第二十六話 口にしてはいけなかった言葉

(ええっと……。


 これはなんだ……?)


「ん……やっ……ちょ、ちょっと……んっ……エリック、待ってっ……」

「……どうして?」


 ネスは一体どうしたものかと、目の前の光景から目を離せずにいた。今から殺し合いが始まるのだと身構えていたところ、これだ。


(これは……ちょっと……俺には刺激が強すぎる)


 ネスは一歩、後退した。


 エリックはアンナを一層強く抱き寄せ、逃れようとする彼女から唇を離そうとしない。


 二人の体はまだ離れない。


「……ネスがっ……ネスが、見て……る」


 とろけるようなアンナの目の端と、見開かれたネスの目が一瞬だけ合った。ネスはきゅっと心臓を掴まれたような心地になった。


「……だから?」


 エリックはからかうような、試すような口調で囁く。


「……だめ……ん…………だめっ!」


 アンナは封じられていた両手に力を込め、エリックの腕を振り払った。ふらりとよろけたところを、シナブルが支えた。


「あれ……シナブルっ?」


「おはようございます、姫。おはようございます、ネス様」

「え、あ、おはよう……ってそうじゃなくって! なんで……っていうかどういう状況なのこれ?」


 シナブルは無事だった。怪我をしているようにも見えない。清潔感のあるいつもの彼だ。


「エリック様に刀を貸すよう言われたので、貸しただけです」


 言いながらシナブルは床に刺された刀を鞘に戻した。


「いや、それ以前の話なんだけど」


 シナブルの隣に視線をやると、エリックに肩を支えられ、驚いた表情のアンナと目が合った。


「だ、誰?」

「……へ?」

「あんた、誰? ネスっぽいけど……ネスなの……?」


 アンナは怪訝そうに眉を寄せ、じいっと穴が開くほどネスのことを見つめている。


「そうだよ! 俺だよ、ネスだよ!」


 ネスは両腕を開いて自身の存在を猛アピールした。


「お れ ですっ!」


「ほんとに、ほんとにネスなの?」


 恐ろしいものを見るような目付きで、アンナはネスの体を上から下までを何度か見た。


「ライル族の成長って恐ろしいわね……まるで別人じゃない」

「だろう」


 ネスは得意気に腕を組んだ。


「髪の色まで変わってるし、背も伸びたのね……」

「まあな」


 アンナより頭一つ分低かったネスの身長は、また少し伸び、ブーツを履いた彼女の背を少しだけ越えていた。


「声まで違う……声変わりっていうの?」

「そうだな」


 へぇ、と一呼吸置きアンナは最後にぼそりと呟いた。


「えらく男前になって……」


「抱いてやろうか?」


「ばっ……馬鹿言ってんじゃないわよっ!!」


 冗談のつもりだったのに、どうやら彼女は本気で怒っているらしい。体の周りに炎を纏い、髪が逆立っている。


「百年早いわよ! ガキが! 殺すわよ!」

「な……なんだと! 誰がガキだ!」

「あんたのことよ! 体が大きくなったからって調子に乗ってんじゃないわよ! 悔しかったら百年くらい生きてみなさいよ! この馬鹿!」


(うわあ……大人げねえ……)


「そんなこと出来るわけないだろうが! お前にとっちゃ百年なんてあっという間だろうがな……」


 ネスが言葉に詰まると、アンナが勝ち誇ったような顔になった。それがなんだか妙に癪に障って、ネスはとんでもないことを口にした──後々思い返せば、なんと幼稚な発言をしたものか、と恥ずかしくなるような事だったのだが。


「よーし、じゃあ俺が百年後、生きていたら、有無を言わせずお前を抱くからな!」


 ネスはびしっとアンナを指差して言った。


「……なっ、大声で何てこと言うのよ、あんたはッ!」


 アンナは怒りが頂点に達したのか、それとも恥ずかしさの限界に達したのか、顔を赤くしてネスに詰めよると胸ぐらを掴んだ。彼女が炎をしまっていてよかった。危うく焼死してしまうところだ。


「御取り込み中悪いんだけど二人とも、そろそろ頭を冷やしなよ」

「エリック……」


 エリックが二人の肩に手を置くと、アンナはネスから手を離した。解放されたネスは後退した。


「こんなことで怒るなよ、アンナ」

「で、でも……」


 言葉に詰まった彼女の顔からは、怒りの色が消え失せていた。


「俺はなんとも思っていないから」

「そう……」


 ならいいけど、と彼女は俯いてしまった。


「あ」

「どうした、ネス君?」


 ネスは大事なことを忘れていた。


「二人は、何なの? 殺し屋が殺し屋を殺しに来たんじゃなかったのか?」

「はぁ?」とアンナは呆れた声を上げた。「あんた、何言ってんの?」

「だって!」

「いや、ネス君すまない。アンナに驚きの再会を演出する為に、君には黙っていたんだ。シナブルにも協力してもらってね。好きなんだよね、こういう演出」


 エリックはそう言って頭を掻いた。


(なんて迷惑な演出だっ……!)


 ネスは心の中で叫んだ。



 エリックは続ける。


「でもね、君に語った事は全て真実だよ。しかし大事なことを伏せていた」

「大事なこと?」

「そう、大事なこと」


 エリックはアンナの肩を抱き寄せ、愛おしそうに彼女の頭を撫でながら言った。


「彼女は俺の婚約者フィアンセさ」


 一瞬、ネスにはエリックの言っている意味が理解出来なかった。




──婚約者?




 婚約者ってなんだ? 結婚をすることが決まっている関係……ということは、エリックはアンナと…………待て待て待て待て。処理能力が追い付かないぞ。アンナはうぶなんじゃなかったのか? 俺の成長した体を見た時、あんな反応をして逃げ出したくせに──一人きりで全てを抱え込んでいるような素振りをしていたくせに──俺が彼女を、救うのに──


「ちょっと待て……」


 とんでもないことを思い出し、ネスの思考はそこで停止した。口に出してよいものか迷う余裕など、この状況では皆無だった。





「お前が、殺したのか……」





「……ネス君」


 エリックの制止の言葉も耳に届かず、ネスはそれを言葉にしてしまった。


「お前が、エリックの恋人を殺したのか」


 アンナの顔から一気に血の気が引いた。しまった、とネスが思った時には遅かった。取り返しのつかないことを言ってしまった。

 気が付いた時には、ネスの体は床に押し倒されていた。背中に激痛が走る。




「貴様ぁぁぁぁぁぁっっっっ!」




 馬乗りになり、拳を振り上げているシナブルの姿を見て、ネスは我に返った。


「何も知らないくせにっ! 何も知らないくせにっ! 何も知らないくせに……っ!」


 彼は身も心も怒りに燃えていた。目は血走り拳に炎を宿らせ、今まで見た彼のどの姿よりも、それは恐ろしかった。


「何も知らないくせに……知った風な口を利くなっ! アンナ様は、アンナ様はな……!」


「シナブルッ!」


 叫んだのはアンナだ。


「お願い、やめて……」


 真っ青な顔をしたアンナは消え入るような声で言うと、エリックの胸に顔を埋めてしまい、それきり顔を上げることはなかった。


「しかしっ……姫っ!」

「いいんだシナブル。真実をはぐらかした俺が悪い。ネス君、話を……」

「話……だって?」


 ネスはエリックの言葉を遮った。


「何の話だよ。事実に変わりはないんだろ? 俺には……理解できない。大切な人を殺した相手を許すなんて!」


 叫んだ後、右頬に衝撃が走った。ネスはシナブルに殴られていた。痛みを堪え、ネスはその体勢のまま両手でシナブルのスーツの襟を掴み、体を起こすと彼の額に頭突きをした。シナブルがよろけた一瞬の隙に立ち上がり、ネスは三人を順番に睨んだ。


「くそっ!」


 悪態をつき部屋を飛び出した。自分の名を呼ぶエリックの声が何度も背中に刺さったが、振り返ることもせず、ただひたすら、その場から逃げるようにホテルの階段を駆け下り、ネスは街の中へ姿を消した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る