第七十八話 もう一人の臣下
王の間を後にしたアンナとエリックは、ネス達の待つ客室棟へ向かって足を進める。
長い回廊を抜け、中庭を一望できる窓壁の分岐を右に進む。左手には中庭、右手には派手すぎない装飾の施された壁が延々と続く。
「あ……サーシャ!」
二人が回廊の中間地点に差し掛かった所で、角を曲がり姿を現したのはシナブルの妻サーシャだった。横結びにしたローズダストカラーの美しい髪の毛先が、彼女が歩く度に緩やかに波打つ。
そんな彼女は隣に三、四歳くらいのスーツ姿の男児を連れていた。アンナのよく見慣れた明るい星空のような髪。サーシャに雰囲気の似た柔らかな目元。
「アンナ様、エリック様! お久しぶりです」
「あ、アンナ! 走るなって!」
声を弾ませるサーシャの元に、アンナはエリックの制止も聞かずに駆け寄った。二人が再会するのは、およそ五年ぶりであった。
「息災でしたか?」
「んん……まあまあ、かな」
「ひょっとして、また怪我ばかりなさっていたのですか?」
訝しむようなサーシャの尋ね方に、アンナは目を反らす。
「べ、別に……」
「図星なんですね」
「うう、まあ……うん」
「あまり怪我ばかりされると、私もシナブルも
「うぅ……ごめん……そ、それよりサーシャ、懐妊したって聞いたわ。おめでとう」
サーシャの説教が始まる前に、アンナは慌てて話を反らす。優しい顔をしているが、見かけによらずサーシャはこういうことには結構厳しい。それは彼女なりの優しさ故なのであったのだが。
「ありがとうございます」
と、ここでエリックは「しまった」という顔をしてアンナを見た。頭の上に疑問符を乱立させ、彼女は不思議そうに首を傾げている。
「えっとサーシャ、聞きたいんだけど……その子は?」
ノルの町でエリックはアンナに言った。『サーシャが懐妊した』と。それに対しアンナは『あのシナブルが父親になるなんて、信じられる?』と返した。エリックはシナブルとサーシャの子、エルディアの存在を知っていたのだが、
懐妊したのは
「エルディア、ご挨拶をして」
息子の肩に手を乗せ、促すようにサーシャは言う。
「アンナ様、長男のエルディアです」
サーシャが言うと、
「アンナさま はじめまして エルディア・グランヴィですっ」
と言ってエルディアはぺこりと頭を下げた。
「ん……んん?」
顎に手を添え腰を前方に折り、穴が開くほどエルディアを見つめるアンナ。
「どうかしましたか?」
「……もう産んだの?」
「へ?」
「というか育つの早くない?」
「はい?」
「いや、待て待てアンナ、違うんだ」
ここで漸くアンナとサーシャの間にエリックが割って入った。二人の話が噛み合わず、わけの分からないことになるのが目に見えたからだ。
「アンナすまない、俺の説明不足だったんだ」
「説明不足?」
「ああ。エルディアが生まれたのは四年前だ。そしてサーシャの腹には二人目がいるってことだ」
「え?」
「そうなんです、アンナ様」
「シナブルからは何も聞いてないわよ……」
(四年前──といえば、たしかエディンが
「サーシャ、エルディアは何月生まれなの?」
「五月の末です。先日四歳になったばかりですよ」
「五月……」
(ということは……)
「あの時にはエルディアは生まれていたってことになるわね」
「ア……アンナ様?」
「アンナ、落ち着け、いや頼むから落ち着いてくれ」
アンナの両肩にエリックが手を添えるも、彼女はその手をゆっくりと掴むと、丁寧に自分の肩から引き剥がした。
「落ち着いているわよ」
そう言いながらもアンナの顔は怖いくらいにひきつり、シナブルがいるであろう方角を──客室棟の方を睨み付けている。
「どうしてあいつは教えてくれなかったのかしらね」
怒りながらもどこか寂しげなアンナの声。信頼している臣下が大事なことを隠していたということが、彼女には辛かったのだ。
「お、おいアンナ。何をするつもりなんだい?」
「一発殴りに」
「おいおい」
「冗談よ。ちょっと文句を言いに行くだけよ」
「どうぞ、お好きになさって下さい」
「サーシャまで、何を言うんだい」
アンナの言葉に、サーシャはにこやかに答える。エリックはそれを見て溜め息をついた。
「悪いのはあの人ですもの。私には止められませんから」
そう言って、ふふ、と微笑んだサーシャは少しずつ遠のいていくアンナの背を見送る。
「俺も行かないといけないな。何が起こるかわからない」
「シィィィィナァァァァブゥゥゥルゥゥゥゥッッ!」
「「……あ」」
顔を見合せエリックとサーシャは苦笑する。
遠くからアンナの叫び声が聞こえてきたのは、エリックがアンナと同じように
*
「ぃったぁ……」
床、ベルリナ、アンナ、謎の男のサンドイッチが出来上がったところで、強く背中を打ち付けたベルリナが声を漏らした。
「アンナさん、大丈夫です?」
「あぁ……うん、大丈夫よありがとう」
謎の男の体重がアンナに掛からぬよう、ベルリナは右腕を突っ張り男を支え、左腕でアンナを抱き寄せていた。
「姫! お怪我は!?」
「大丈夫、大丈夫」
駆け寄ったシナブルを片手で制止し、アンナは眼前の男を睨んだ。
「ルヴィス……」
「うわあああああ! 申し訳ありません姫っ! ベルリナ様!」
ルヴィスと呼ばれた男は、ぐい、と身を起こし彼女達から離れた。両の手を差し伸べ、押し倒してしまった彼女達を引き起こす。
「全く、何なんですかあなた。
「体の状態?」
「待てベル、言うな」
ベルリナの口を手で覆い、次に飛び出すであろう言葉を遮るアンナ。
「や、ちょっと! 舐めなくていいから!」
「だってえ」
「だってじゃないわよ!」
「あの~……」
三人を順々に見ながら、ネスはそろりと遠慮がちに手を上げた。
「なによ」
「さっきからバタバタ人が来て、みんなびっくりして固まっちゃってる」
不機嫌そうに答えるアンナを刺激しないよう、ネスは慎重に言葉を選ぶ。シナブルの隠し事のことで怒り狂った姿で現れたかと思ったら、苦手な相手であるベルリナに
(これでアンナが不機嫌じゃなかったら奇跡だ)
「固まって?」
ルヴィスの手を離し、アンナはくるりと振り返る。
「あ……みんな、ごめん」
元々廊下にいた者達は、全員がそのままの姿で鼻の下を伸ばし、ポカンと口を開けて立ち尽くしている。室内で食事を摂っていた者達全員は
「えっと……ルヴィス、自己紹介」
「はい!」
こほんと咳払いをしたアンナは、軽い視線をルヴィスに送る。
「申し遅れました。ネス・カートス様、エディン・スーラ様、並びにミリュベル海賊団の皆々様──初めまして、ルヴィス・グランヴィと申します。後ろにいるシナブルの兄です」
そう言ってぺこりと頭を下げるルヴィス。
「シナブルのお兄さん?」
言われてみると確かに、ルヴィスとシナブルは同じような顔付きをしていた。同じ髪色に同じような髪型。完全に額を出しているシナブルとは違い、ルヴィスは前髪の一部を垂らしているので、左目が少し隠れている。
何よりも違うのは、二人の目付きだ。鋭い弟とは対照的に兄のそれは柔らかく、優しげな雰囲気だ。
「はい、いつも阿呆な弟がお世話になっております」
「阿呆って、兄上……」
後ろに控えるシナブルは、兄の発言に呆れて溜め息をつく。
「ああ、皆様申し訳ありません。どうぞお食事の続きをお楽しみくださいませ」
高らかなルヴィスの台詞で我に返った船員達は「お世話になりまーす」「よろしく頼むな!」などと口々に告げると、各々が好きなように散らばって行った。
「おーい、レスカ?」
骨付き肉を噛りながら、ウェズがレスカの目の前で手をぶんぶんと振るも、彼女は茫然とその場に立ち尽くし、ウェズの声など聞こえていない様子だ。
「素敵……」
「は?」
「シナブルさんも気になっていたけど、ルヴィスさんも素敵……」
顔の前で指を組み、ふらふらと歩き出すレスカ。それを見てエディンが「あ"っ!」と声を上げる。
「あの、ルヴィスさんは独身なんですか?」
「え?」
「やめんかっ!」
レスカがルヴィスに質問を投げ掛けたところで、彼女はエディンに首根っこを掴まれた上に、後頭部を平手で叩かれた。
「いったぁぁぁぁぁぁいっ!」
「悪いのはお前だ。ったく、いつもいつも……シナブルさんもルヴィスさんもライル族じゃねえんだ。慎めってんだ、レスカ!」
「どうしても無理だったら、ティリスとライル族のハーフでもいいもん!」
「お前!」
ネスはこのやり取りを以前にも目にしていたが、今のレスカの一言で、エディンの顔が一瞬本気で怒ったように見えた。
「いだだだだだっ! ちぎれるっ!」
「ちぎれない」
レスカの右耳をつまみ上げ、ぐいぐいとそれを上に引くエディン。先程の形相はどこへやら、いつもの彼の顔に戻る。
「すいません、うるさくて」
「お気になさらず、エディン様」
「ルヴィスさんも俺のことを様って呼ぶんですね……」
「当然です!」
にっこりとルヴィスが微笑んだのを見て、溜め息をついたエディンは会釈をすると、レスカの耳を掴んだままその場を後にした。
「この状況は……?」
嵐のような二人組を見送り、その場に残されたネス、アンナ、ベルリナ、シナブル、ルヴィスが安堵の表情を浮かべる中、姿を現したのはエリックだった。
シナブルとルヴィスが姿勢を正し頭を下げたのを、エリックは軽く手を上げて応じた。そんな彼はベルリナの姿を捉えると、腰を折って深々と頭を下げた。
ベルリナもエリックがしたのと同じように頭を下げる。
「ちょっとバタバタしていたけど、落ちついたから大丈夫よ」
「バタバタ? それよりもアンナ、ルヴィスとシナブルには話したのかい?」
「……まだ」
目を伏せてエリックから顔を反らしたアンナと、ネスは思いがけず目が合う。お互いに驚いて目を見開き、ぷい、と顔を背けてしまった。
「どうしたのです、姫。何かあったのですか?」
首を傾げ、
「え、えーっと……ねぇエリック、何て言ったらいいと思う?」
「俺に話したのと同じように言えば、大丈夫だよ」
「それでいいの?」
「ああ。大丈夫」
「ルヴィス、シナブル、ちょっと来て」
「「────? はい」」
ちょいちょいと指先だけで手招きをし、二人の臣下を呼び寄せるアンナ。
「一体どうなさったのです?」
心配そうな声でシナブルが尋ねた。
「ごめんね、心配するようなことでもないとは思うんだけど」
「何があったのです?」
「ルヴィス、もう少しこっちに来てくれる?」
「はい」
壁際で小さな輪になった三人の誰もが、落ち着かない表情を浮かべている。
「あのね」
「「──はい」」
「えっと……えっとね……」
おろおろと目線は宙をさ迷い、この期に及んでもまだはっきりと言うことが出来ないアンナ。
少し逡巡した後、胸の前で左手をきゅっと握り、意を決して口を開く。
「子供が……出来たの。エリックとの間に……」
「「────っ!!」
目を剥いた二人の臣下は、揃いも揃って床にどすんと尻餅をついた。
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