第百二話 「さよなら、大好きでしたよ」
女の啜り泣く声が聞こえる。聞き覚えのあるこの鳴き声は、紛れもなくアンナのものだった。
(まだ少し、距離がある)
先の戦いの後、放心状態になったウェズはその場に残してきた。彼本人がそれを望んだからである。無名のメンバー セノン・ルイから己の黄金色の
「止まれ、ネス・カートス!」
ローリャの制止にネスは急停止する。右足を突き出し、ずさあっ、と
「誰かいる……あれは……ファヌエルと……」
「兄さん!」
「待て!」
ファヌエルに寄り添われるルークに向かってネスは駆け出す。血にまみれた兄──それに騎士団長。ルークと戦っていたはずのアンナの姿は見当たらない。
「兄さん!」
「……ネス」
ルークはばつが悪そうな顔をしていた。隣で佇むファヌエルは不満そうに腕を組み、鼻を鳴らしている。
「おい、どうなってる」
「ローリャ。無事だったか」
「当たり前だ。で、なんだこの状況は」
顔をしかめて溜め息をついたファヌエルは、順を追ってこの状況を説明した。自分がクロウ・ドレイクと戦った後、洞窟を進んでいたこと──手負いのルークをアンナが連れて来たこと──ルークに戦意はなく、アンナに脅されて彼の治療をしたこと。
「兄さんはもう、敵じゃないのか」
「……情けない話だがな」
「情けなくなんてない! 立派だよ、兄さんは……父親として、正しい道を選んだと俺は思うよ」
ルークは死んだ──もとい、レンに殺された妻リンネイに
「ネス、父さんみたいなことを言うな、お前は……お前はもう、立派な賢者だよ」
「そんなことは……」
「取り込み中悪いが」兄弟の会話に、ローリャが割って入った。「戦姫はどこにいる?」
先程からネスも気になっていた。アンナは手負いのルークを残し、一体何処へ行ったというのだ。
「ああ、アンナなら……」
ルークが言った刹那──
──ドッ……ガガガガガガガガガッ!
「な……なんだ!?」
洞窟全体が激しい音を立てて崩落していく。崩れた天井から青い空が見え始めた矢先、頭上に大量の岩の塊が降り注ぎ始めた。
「まずいぞ、こりゃあ!」
両腕を開いたローリャは、
「……ネス?」
「大丈夫だ、兄さん」
上空を見上げたネスは、ルークの言葉に振り返ることもせず、ローリャの前方に脚を進めた。
「ネス・カートス……お前」
「俺に任せてください」
刹那、ローリャは背を撫でられるような感覚に陥った。ざらりとした巨大な舌に舐められたような不気味な感覚だった。
「俺なら──」
『ボクなら──』
まただ。またしてもあの謎の声だ。力を解放しようとすると、ネスの体にぴったりと寄り添って、まとわりつく中性的なこの声。
「やめろ」
『いいじゃないか。ほら──』
「──! ────!!」
ネスの背中から大量の
「なんだ……これは……」
膝を震わせ地にへたり込んでしまったローリャの視線は、天に釘付けになっていた。ローリャだけではない。ルークもファヌエルも同様に、その光景から目を放せずにいた。
「まだだ」
ネスは腕を振るう。水渦に包まれた岩の破片たち──それらはそのままの常態で、何かに引かれるように──瞬間的に洞窟の頭上から移動した。
眼前の景色は開け、静寂が訪れる。
「助かった……のか?」
ファヌエルが首を捻り辺りを見回すと、見知った顔が遠目にちらほら見えた。縄で縛り上げ放置してきたクロウ・ドレイク。アグリーの死体の前で跪くウェズ・レッダ。エディン・スーラを抱き抱えるレスカ・ライル・ユマ。そして──。
「アンナ!」
百メートル程離れた場所に、アンナの姿があった。ネスはその背に向かって駆け出す。ここからでも分かるくらい、アンナは肩を震わせていた。
「レスカ! レディン……?」
そのネスの背を追うように、ローリャも駆け出す。ファヌエルもそれに続いた。
「ファヌエル……」
追い越し際、ファヌエルに向けてアンナがぽつりと呟いた。
「なんだ」
「エディンの傷を……塞いでやって。あのままじゃ、可哀想だもの」
「……わかった」
ネスの腕の中で震える弱々しい彼女の言葉を跳ね除けるほど、ファヌエルも冷徹ではなかった。駆け寄ったエディンの胸の風穴を、少しずつ塞いでやる。
「ネス、あたし……」
涙でぐちゃぐちゃになったアンナの顔。腕には己が殺したのであろう、胸から血を流す兄 レンを抱き抱えている。
「アンナ」
「あたし……あたしは、こんなつもりじゃ」
「……うん」
「ずっと……分かり合えると、思っていたの。でも……駄目だった。兄上が、兄上が殺せって……殺せって言うから、あたしは!」
「もういい」
腕の中のアンナを、より強く抱きしめた。声を殺して泣いていたあの時とは違う。彼女は子供のようにしゃくりをあげながら、ネスの肩に顔を埋めた。
細いアンナの肩越しにレスカの方を見やると、彼女もまた同じように、ローリャの腕の中で泣いていた。
(エディンが……死んだのか)
『俺がレスカの前で
エディンがネスに語った本心──。
(言葉通りに死んでしまって……馬鹿じゃないか、エディン)
皆が悲しみに打ちひしがれていた。
しかし、戦いはまだ終わってはいないのだ。
「アンナさんッ!!」
刹那、ネスとアンナの視界を覆い尽くす血飛沫。
「え」
どさりと倒れたのはベルリナの小さな体。肩から腰にかけて、背中を大きく斬り裂かれ、深い傷口からはぼたぼたと肉片が散らばった。
「ベル……?」
一体何が起こったというのか。レンの亡骸をそっと横たえ、ベルリナの体躯へ這っていくアンナ。彼女を後ろ手に庇い、ネスは立ち上がり
「こんな女を庇うなんて、御姉様ったら本当に愚かね」
聞き覚えのある声だった。もう二度と会いたくないと願っていた女の声だった。
「ティファラ・マリカ・ラーズ……」
「あら、ララって呼んでよ、ネス・カートス」
彼女の手の中で風の大鎌がヒュンヒュンと駆け巡っている。後ろで佇むフードの男。あれは──
(──あれが、無名のボスか)
抜刀したネスは二人と対峙する。ニタニタと気持ちの悪い笑みを張りつけているティファラが、目障りでならない。
「ローリャ! カクノシン! ハァッ……ハァッ……ファヌエル! 来なさい!」
アンナの腕の中でベルリナが叫ぶ。生きているのが不思議なくらい深い傷だ。少し力が加わっただけで、傷口の所でぷつりと体が千切れてしまいそうだというのに、彼女は叫ぶ。
「ベル、だめよ……そんな声を出しちゃ……死んじゃう」
「あ…………あれえ、アンナ……さん……心配して…………くれてるんです、か」
「馬鹿なこと言ってる場合!? あたしはまだあんたに……恨みの一つも返せてないというのに!」
「はは…………嬉しい……なあ」
この間に三人が集結した。膝をつきわなわなと震えるファヌエルはアンナを一瞥すると、ベルリナの肩を掴み己の膝へと引き寄せた。
「総団長……」
「ファヌエル……あなたが……私の力を…………引き継いで」
「そんな!」
「ローリャ、カクノシン…………いいですよね?」
「お前が決めることだ、うちは何も言わん」
背を向けてローリャは駆け出す。黙って頷いたカクノシンもそれに続いた。駆ける二人が刃を向けるのは、無名のボス──それにティファラだ。
「ファヌエル……早く」
「でも」
「早くしなさい! ハァッ……ハァッ、このままだと……このまま、私の体が奪われた、ら…………私の体から……魔法が、禁術も含めた全ての魔法が……抜き取られてしまう…………敵に……ティファラに、奪われるわけには……いかない」
魔法使いは死ぬと肉体が消滅する。それは彼等の死後、遺体から魔法を他者に奪われないようにするためだった。
ベルリナの有する多くの魔法。彼女しか扱えない禁術魔法も、このまま彼女が死んでしまえば無に帰してしまう。息のあるうちに体を他者に奪われれば、悪意のある者に魔法が渡ってしまう。
「……わかりました」
涙を拭い、ファヌエルは覚悟を決めた。右手でベルリナの手をきつく握りしめると、左手でそっと彼女の頬に触れた。
「わたしの……全てを…………あなたに……」
「ベルリナ様ッ!」
「ファヌエル、ごめんね……私……」
ファヌエルの右手と、ベルリナの両手が眩い光を放ち始める。全身がその光に包まれ──ファヌエルの金色の髪が白みを帯び始め、後天的な魔法使いのそれへと変化する。長く尖ったエルフの耳は、少しずつ縮んでゆく。
「わた……し、あなたに…………」
「ベルリナ、様……!」
光が弾け飛び──そして──。
「アンナ、さん……」
「……なに」
「世界を、救って……そしたら……」
「……うん」
「幸せに……なって……」
「うん…………うん……」
「やく、そく……ですよ」
足元からゆっくりと消え行くベルリナの体。光の粒子になって、ふわりと風に拐われて行く。
「いや……ベル! だめよ!」
「はは……嬉しいなあ……」
ベルリナは天を仰ぐ。視線はアンナとファヌエルの顔を通りすぎ、空に広がる雲の群れを見つめた。
(五百六十二年──長生きしたものね)
「さよなら、大好きでしたよ」
その言葉は──最期に彼女が残したその言葉は。
「ベル!」
「ベルリナ様!」
一体、誰に向けられたものだったのか。
今となっては知る者は──誰もいない。
ファヌエルの腕の中で、残されたベルリナの軍服だけが、ただただ静かに風に揺れていた。
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