第百五話 地獄へと続く縦穴の中で

 暗い。三百六十度、全てが真っ暗だ。しかしどうしたことだろう。己の体だけは内側から発光しているように、ぼんやりと光を灯している。


 落下している筈なのに、空を切る音さえしない。体は不思議と軽く、傷は癒えていた。


「…………ッ!?」


 アンナは己の右腕を見て震え上がった。


「呪いが……消えてる」


 右腕全体に蛇がまとわりつくように、兄に植え付けられた呪い。それが跡形もなく消えていた。残っているのは王族の印──肩から二の腕にかけて彫られた、漆黒の三枚羽の片翼だけだ。


「あ……兄上!」

『なんだ』


 ふわふわと軽い、羽根のような存在に抱きしめられていることにアンナは気が付く。発光しているアンナとは違い、彼の姿はうっすらとしか見えないが、それは紛れもなく兄であった。


「生きてる、の?」

『腕の呪い消えてるだろ……俺はもう死んでるよ』

「……そんな」


 アンナの腕にかけられていた呪いは、術者であるレンが死ねば解けるというものだった。呪いが消えているということは、そういうことだった。


『最後に頭蓋骨割られたしなあ、門の閉まるギリギリまで意識はあったんだが……流石に死んだみたいだな』

「笑い事じゃないでしょ」

『お前も泣くなよ、みっともない』

「だって……」


 アンナは、兄と分かり合いたいと思い続けてきた。それが叶わないと理解し、最終的に兄を手にかけた。


 しかし──。


「演技だったなんて、酷すぎるわよ……」

『もう言うな。過ぎたことだ』

「……そうね」


 これから地上は一体どうなるのだろう。他の神石ミールがどうなったのか、アンナは知らないのだ。仮に全て此方側が取り返していたとしても、一つ──青色の神石ミールのペンダントはアンナの首にかかっている。


 神の望み通りに神石ミール破壊者デストロイヤーが揃わなければ、この世界は終わる。しかし神石ミールの一つは地獄へ向かって下降中。五人の破壊者デストロイヤーの内二人は死に、二人は裏切った。


「……ちょっと待って。ねえ、兄上」

『なんだ?』

ブラス破壊者デストロイヤーって、フォードだったの?」


 儀式の場にレンはブラス破壊者デストロイヤーだと正体を偽って出席した。ならば真の破壊者デストロイヤーは誰だったのか。


『そうだ』

「でもフォードは……ブラス神力ミースを使ってなかったわよ?」

『使う必要がなかっただけなんだろ。実際あいつの魔術は凄まじかったしな』

「……そうね」


 ふう、とアンナは大きく溜め息を吐く。


 フォードの魔術──地獄の門から突き落とされた結果、アンナは肉体を持ったまま地獄へ堕とされた。門が閉まるよりも前に死んだレンは肉体を失い、魂だけが地獄へと向かっている。


「天に昇れるとは思っていなかったけれど……まさか生きたまま地獄へ堕ちることになるなんてね」

『……すまない』

「どうして兄上が謝るのよ」

『俺がもっと……ちゃんとしていれば』

「……そういうのは止めてよ」


 心残りがないかと言われれば、嘘だった。エリックとの約束も果たせぬまま──シナブルとルヴィスとの約束も果たせぬまま──ベルリナとの約束も果たせぬまま──そしてネスを置き去りにして。


「本当に、みんなに申し訳なかったなあ……」

『…………』

「兄上、あたしね……子供が出来たのよ。エリックとの間に」

『……! そう、なのか……』

「魔法でね、姉上の体に移してもらってるのよ、だから……っ…………だから、」

『……すまない』

「おかしいなあ、なんで……涙が、」

『すまない、アンナ』

「違うの、そういう意味じゃ……」



 地獄へと向かう長い長い道中、兄と妹はずっと手を繋いでいた。


 ゆっくりと下降していたはずの体が徐々に速度を上げて、まるで何かに引かれるように落下していることに二人が気が付くのは、もう少しあとのことである。






 暗い──ここはどこだ。


 首を動かし辺りを見渡すも、生憎そこには何もなかった。ただ魂という存在だけになった自分が、だだっ広く真っ暗な空間に浮遊している、ということだけはなんとなく理解が出来た。



「ああそうか──俺は死んだのか」



 口に出してみたが、ひどくどうでもよい事のように思えた。ただ命が一つ、地上から消えただけ。その順番が自分に回ってきたというだけのことだ。


「……地上はどうなったのだろう」


 早々に戦場から離脱してしまった自分。神石ミールは手元にないので、全ての神石ミールは地上にあるはずだ。無事に無名から取り返し、自分の代わりに新しいジョース破壊者デストロイヤーを擁立させれば──せかいのおわりは止まるはずだ。


「順番的に言えば俺の娘のどちらかが継ぐんだろうが……嫌だな」


『そうね』


「……レイシャ?」


『レディン』


 間違いなくレイシャの声だった。今際の際に自分を迎えに来てくれた愛する妻。


「レイシャ、いるのか」

『ええ』


 エディンが手を伸ばすと、真っ暗な空間からぬっ、と白い手が伸びてきた。長い指──筋肉質な腕──形のよい胸──括れた腰に長い足──貝殻のように可愛らしい足の爪。


「レイシャ……」


 会いたかったと言って強く抱きしめた。昔からずっと変わらない、彼女の母にそっくりな鋭い目元に小さな鼻。間違いなくそれはレイシャ・ライル・ユマであった。


『レディン、頑張ったのね』


 エディンはレイシャの肩の上で首を横に振る。


「全然駄目だ。お前の後を継いで破壊者デストロイヤーになったはいいが、結局……死んでしまった」


『いいえ、まだよ』


「まだ?」


『あなたはまだ、こちらに来るのが早かったみたい』


「……? どういう意味だ?」


『上を見て』


「上?」



 声が聞こえる。話し声というよりも、叫び声だ。しかも二人分、その上非常にうるさい。大音量でこの空間に反響して、かなり耳障りだ。


「……なんだ?」




『ギャアアアアアアアアアアアッッ!』

「いやああああああああああアッッ!」



「……なんだ? すごくうるさいぞ……」

『レディン』

「どうした?」

『あなたがちゃんと死んだら、また迎えに行くから──それまで、もう少しだけレスカを守ってあげて』

「またお前だけ行ってしまうのか」

『大丈夫、きっと会えるから』


 霧のように消え行く彼女の名を叫ぶ。満足そうににっこりと微笑んだレイシャは、最後にエディンの頬にそっと触れると、そのままスッ、と姿を消した。



「……レイシャ」




『ギャアアアアアアアアアアアッッ!!』

「いやああああああああああ早い早い早い早いッ!!」


 感傷に浸っている暇などないようだった。二つの叫び声は確実にエディンに近付いてくる。


「この声……」


 ふわふわとゆっくり下降するエディンに、とうとう二つの声の主が追い付いた。

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