第七十九話 溢れ出す感情

 シナブル・グランヴィがアンナ・F(ファイ)・グランヴィに出会ったのは、彼が三十歳(人間でいうと六歳)の時だった。


 実母のサンに『明日、アンナリリアン様に会いに行くわよ』と言われた日の夜には、緊張と興奮で眠れなかったことを、今でもよく覚えている。  

 生後一週間のふにゃふにゃな赤子。すべてが小さく愛おしい存在。そんな赤子に、今この瞬間から生涯死ぬまで仕えるようにと実母から言われたシナブルは、言葉に出来ない使命感に身を燃やすこととなった。


 気が付くとシナブルの心の中に、愛情というものが芽生えていた。家族愛ではなく、一人の女としてあるじを見ていたのだ──いけないということは分かっていた。


 更には十年前の忌々しい命令に従い、彼は主を抱いてしまった。

 それが契機となり、彼が主を思う気持ちに拍車が掛かってしまったのは言うまでもない。




 ルヴィス・グランヴィがアンナ・F(ファイ)・グランヴィに出会ったのは、彼が三十五歳(人間でいうと七歳)の時だった。


 あれは城の庭木の手入れをしていた時だった。アンナの母ネヴィアスが、自室のバルコニーで赤子を抱き日光浴をしている姿を見かけたのだ。

 遠すぎて赤子の顔を見ることは出来なかったが、愛おしそうに我が子を抱くネヴィアスの幸せそうな表情が印象深かったように記憶している。


 彼がアンナに仕えるようになったのは、十八年前の内乱の後からだった。アンナに仕えていたフォードが死に、アンナ直属の臣下に空きが出たのだ。

 それまで国王エドヴァルドに仕えていたルヴィスから見たアンナは、『他人にも自分にも厳しい人』だった。


 その頃から、既に笑うことの少ない主だった。内乱のせいだということは、分かりきってきた。


 出来るだけ主に笑っていて欲しい。


 そう願い続ける彼の想いと行動は、結果的に主にとって良い方向へと向かっていった。



「え……あ……ひ、姫、今なんと?」


 廊下の赤絨毯に尻餅を着いたままの体勢で、わなわなと小刻みに体を震わせながらルヴィスは言った。そんな彼の隣では弟のシナブルが口をあんぐりと開き、同じように尻餅を着いたまま硬直している。


「え……また言わなきゃいけないの?」


 うんうん、と首を縦に激しく振るルヴィス。それを見てアンナは仕方ない、と眉間を指で押さえ首を横に振り、先程と同じ言葉を口にする。


「だから、その……子供が出来たのよ。エリックとの間に」


 頬を染める主を見て、ルヴィスとシナブルは顔を見合わせて驚愕の表情を浮かべた。そして嬉しそうに笑ったかと思えば、揃いも揃って大粒の涙をぼろぼろと流し始めたのだ。


「う……ううっ……ふええええ……っ」

「ちょっと二人共……っていうかルヴィス、声を上げて泣かなくても……ていうか何で泣くのよ」

「ひぃめぇ……っ」

「シナブルまで……」


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりつつある二人に合わせて、アンナは屈んで視線を合わせる。



「……!!」


 それを見て我に返った二人の臣下は、膝を付き胸に手を当てると、頭を垂れて声を重ねた。



「「──アンナ様、御懐妊おめでとうございます」」



 先日、エディンとウェズが全く同じことをアンナにしていたが、スーツ姿の臣下達がした方がよっぽど絵になるなと思いながら、ネスはその光景をじっと見つめる。


(大人の男の人が泣くのって初めて見たな)


 内心そう思いながらも、


「しかし泣きすぎだ……」


 と口にしてしまう。



 この光景を見ていたエリックとベルリナは苦笑し、アンナは照れながらも目元を綻ばせた。


「ありがとう」


 アンナの言葉を聞いてまたしても顔を見合わせた兄弟達は、よほど嬉しいのかだらしなく口を歪ませながら、肩を叩き合っている。


「なあ、兄上。御子の世話をするのはエルディアだよな?」

「悔しいがそういうことになるな。あー、俺も早く身を固めないとな」

「二人共」

「「はいぃ!」」

「調子に乗りすぎよ」

「「申し訳ありません!」」


 鋭いアンナの声に、飛び上がるルヴィスとシナブル。絨毯に片膝を着いていた体勢から、即座にそれを正座へと切り替える。


「あ、はいはいっ、姫っ! 質問です」

「何よルヴィス」


 正座をしたままぴょこぴょこと上下に跳び跳ね、腕をビシッと垂直に伸ばすルヴィス。


「その……どうするのです? これからの戦いに、そのお体では……」


 言葉尻を濁した彼の心配の向く先は、言うまでもなく主の体。流石の彼も、いくら主が強いとはいえ、このような状態で本気で戦えるとは思っていなかったからだ。


「ああ、それなら大丈夫。その為にベルリナを呼んだのよ」


 と、ここでアンナはルヴィスとシナブルに『母体転移』という術についての説明を済ませた。話し終えたアンナがスッと左手を腰の高さに掲げると、正座のままだった二人は立ち上がった。


 話を聞き終えた二人は事実を受け入れることが出来たのか、安堵の表情を浮かべている──少しばかり戸惑いの色も見られたが。


「なるほど……そういうことですか、姫」

「分かったのならよろしい」

「身軽になった肩慣らし、ということですか」

「そ」



 アンナとシナブルの会話についていけてないのは、この場でネスだけだった。全く意味が分からない、と首を捻り無言でアンナを見つめる。


「あれをやるって、あたしさっき言ったでしょ?」

「ああ。そのあれっていうのが分からない」

「肩慣らしって言ったでしょ?」

「うん」

「……」


 はあ、と明らかに面倒くさそうな溜め息をつくアンナ。


「夕方くらいにやるから、あんたも見に来たらいいわ。少しは勉強になるんじゃない?」

「だから何の!?」


 説明が不足しすぎていて、ネスの理解は追い付かない。にも関わらずアンナはこれ以上話をする気がないようで、視界からネスを追い出した。



「ベル、そろそろ」

「そうですね、分かりました」

「姉上の所に案内するわ」

「やった!」


 どうやらアンナはベルリナを連れ立ってマリーの所へ行くらしい──ということは、『母体転移』の術をかけに行くということなのだろう。


「エリック、どうする?」

「折角だけど遠慮しておくよ。男子禁制なのでしょう?」


 そう言ってエリックはちらりとベルリナに視線を送る。


「フフン、そうですね。父親の貴方がそう言われるのであれば、男子禁制ということにしましょう。ネスさん、分かりましたか?」

「なんで俺なんです?」

「着いてきたいって言いそうだなと思いまして」

「あなたは俺のことを何だと思っているんです……」


 ベルリナはネスの質問に答えることなく、いやらしく唇の端を吊り上げると、くるりとネスに背を向けた。



「エディン!」


「────────なんだ?」


 声を張り上げ、アンナは客室内に入ってしまっていたエディンを呼んだ。それにつられてひょっこりとドアから顔を出すエディン。


「ネスと一緒に父上に挨拶に行って来てよね! ルヴィスを同行させるから!」

「あ──? ああ、分かった!」

「アンナさん! 男子禁制なら、アタシも行っていいっ?」


 エディンの後ろから飛び出して来たのはレスカだった。よほど口に合ったのか、両手に持ったチョコレートパイをもぐもぐと頬張りながら、駆け寄って来る。


「あ、こらレスカ!」

「男子禁制よ、船長キャプテン!」


 あっという間にチョコレートパイを平らげたレスカは、パンパンと両手を叩いてパイ屑を床に落とすとアンナの前で立ち止まり、にやりと笑った。


「ねえ、いいでしょアンナさん。アタシも見に行きたい!」

「構わないわよ」

「やったあ!」


 両拳を胸の前でぐっと握りしめると、レスカは嬉しそうにその場で跳び跳ねた。



「じゃあルヴィス、ネスとエディンを頼んだわよ。シナブルはヴィウィと一緒に皆の食事の世話、ああ、事務仕事があったら合間にやっても構わないから。あいつらならそのくらい気にしないだろうし」

「「承知しました、姫」」

「あたしは例の術が済んだら、城内の挨拶周りに行くから」

「「承知しました」」

「夕方から、そうね──『壱番』を使いましょ。十六時に集合、いいわねシナブル。逃げんじゃないわよ」

「はい……」

「じゃあ、頼んだわよ」

「「はい」」


 意気揚々としたルヴィスとは対照的に項垂れたシナブル、それにネスとエリックを残し、女達三人はなんとなく楽しげな空気を纏いながら、その場を後にした。



「さて──それではネス様、エディン様」


 主を見送り終えたルヴィスが、くるりと振り返り笑みを浮かべる。弟とはまるで違う柔和な笑顔だ。

 そんな兄を尻目にシナブルは「俺はこれで失礼します」と言うと、悩ましげに頭を抱えなから、良い薫りを放つ客室内へと向かって行った。


「国王エドヴァルド様の所へご挨拶へ参りましょうか」

「はい」

「よろしくお願いします」


 ネスとエディンの言葉が重なる。


「俺もここで失礼するよ。また後で」


 しなければならないことかあるのだと言ったエリックも、その場を後にした。





(エドヴァルド二世って、どんな人なんだろ)


 王の間に向かう回廊を歩きながら、ネスが思い出すのは、ノルの町のカフェ『蜂の巣』で見たあの手配書の中の恐ろしい男だ。


(怖いのは当然分かってるんだけど、会話が成り立つかな……実の娘に拷問をするような人だもんなぁ)


 右手の窓ガラスの向こうに広がる庭を眺めながらネスは腕を組む。


(アンナよりも怖いってのは確実だよな……)


 ネスの眺めるその庭は、城の入口に広がっていたものよりも控え目な規模ではあったが、よく手入れの行き届きた立派なものだった。庭の中央では、白く巨大は噴水が勢いよく水を噴き出していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る