第二十七話 甘い蜜

「──申し訳ございません」


 床に頭を擦りつけたシナブルは、腰の刀を鞘ごと抜き、あるじの目の前に差し出した。


「殺してください」

「馬鹿を言うな。顔を上げなさい」


 慣れきったやり取りに、はぁ、と大きな溜め息をつくとアンナは、ゆったりとした足取りでソファまで行き、その背にもたれ掛かった。


「まさか……あなた以外の男に、あんなことを言われるとは、思ってもみなかったわ……」

「すまない。全面的に俺が悪かった」


 エリックはそう言うとアンナの体をぎゅっと抱きしめた。


「お前が殺したのかなんて台詞、数え切れないくらい言われてきたけれど……『エリックの恋人を』なんて言われると、正直堪えるわね……」


 アンナはエリックの胸から顔を逸らすと、小さく溜め息をついた。


「君を驚かせようと思って、つい悪い癖が出てしまった……ネス君に余計なことを話し過ぎてしまったな」

「いいの……誰に罵られようが、あたしには、あなたがいてくれさえすれば、それでいいの」

「──ありがとう」


 エリックはアンナに口づけをすると、彼女を腕の中から解放した。


「俺が行ってネス君に本当のことを話してこよう。シナブル、アンナを頼むよ」


 そう言ってエリックはアンナの頭を撫でた。一瞬彼女は寂しげな顔になったが、それを振り払うとすぐに元の表情に戻った。


「エリック様、お待ち下さい」


 二人の前まで行き、跪いたシナブルは顔を上げて言った。


「俺に行かせて下さい」

「どうしてだい?」


 エリックが不思議そうに首を捻る。


「蜂の巣での会話は大方聞いておりましたので、事情は把握しております。それに──」


 彼は立ち上がると、不安げな表情を浮かべたアンナの顔をじっと見つめた。


「あなた様が姫の傍にいて差し上げて下さい。それは俺の仕事ではありませんよ」

「──そうかい。それならシナブル、君に任せる」

「はい」


 と、シナブルはエリックに一礼した。


「シナブル」

「何でしょう、姫」

「ネスに話して構わないわ」

「よろしいのですか?」


 シナブルには、そのという言葉が、何を示しているのか、瞬時に理解できた。


 だから、彼は驚いた。を、出会ってまだ数日の子供に話すなんて──


(よっぽど、なんだろうな──)


「いいのよ……もう、いいの。あいつにとっても、そのほうがいいのかもしれない」

「わかりました」

「それと、シナブル」

「はい」


 アンナはシナブルの目の前に移動し、彼の頭にそっと触れた。


「ありがとう」

「何がです」

「ネスを守ってくれて」


 アンナは目を細め、その手で彼の頭を撫でた。


(──姫はよっぽど、ネス様の事が大切なんだろうな)


「いつもあたし達を守ってくれて、支えてくれてありがとう」

「何を……何をおっしゃるのですか」


 シナブルは口をきつく結んだ。


「当然のことです。するべきことをしているに過ぎません。あなた方を御守りするのが俺の生き方であり、誇りです」

「あたしからしたら、あなたとルヴィスこそ誇りよ」


 シナブルは片膝を付き、深く頭を下げた。


「──ありがたき御言葉」

「堅いわね、相変わらず」


 ふふ、と優しく微笑むとアンナはシナブルに合わせてしゃがみ込んだ。


「ネスと話が済んだら、そのまま上がっていいわ。仕事も溜まっているんでしょ」


 顔を上げたシナブルは、少しだけ苦い笑みを浮かべた。


「そうですね……この六日間で十二件暗殺依頼が溜まっています」

「苦労をかけるわね」


 アンナが立ち上がり、シナブルもそれに続いた。


「仕事ですから」

「そう──じゃあ、気を付けて……サーシャにもよろしくね」


 アンナはシナブルの肩を優しく叩いて、彼を見送った。


「はい──では、アンナ様、エリック様、道中お気を付けて」


 失礼します、と言うとシナブルは姿を消した。




「相変わらず真面目だな、シナブルは」


 窓の外を見つめたエリックは、シナブルの姿を見送ると、バルコニーのガラス戸とカーテンを閉めた。部屋の中が薄暗くなり、カーテンの隙間から差す光が、二人の姿をぼうっと浮かび上がらせる。


「ところで、ねえエリック、どうしてここへ?」


 窓の前に立つエリックの背に、アンナは体を寄せ、その背中に触れた。


「もちろん、君に会いに」

「そう」

「疑ってる?」

「いいえ」


 エリックはくるりと振り返ると、アンナを抱きしめた。懐かしい彼女の肌の香り。それが愛おしく──腕に力を込めると、彼女の体はそれに応えるようにしなった。


「仕事はいいの?」

「近くで二件あったが済ませてきた……折角このあたりまで来たからセオドアに挨拶に寄ったんだ。そしたら君が来ていると言われてね」

「次の仕事はいいの? 父上に怒られない?」

「平気さ」


 そう言うとエリックは、ソファに腰掛けた。


「それよりも朗報があるんだ」

「何?」


 アンナもそれに続いて彼の横に腰掛ける。


「サーシャが懐妊した」

「……うそ!」

「本当だよ。つい二週間前にわかったんだ。国王様は大喜びだったよ」

「シナブルには話したの?」


 アンナは余程嬉しいのか、目を輝かせて身を乗りだし、エリックの膝に手をついた。


「まだ知らないよ。サーシャが自分の口から話したいって言うから、黙っていた」

「そう──しかしあのシナブルが父親になるなんて、信じられる?」


 体勢はそのままアンナは本当に嬉しそうな顔で、乱れていた髪を耳にかけながら言った。右耳につけた黒真珠のピアスが露になる。それは昔、エリックが彼女に贈ったものだった。


「…………」


 アンナの問にエリックは何も答えなかった。沈黙の後、アンナがエリックに視線を戻すと彼は彼女の右腕を掴み、眉間に皺を寄せ厳しい顔をしていた。


「……エリック?」

「アンナ」


 彼女の腕の付け根から手首まで手を滑らせ、エリックは最後にアンナの手をきゅっと掴んだ。


「俺が気付いていないとでも?」


 気まずそうな顔になったアンナは、彼から目を逸らした。


「悪化しているじゃないか」

「……」

「あまりを使うな」


 エリックはいつになく厳しい口調だった。


「……分かっているわ」

「分かっていないだろう」

「……」

「アンナ」

「……」

「アンナ」


 アンナはエリックから目を逸らしたまま沈黙を貫いた。


「何も言わないつもりか?」


 エリックは腕に力を込めると、アンナをソファに押し倒し、その唇を乱暴に塞いだ。彼女が身に付けているワンピースの、右側の肩紐に手を掛けてそっと引き下ろすと、彼は露になった彼女の胸に食らいついた。


「……ん……っ…………んっ」


 堪えきれずに漏れたアンナの小さな声が、静寂を破った。


「……なに、する……の」


 アンナはエリックが唇を離した刹那、途切れ途切れに言った。


「君が何も言わないからだ」

「……」

「命を縮めるんだぞ」

「分かっているわよ」


 アンナはエリックと目を合わさないまま、少し語調を強めて言った。


「君はそんなものに頼らなくても、十分強いだろう──それなのに」


 エリックはアンナの腕を握る手に力を込めて言った。


「どうして──」

「そうでも、ないのよ」


 宙を仰ぎ、アンナは呟いた。


「あの時からあたしは、もう……」


(もう強くなんてない。今のあたしは──牙を折られて根刮ぎもぎ取られ、落ちぶれた、鬼の抜け殻だ。今のあたしなんかより、全盛期のの方がよっぽど強かった──)


「いいじゃないか、もう。強くなんて、なくていい。俺は……こんなことで君を失いたくない。君のいなくなった世界になんて生きていたくない──俺は──」


 エリックは言葉を切ると、アンナの腕から手を離し立ち上がった。


「すまない……」


 仰向けの姿勢のままソファに残されたアンナは、ぼんやりと天井を眺めて、目を閉じた。


「あなたは悪くないわ──」


 服を整え、天井に向かって腕を突き上げると、うっすらと部屋に差し込む光がそれを照らした。


 呪われたこの腕。術者である兄を殺さなければ解けない、力と引き換えに命を食らう呪縛。

 アンナが目を開けると、鼻のぶつかる距離にエリックの顔があった。ふっと、その顔が近づいてきて二人の唇が再び重なった。エリックはゆっくりとソファに膝を付き、彼女に体を重ねる。


「……こんな時に、何をするのよ」


 静かな声でアンナは言った。


「こんな時だからさ……」


 エリックがアンナから体を浮かせると、大きく開いたシャツの間で輝く金色のネックレスが、彼女の首筋に優しく触れた。


「君はまた考えていただろう。いつもそうだ。だから──」


 そう言ってアンナの頬に触れる。


「俺といる時くらい、そんなことを考えるのはやめてほしい」

「うん……分かってる。分かってるわ……」


 体を起こし、ソファの背もたれに身を預けたエリックは、アンナの手を掴み引き起こした。その肩を抱いて髪に顔を埋める。


「こんな時だからこそ、君に笑顔でいてほしい。知らないなら教えてあげるよ──君はどんな顔をしていても魅力的だけど、笑顔が一番美しい」

「何度も、聞いたわ」

「それなら、ほら、ね」


 エリックはアンナの手を引いて立ち上がり、彼女の背に腕を回し、顔を見つめた。


「たまには現実から目を逸らすのも──悪くないだろ」

「──うん」


 二人は何度か口づけを交わすと、囁き合いながら、絡み合うように、寝室へと姿を消した。





 人を殺すことが一番の快楽だと思っていた。 


 己の手で研ぎ、磨き上げた愛しい刀で、人の肉を切り、骨を断つ。鍛え上げたこの体から溢れる神力ミースで、人を、国を、政治を、戦場を破壊する。


 刀を通して体に伝わる、人を斬る時の感触が堪らなく好きだった。多分、それしか知らずに生きてきたからだったのだと思う。そんなことを快感だと信じていたのは。

 いつからだろう、それが変わったのは。間違っていたと気が付いたのは。

 この人の傍にいる時、この人の腕の中にいる時、人を殺すことでは得られなかった快感が、全身を震わせる。

 ああ、そうか。やっぱりそうだ。何度思い返してもがあたしの腕の中で死んだ時、殺し屋としてのあたしは死に、がこの世に生まれ落ちたとき、あたしは生まれ変わったのだ──少し大袈裟かもしれないけれど。


 本当にあたしも変わったなと自嘲してしまう。


 目の前の人間をどう殺すかしか考えていなかったのに、今じゃあ、こんなことを考えるようになるなんて。



 あれからどれくらい時間が経ったのだろう。



 アンナが目を開けると、静かに寝息をたてる愛しい男の寝顔が目の前にあった。

 エルフの血が濃いせいで、少し尖ったその耳に優しく触れる。






「もう少し、このままで──」


 アンナはエリックの胸に顔を埋めると、再び眠りに落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る