60.5 agony

 俺が故郷を離れたのは、十八歳になったばかりの時だった。


 シムノン・カートスが世界的に有名な賢者であることくらい、その歳の頃には知っていた。だから俺と、弟のネスが父のような賢者になりたいと思うようになるのは、ごく自然なことだった。



 村を出て三ヶ月。俺は飛行盤フービスで様々な国を回った。人間の治める国には、父の銅像や功績を称える石碑に石盤が無数にあり、その度に父の偉大さを痛感した。


 果たして俺は父のようになれるのか、と。



 あれは、たしか旧ブンニー王国の領土の、西の端っこあたりを時だったと思う。動物も、食べられる植物も少ない迷路のような森の中。食料も尽きかけ、空腹だった俺の足取りは、フラフラと覚束ないものだった。


「あ、崖だな。気を付けないと──って、おわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 落ちた。


 我ながら見事な転がりっぷりだった。かなり急な傾斜面から、恐らく三十メートル近く転がり落ちた俺は、当然のように骨折した。それも両足と右腕。ああ、あと肋骨も折れていた。

 途方に暮れていた、というよりも、己の無様な姿に呆れていた、そんな時だった。


「君、大丈夫かい?」


 薬草でも摘んでいたのか、背中に大きな籠を背負った彼女は、うつ伏せに突っ伏した俺に手を差し伸べながら言った。


「大丈夫ではないです……」


 顔と左腕しか動かなかった俺は、その手を掴もうと腕を伸ばし、顔を上げた。


「……なっ!」


 上げた。


 そして、彼女に心を奪われた。一目惚れと言うやつだった。


 派手な橙色のショートヘアーに瑠璃色コバルトブルーの瞳。目付きが少しきつかったが、その目に俺は惹かれたのだ。

 胸の部分だけを覆った、シンプルなチューブトップに、裾の締まったロングパンツ。それに大きな耳飾り。

 目を引くのは、左胸の上に彫られた、花のような刺青。同じものは両手首と両足首にもあった。

 二十代後半のように見えるが、きっともっと年上だ。何故って、俺はからだ。

 知っていた。この特徴的な容姿、それに刺青は母と同じ、戦闘民族ライル族の証だということを。

 そしてライル族は、見た目はかなり若い者が多いが、実際の年齢はもっと上だということを。


「しかし派手に落ちたね。骨も折れているじゃないか!」


 彼女は背中の籠を腹側で抱え、俺を背に担ぎ歩き出す。


「手当てをするから連れていくよ」



 連れて行かれたのは、ライル族の隠れ里だった。外からでは全くわからない、鬱蒼とした森を進み、開けた所にそれはあった。


 背の低い簡素な木造建築が乱雑に立ち並び、その間を縫うようにして未舗装の道が延びる。


「あら、母様かあさまおかえり」

「おかえりー」

「だだいま、レイシャ、リヴェ」

「その背中の子は?」

「急に崖から落ちてきて。怪我をしているのよ」


 二十代前半くらいの、かなり鋭い目付きの女が、幼子達と手を繋ぎながら俺達を出迎えた。

 俺はその時気がつかなかったのだが、レイシャと呼ばれた女は、どうやら妊娠しているようだった。助けてくれた彼女の家に着くと、息を吐き椅子に腰掛けながら、レイシャはその大きな腹を擦った。もうすぐ産まれるのだと言う。


「外で作った子供だから、あれこれいう人も多いけど、あたしは族長だし、相手もライル族だからね。みんな文句を言えないって感じみたい」

「族長? その若さで?」


 おぶってくれた彼女による怪我の治療を受けながら、俺はレイシャの話を聞いた。

 それによると、以前の族長だった彼女の父、それに兄が戦死した為、長女だった彼女が族長を継いだのだという。



「レイシャねえ、赤ちゃん、元気?」


 そう言いながら姉──レイシャの腹を擦るリヴェと呼ばれた男児は、聞くと今年で七歳だと言う。


「ところで君、名前は? 私はリンネイ。リンネイ・ライル・ユマ。この子達は私の娘と息子でレイシャとリヴェ」

「俺はルーク。助けてくれてありがとう、リンネイさん」

「どうってことないよ。怪我が治るまで、ゆっくりしていきな」



「リンネイ……さん。俺はどうやら、あなたに惚れてしまったようだ」

「はい?」


 それを告げたのは、その日の晩だった。怪我の治療をしてもらっている間じゅう、俺はずっと彼女の動きを目で追い、その柔らかな声に耳を傾けていたのだ。



 それから俺は、毎日同じ言葉を彼女に掛けた。初めの頃は「冗談はよして」と軽くあしらっていたリンネイだったが、次第に──そう、少しずつ彼女は、俺に惹かれていった。

 おかしな言い回しだが、俺の腕の中で本人がそう言ったのだから仕方がない。



 レイシャが可愛らしい双子を出産して、生活が落ち着いてきた頃、リンネイは俺の──いや、俺達の子を出産した。名はリュード。



 幸せだった。本当に、心の底からそう思えた。大変なことも多かったが、それ以上に得たこの幸福という名の甘露な海に、いつまで浸っていたかった。



 しかしそれは、無理な話だった。

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