第七十七話 中年者達の語らい
話があると言いながら、なかなか続きを話さないアンナに、エドヴァルドは苛立ち始めていた。目を細めて眉間に皺を寄せ、突き刺すような不機嫌な視線を娘に向けている。
「おい、アンナ」
エドヴァルドの言葉に反応した目の前の娘は、後ろに控えるこれから息子になる男をちらりと見やり、意を決したように顔を上げた。
「父上──その…………子が、できました」
──ガシャンッ!
「何をやっているのよ、あなた」
「……悪い」
玉座の肘掛けに置かれた盃が、派手な音を立てて床に転がった。ネヴィアスは大きな溜め息をつき、エドヴァルドの手前に控えるコラーユは、無言でそれを拾った。
「あー……えー……っと……なんだ、その、よくやった」
「……? ありがとうございます」
歯切れの悪い父を不思議に思いながらも、アンナとエリックは揃って頭を下げた。
「父親はエリックでいいんだな?」
「はい」
「兄上、娘になんてことを聞くんですか……」
やれやれと頭を抱えたコラーユが、エドヴァルドに呆れた視線を向ける。
「
「まあ……そうかもしれませんが、聞き方ってものがあるでしょうよ」
「んなもん知るか」
まあとにかく、とエドヴァルドは続ける。
「強い子を生めよ…………ん? というかお前、これからレンを討ちに行くというのに、その体でどうするつもりだ」
「それにつきましては、大丈夫です」
ベルリナ・ベルフラワーに『
「ああ、それでベルフラワーが来ているのか」
「ベルリナはもう来ているのですか?」
「らしいな」
必要以上の説明を省くと、エドヴァルドは「さてと」と立ち上がった。
「話は済んだのだろう。俺は忙しいんだ」
「はい。お時間を割いて頂き、ありがとうございました」
「────ふん」
長い外套の裾を翻したエドヴァルドは、玉座と平行線上にある扉の向こうへ、足早に去っていった。
「はぁ……」
額から一気に吹き出した汗を拳で拭いながら、アンナはその場にへたり込んだ。父との会話は正直体に毒だ。
「お疲れ様、大丈夫かい?」
「あまり大丈夫じゃないわ」
アンナの肩を支えながらエリックは、ネヴィアスとコラーユに「申し訳ありません」と言って頭を下げる。
「構わないわよ、楽にしなさいな」
「ありがとうございます、母上」
「それにしても、よくやったわねアンナ。それにエリック」
「え、あ……はあ、ありがとうございます」
こんなことで褒められると、どう反応したらよいのか分からず、アンナは顔を赤らめて下を向いた。
「ルヴィスとシナブルにはもう話したの?」
「いえ、まだです。一番に報告すべきはこちらだろうと思いましたので────あ」
「どうしたの?」
硬かったアンナの表情が、何かを思い出すと同時に弛緩した。口を閉じたり開いたりしながらじっと床を見つめ、母に何と説明したものかと考えを巡らせている。
「家の外の者で知る者はいます。他の
悩みながら紡いだ言葉なので、どうしても辿々しくなってしまう。先程妙なことで褒められたということもあり、アンナの心情は揺れるグラスの中で踊る水のように、ぐわん、ぐわんと安定しない。
「後でこちらに挨拶に来させますが、
「カートス? まさかシムノンの息子?」
玉座から腰を浮かせ、驚いた様子のネヴィアスは、軽く咳払いをすると、恥ずかしそうにゆっくりと座り直した。
十年前にファイアランス王国で
「そう──彼の息子が来ているの。今一度感謝を述べなければならないわね」
*
それでは失礼します、と頭を下げたアンナとエリックが王の間から退室した直後──
「もう出ていった?」
玉座から平行線上にある扉の奥からひょっこりと顔を出したのは、エドヴァルドだった。
出て行きましたよ、というネヴィアスの言葉につられてひょこひょこと扉の奥から出てきたエドヴァルドは、「はあああぁ」と大きすぎる聞き苦しい落胆の溜め息をついた。
「またアンナに嫌われる……」
「知りませんよ、そんなこと」
「盃投げつけてしまったし……」
「身籠っている娘に向かってね」
「うう……それを言うなよ。これ以上嫌われたくない」
「これ以上に嫌われることは無いでしょうよ」
「そんなー、母さん!」
「私はあなたの母さんではありません」
「ネヴィアスぅ!」
鬼のような形相に、荒れ狂う海のような態度だったエドヴァルドの様子が何だかおかしい。どうやらこちらが
「俺の可愛い娘よ……ついに子を成すとは。嬉しいんだがエリックに取られたみたいで、なんだか辛い」
「子を成す為にエリックをこの国に引き込むよう命令したのはあなたでしょう?」
「まあ、そうなんだが」
がっくりと項垂れて、いじいじと壁に人差し指を押し付けるエドヴァルド。こんな情けない姿だが実力は折り紙付き。国政においても殺し屋としても彼の力は絶大だった。
「威厳のある父親って難しいんだよ。こんなことしたくないけど、厳しくするのが愛だって母上も言っていたしなあ」
エドヴァルドの母でアンナの祖母──先代国王アリア・F(ファイアランス)・グランヴィ。彼女もまた厳しい人であった。その夫アリエムールは対照的に温厚な人物であったのだが、三十年以上前に殉職。それを境にアリアを止めるストッパー役がいなくなり、必要以上に彼女は息子達に厳しくあたるようになった。
「兄上」
見るに堪えない兄の姿に、瞼を下ろし押し黙っていたコラーユが、左目と口を唐突に開いた。
「なんだコラーユ」
「どうします? アンナ様の御懐妊のことは式の時に国民に報告しますか」
「あー……うーん、ネヴィアスどう思う?」
「あなたが席を外した後にちゃんとあの子に確認しましたよ。安定期に入っているはいえ、今からの戦いで何があるかわからない。だから無事に全てが終わるまでは、隠しておいてほしいと」
「それは勝てる自信がないということか?」
あのアンナに限ってそんなことがあるのだろうか。最強と詠われ、事実殺し屋としてトップに君臨するあの娘に限って
「私にも、あの子が何を考えているのか分からないわ。母親としては情けない話だけれど」
そう言ってネヴィアスは窓の外を眺め、眩しさに目を細めた。ガラス窓同士の間には華やかなステンドグラスの飾り窓がある。花弁を象ったその細工にはキラキラと太陽光が反射し、絨毯の上に美しい色の光を落としている。
「懐妊について、家の者達には私から話をします。ルヴィスとシナブルには自分の口から話すと言っていたけれど、大丈夫かしら」
言ってネヴィアスはコラーユを見た。彼はエドヴァルドからは見えないよう顔を少し反らし、少し申し訳なさそうな、困ったような顔をネヴィアスに向けた。
「何が『大丈夫かしら』なんだ?」
エドヴァルドは知らない。自分が十年前にアンナとシナブルに出したあの恐ろしい命令──エリックが不在の間、お前達の間に子を成せと言ったあの出来事。あれから──否、あれよりも以前からのシナブルという一人の臣下は、アンナという
(シナブルがそれを聞いて、ショックを受けなければいいけれど)
というのがネヴィアスの危惧だった。
シナブルの父であるコラーユも、勿論その事実を知っていた。当時エドヴァルドに仕えていたコラーユの長男ルヴィスは、アンナとシナブルの
監視と言っても流石に
『シナブルがおかしなことを言っている』
──と。
ルヴィスはそう父に告げた。だからと言ってコラーユは直接シナブルに何かを言った訳でもない。人の想いに、とりわけ情事と愛欲の絡んだことについて、誰かが──ましてや父親の自分が何を言ったところで、どうしようもないであろうということは、息子の性格からして分かりきっていた。
この事実を知っているのはコラーユ、ルヴィス、それに十八年前に死んだコラーユの娘マンダリーヌ。更には王妃ネヴィアス。
『エドヴァルドの耳に入ったら、どうなるかわからないわ』
ネヴィアスのこの一言に皆は同意した。故にエドヴァルドは何も知らない。知らなくてもよいと周りが判断した為であった。
「ネヴィアス、何が大丈夫なんだ?」
何も知らないエドヴァルドは、眉をひそめて繰り返し妻に問う。
「アンナが照れずにちゃんと二人に報告できるのかしらと思っただけよ」
「ふうん、そうか。まあ、どうとでもなるだろうよ。それよりも、ああ、孫かあ……どっちだろうな」
エドヴァルドはニヤついた口許を手で隠し、そわそわと落ち着かない様子だ。
「あなた、孫ならすでに二人いるでしょう?」
「スティファンもルーティアラも可愛いが、孫は何人いても可愛いんだよ!」
「どうしてそこで怒るのよ……」
口許から手を離し腰の高さでそれをわなわなと震わせ、ネヴィアスに詰め寄るエドヴァルド。
「なあ、お前なら分かるよなコラーユ!」
兄と義姉双方からの視線を受けて、コラーユは目を閉じて眉間を揉んだ。
「分かりますけども」
「ほらあ!」
「ほらあ、じゃないですよ兄上。仕事をして下さい。アンナ様の式に関する手続き、書類諸々、滞っているのですが」
「それはお前がやってくれるんじゃないのか?」
「しませんよ」
「ええー」
他愛もない大人達の会話は、もう暫く続く。
これが束の間の平穏だったのだと、彼等がどうして知ることが出来ようか。
当たり前のように、いつもと同じように、この時間に感謝をすることもなく、彼等は笑い合う────
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