのかもしれないが、今となってはもうどうでもよい。
意識を保っていることが出来ない。
(おかしいなあ──私は──一体何処で間違えたのだろう──)
白く透き通るような額に埋め込まれていた赤い
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