第百六話 乱入者
地獄の門が消えた場所には、何も残らなかった。現れた時に出現した黒い沼のような物も、門の扉にずらりと並んでいた骸骨の歯の一本も──何も。
「アンナ……?」
彼女の消えたその場所に、ネスは膝をつきうずくまる。ざらりとした地面に触れ砂を掴むも、そこにはもう何も──何もない。
「あ……あああ……」
「ネス・カートス!」
フォードの魔術で拘束されたままのローリャが叫ぶ。己の
「おい! 避けろ!!」
茫然とうずくまるネスの背後に、ティファラの攻撃の手が迫っていた。幾重にも重なる鋭い風の刃が、地面を抉りながら形を成して猛進してくる。
──ザザザザザザザザ!
「……邪魔をするなよ」
「なっ……」
紙一重で攻撃を躱したネスは、身を捩りそのままティファラに肉薄した。近距離で彼女を睨み付け、握りしめた拳を思い切り鳩尾に撃ち込んでやった。
「ぐ……は……っ」
体を折り後退するティファラ。後方から駆けてきたギルバートがそれを受け止めると同時に、ネスはフォードへと接近した。
「アンナを……返せよ!!」
怒号と共に
「なかなかの速さだ。でも、駄目だな」
横に凪いだフォードの右手から、闇より深く黒い薄板が現れた。ネスの放った
「くそ……!」
「何か言いたいことは?」
フォードが首を横に傾げる。ブロンドカラーの前髪がさらりと揺れ、彼の右目を控え目に隠した。
「どうしてアンナを裏切ったんだ!」
「裏切り? 違うよ、初めから味方じゃなかった。だから裏切りもなにもない」
「な……」
「それにだ、無関係な余所者に一々口を挟まれる筋合いはない」
「うッ……がっ……は……」
お喋りは終わりだと言わんばかりに、フォードはネスの首をきりきりと絞めていく。
(──苦しい)
意識が朦朧とする中、ネスの耳に届くのはローリャの叫び声。視界にぼんやりと入るのは、彼女が魔術による拘束を破り、立ち上がろうとした姿だった。
(──ああ……もう……)
意識が飛びかけた、その刹那。
──ギュイイイイィィン!
────キィィンッ!
「珍客だな」
突如現れた人物の攻撃を、フォードは腰の刀を抜いて防ぐ。二本の刃を操る彼女は、フォードの刀を弾くと彼の脳天に向かって刃を振り下ろす──
──キイイイン!
刹那、眼前に現れた黒い壁によって彼女の攻撃は阻まれた。
「あの女は転移魔法を使えないんでしょ? ここで仕留めれば、私達の勝ちよね」
刀の一つを口に咥え、金色の短い髪をかき上げて彼女は言う。エメラルドグリーンの瞳がぎらりと光ると同時に、フォードが後方へ飛び退いた。
「残念ながら俺が、転移魔法を無詠唱で使えると言ったら?」
「厄介な魔術師だなあと思うわ」
「まだやらねばならないとこがあるんだ。捕まるわけにはいかない」
言うや否やフォードは
「では失礼──────ッ!?」
足元から三人の姿が消えようかというその瞬間、フォードの右肩を雷の閃光が掠めた。血が噴き出しフォードが顔を歪めた刹那、三人の姿は消えた。
「ハァ…………ハァ…………」
攻撃の主はレスカだった。腹に風穴を開けられ虫の息の彼女は、仰向けの体勢から首を少しだけ持ち上げ、
「もう止めなさい!」
金髪の彼女は、レスカに駆け寄り両手を彼女の腹へとかざした。レスカの腹部と金髪の彼女の手が、眩い光を放ち始める。
「アタシの攻撃、あた……った……?」
「当たったから 、動かないで」
髪の間から尖った耳が覗いている。彼女はエルフだということだ。人懐っこい目元を細め、険しい顔でレスカの治療を進める。
「レスカ……レスカ!」
顔面蒼白のレスカに、ネスは駆け寄る。この場で一番傷が深い彼女の命は──今にも消えてしまいそうだった彼女の命は────なんとか持ちこたえた。傷は完全に塞がり、うっすらではあるが頬に血の気が戻り始めている。
「ソフィア・メータだな」
立ち上がったローリャが、金髪の彼女との距離を詰めながら口を開く。
(ソフィア・メータ……?)
記憶の彼方──聞き覚えのある名に、ネスは首を捻る。一体誰だったか──。
エルフ特有の明るく美しい金髪の後ろ髪は、うなじを晒す程に短い。額の中央で分けられた前髪はそれよりも長く、風に遊ばれながら高く整った鼻を控え目に隠している。
「賢者が戦場に何の用だ」
冷たく言い放ったローリャは、腕を組んでソフィアと呼ばれた彼女を睨む。こうして二人が並び立つと、ローリャの方がソフィアよりも年上に見えた。
そんなローリャの後ろでは、カクノシンが気まずそうにその様子を伺っている。
「あら、冷たいのね」
「血の流れきった後の戦場にノコノコとやって来て、何の用だと聞いているんだ」
「騎士団に用はないのよ。私が用のあるのはシムノンの息子」
ソフィアの白い手がネスの頬に伸びる。丈の短い上着から覗く引き締まった腹と豊かな胸に、どうしても目が行ってしまう。
「本当はフォード・レヴァランスを殺せれば一番よかったんだけど……とりあえず、この子が助かればそれでいいの」
頬に触れていた手を滑らせ、ソフィアはネスの手を掴む。
「なんですか、あなたは」
突然現れたエルフに場を掻き乱され、つい苛立った声が出てしまう。今はこんなことをしている場合ではないのだ。一刻も早くアンナを──。
「アンナを助けたいって顔に書いてあるわ」
「なっ……」
「年の功よ、そのくらいわかるわ。でも今は無理」
今は、ということは助け出す方法があるというのか。すがるような目線をソフィアに送ると、彼女は小さく頷いた。
「アンナを……アンナを助けたいんだ!」
「ならば私と一緒に来てくれる? シムノンが待っているわ」
「父さんが……?」
「待っているというか、こちらが待たなければならないのかもしれないけど」
年不相応に可愛らしく「うーん」と唸ると、ソフィアはローリャを一瞥する。
「勝手なことは許さん、とでも言いたげね」
「そうだな」
「騎士団はこの場の後始末をしなきゃならないんでしょ?」
「まあな」
ネスは辺りを見渡す。髪の長い女のアグリーは、地獄の門の消えた場所を見つめて涙を流していた。縄に縛られた他の改造型のアグリー達とクロウは、つまらなそうに顔を伏せ、ウェズとセノンは呆然と座り込んでいる。
傷の塞がったレスカは起き上がりエディンの亡骸の傍で顔を伏せ、ネスの後ろにいるルークは押し黙ってソフィアのことを睨んでいた。
「ルークは私のこと、覚えてくれてるみたいね」
「……ふん」
「まあいいわ、ローリャ・ライル・ローズ、カクノシン・カキツバタ あとはよろしく」
「だから勝手なことは……!」
「何も出来なかった騎士団に、とやかく言われる筋合いはないわ」
悔しげに、そして酷く不満げなローリャは舌を打つとカクノシンを振り返る。翁に通信をしろ、と告げると、
「ソフィアさん、アタシも連れていって下さい!」
殆どぼろ切れのようになったシャツから覗く肌を隠す素振りも見せず、レスカはソフィアに詰め寄った。ローリャの隣にいたネスは彼女のその姿にぎょっとして、後ろから自分の上着を彼女の肩に掛けてやる。先程までは腸が見えるのではないか、というくらい血にまみれていたので気が付かなかったが、レスカの服装は完全にアウトだ。人前に立つには露出が過ぎる。現に、赤面したルークが、ぷいっと顔を背けたほどだ。
「いいけど……どうして?」
「アンナさんがいなくなった今……アタシがネスを、支えたいんです」
「ふうん……でも君は海賊でしょ? 上の許可は取らなくていいの?」
「…………船長は死にました。だから、自分のことは自分で決めます」
レスカの言葉に、ネスはエディンの亡骸に視線を飛ばす。レスカも涙を滲ませながら同じ方を向くと、何の前触れもなく、唐突にエディンがむくりと身を起こした。
「「は?」」
「ん?」
「エディン?」
「ああ、おはよう」
「「「ぎゃああああああああ!」」」
ネスとレスカ、それにウェズの声が重なる。目の前で死人が生き返ったのだ。無理もない。
「な、ななな何!? どういうこと?」
「いやぁ、俺が神に聞きたい」
「「「神!?」」」
その場にいた全員の声が重なる。改造型アグリー達だけは関心がなさそうにそっぽを向いていたが。
「エディン・スーラ、神に……会ったの?」
「ええっと……? どなたか存じませんが、会いました」
見覚えのない女エルフを、エディンは訝しげに見つめる。どこかで会ったことのあるような気もするが、気のせいだろう。
「詳しく聞かせてほしいわ」
「詳しくと言っても……地獄に向かってゆっくり落下してたんですけど、」
「……いきなりすごいな」
堪らずネスは口を挟む。構うことなくエディンは続ける。
「途中で上からアンナとレンが落ちてきたんです。で、レンから俺の
「引き上げられたっぽいって何!?」
「よくわからないんですけど……『
「なにそれ!?」
「神の気まぐれという奴だろう」
思いもよらぬ人物が口を開く。ローリャの後ろに控える男──カクノシンだった。
「あの時翁が言っていたやつか」
「そうだ。この世界の神はそういう奴だよ」
まるで己も神に会ったことがあるかのような口振りだった。皆が続きの言葉を待ったが、カクノシン本人は「これ以上話すことはない」と意思表示をするように目を瞑った。
「それで、
「はい?」
「どうするの?」
ソフィアの言葉に、レスカはエディンに駆け寄る。乞うような目で彼を見つめると「駄目?」と言って目を潤ませた。
「話は聞いていた。好きにしろ」
「いいの?」
「ちゃんと帰ってこいよ」
「……ありがとう……あ」
「なんだ」
「聞きたいこと、沢山あるの」
エディンがライル族であることをレスカに隠していた件──レスカの姉レイシャとエディンの関係など、彼女は矢継ぎ早に質問をしている。
「う……」
と、一言唸ったエディンは「夜にでも通信をしてこい」とピシャリと言い放つと、ウェズの名を呼んだ。
「お前はどうするんだ、ウェズ」
「俺の目的は果たしたさ。だから、これからも……お前と共に」
「そうか」
ミリュベル海賊団の船員たちはファイアランス王国で三人の帰りを待っている。この場所からどうやってファイアランスまで行くのかという話を始めた二人の間に、ソフィアが割って入った。
「ファイアランスに向かうのなら、気を付けなさい」
「どういう意味でしょうか?」
「……わからないの?」
呆れ顔というよりも寧ろ驚愕の表情を浮かべるソフィア。それを見て一同は首を横に捻る。
「フォード達の向かった先よ」
「……え?」
「あいつらはファイアランス王国に向かったのよ──長年の恨みを果たす為にね」
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