第九十八話 【わたしの名前】
「恥ずかしい話なんだけれど……」
そう言って母はまるで恋する少女のように顔を赤らめると、もじもじと身を揺らしてちらりとわたしを見た。
「お父さんが……昔、蛍がすごく綺麗に飛び交う河辺でお母さんにプロポーズをしてくれたの。その時、夜空には星が沢山輝いていて、それも綺麗で……それが、二人の最高の思い出なの。だから、『ほたる』と『すばる』なの。とは言っても、昴は夏生まれじゃないのにごめんね~、なんだけど」
いつものようにお茶目に微笑むと、母は慈しむような瞳をわたしと昴に向けた。今まで見たことのない──いや……幼い頃、母がわたしたちに向けてくれていたものと、同じ眼差し。
大人になって、今この時になってようやく気が付いた、母の想い。
「……そんなの…………」
「なんで泣くのよ、ほたるちゃん」
「だって、そんなの……そんな、意味があったなんて、わたし……!」
憎むほど嫌っていたわけではなかったが、愛していたかと問われればそうではなかった両親。
幼い頃は「きっとわたしのことが嫌いだから虫の名前をつけたんだ」と勝手に思い込み、ずっとそう思い続けてきたこの名前。
柊悟くんに出会って、素敵な名前だと褒めてもらえて、ようやく好きになり始めていたこの名前にそんな意味があったなんて。
「名前っていうのは、親から子供への初めてのプレゼントなのよ? それをわけのわからない理由で『ほたる』だなんてつけるわけがないじゃない」
「お母さん……」
止まらない涙を拭こうと、鞄の中のハンカチを取り出そうと手を伸ばす。それよりも先にわたしの涙を止めてくれたのは、柊悟くんの青いハンカチだった。
「……ありがとう」
「ちゃんと話が聞けてよかったね」
「……?」
「だって、『ほたる』なんて素敵な名前の由来は絶対にもっと素敵に違いないって、出会ったときから俺は思ってたから」
「ば、馬鹿野郎! なんて良いこと言うんだこいつ!」
目を真っ赤にした昴が、叫びながら柊悟くんに抱き付く。優しい手付きで柊悟くんが昴の頭を撫でると、昴は更に激しく柊悟くんに抱き付いた。
「くっ……こいつ、めちゃくちゃ良い身体してやがる……! ねーちゃんはこんな……」
「昴っ!」
「ごめんなさい!!」
パッとその場を離れて、反省のポーズをとる昴。下げた頭に拳骨を振り下ろすと、その奥で両親が声を上げて泣いていた。
「えーん、えーん」
「嘘泣きくさっ……」
「嘘泣きじゃないもん、泣いてるもん」
そう言う父の目元をまじまじと見ると、確かに光るものがあった。照れを隠すためにふざけた音声を付けて泣いているようだった。
「なにこの子、すごく良いこと言う……」
「ほたるちゃん、それに私達のことまで考えてくれてるみたい……」
「お父さんとお母さんは、互いが互いを好き過ぎて、子供たちへの愛が足りていなかったと……ずっと反省していたけれど、まさかそれをこんな場で暴露することになるなんて」
「「……え?」」
わたしと昴の声が重なった。母は今何と言ったのか──聞き逃してはいないけれど、本当にそれが事実なのか、二人が落ち着くまで待ってから再び問うた。
「さっき言ったことは、嘘じゃないの?」
「嘘なわけないじゃない。全部本当のことよ」
「……そう」
今まで抱いてきた両親への思いが、一気に揺らぎ、傾く。嫌悪感を向けてはいけなかったのだ──こんな素敵な両親に。
「……ごめんなさい。わたしが間違ってた」
「謝るのは私たちの方よ。ほたるちゃんが謝ることなんて何もないもの」
「それでも、ごめんなさい……」
柊悟くんが優しく、控えめに肩を抱いてくれる。誰もいなければ、きっと唇が下りていたであろう柔らかな表情だ。
「お父さん、結婚に賛成」
「お母さんも」
「……本当?」
早く、と手を差し出す父に、書きかけの婚姻届を差し出す。わたしの方の保証人欄に、あっさりと記名を済ませた父は、「不備がないか、一回役所で見てもらいなさい」とアドバイスまでくれた。
「……いいの?」
「うん」
「なんで、そんな急に……」
「だって、本当に素敵な考え方ができる子よ、
「……お母さん」
「この子になら、私達の大切なほたるを任せられる。きっと、幸せな家庭を築いてくれる。そうよね、お父さん」
「……ああ」
大きく頷いた父は、深く頭を下げる。何事かと皆が慌てると、父は柊悟くんに向かって「ほたるを、よろしくお願いします」と言って、深く頭を下げたのだった。
*
帰り際に母が教えてくれたのは、両親がおよそ三十年前に結婚式を挙げたのが、柊悟くんの実家──Hotel Tateishiだということだった。
結婚式を挙げるのかという話は一旦脇に置き、両家の顔合わせの日取りを軽く話し合った後、わたしたちは実家を後にした。
「柊悟くん」
「なに?」
「……ありがとね」
「なにが?」
少しだけ眉を持ち上げ、柊悟くんは不思議そうに首を傾げた。
「……両親の話を聞けって、言ってくれて」
「そんなの、お礼を言われるようなことじゃないよ」
「それでも……ちゃんと話が出来たのは、柊悟くんのお陰だから」
「そんなことない。ほたるが、頑張ったからだよ。それに俺は、ほたるの名前の由来が聞けて……ほたるがご両親と和解出来て嬉しかったよ」
「……ありがとう」
こんな風に言ってくれるなんて、本当に彼はわたしには勿体ない男だ。今までの卑屈な考え方は止めて、わたしも堂々と彼の隣を歩けるよう、考え方を前向きにしていきたいと──そう思った。
「あれ、ほたる?」
良い雰囲気だった二人の空気を、聞き覚えのある声が乱した。顔を上げると、やはりというかなんと言うか──見知った顔がそこにあった。家が隣なのだから、こいつに会う確率はそう低くはないはずだが、マンションで一人暮しの彼がこの夏空の下で一体何をしているのか。
「桃哉」
「どーしたんだよ、お前がここに帰ってくるなんて珍しいな」
「それはお互い様でしょ?」
「そんなことねぇ、俺は時々帰ってきてるし」
仕事が休みなのだろう、頭にタオルを巻いた桃哉はTシャツにハーフパンツというラフな格好で庭に屈み込んでいた。
「何やってるの?」
「庭の草抜きだよ、草抜き。休みだからって、駆り出された」
と、ここで桃哉はわたしの隣にいる柊悟くんに視線をずらす。「ふん」と鼻を鳴らして彼なりの挨拶をすると、スーツ姿の柊悟くんと余所行き用のわたしの服装を見て怪訝そうに眉をひそめた。
「お前ら、ひょっとして」
「……あのね、桃哉」
「あんまり聞きたくねえかも」
「結婚することになりましたので、ご報告致します」
「お前が言うのかよ!」
顔を背けて草抜きを再開しようとしていた桃哉に、柊悟くんが容赦なく言葉を投げ掛ける。桃哉の鋭い突っ込みと同時に、「とうや~?」と、これまた懐かしい声が庭先に広がった。
「かーさん! ほたる!」
「え~? ほたるちゃん? ちょっと待って~」
久しぶりに聞く、おばさまはの柔らかな声だ。彼女は桃哉の短い言葉で全て理解したのだろう、何やらがさごそと物音を立てた後、野菜が入っていると思われるビニール袋を手にパタパタとこちらに駆け寄ってくる。
「ご無沙汰してます、おばさま。いつも野菜ありがとうございます」
「いいのよ~。それにしても珍しいわね。こんなイケメン連れて、何かあったの?」
表向きは冷たい雰囲気のうちの母とは違い、桃哉のお母さん──
「おばさま、こちら立石 柊悟さん。結婚するから、その挨拶に来てたの」
「え~!! あらまぁ、それはおめでとう! お祝いはまた改めてさせてね」
「そんな、お構い無く」
「それにしてもほたるちゃんの彼氏なんて初めて見たわ~! あなた、家に男の子連れてこないんだもの」
「……」
自分の息子がわたしの元カレとは知らないおばさまは、若干興奮した様子で柊悟くんに熱い視線を送る。黙々と草をむしっている、何か言いたげな桃哉と目が合うが、流石にわたしは今更おばさま達に自分達の過去を話すつもりはない。勿論、桃哉もそうだと信じている。
「馴れ初めは?」
「高校の時の後輩で……去年再会して、それでお付き合いすることになって」
「ま~! 年下なの! 素敵ね! もっと色々聞きたいわね~!」
おばさまのテンションが徐々に上がっていく。その後ろでは、怒りに任せて草抜き鎌を乱暴に振り下ろす桃哉の姿。なかなかにシュールな絵面である。
「かーさん! 話いいから手伝えや!」
「え~、だってお母さん、もっとほたるちゃん達とお話ししたい。せっかく久しぶりに会ったんですもの」
「なら晩飯一緒に食えや」
「桃哉にしては良いこと言うじゃない!」
ぱんっ、と両手を打ったおばさまは、庭の柵ギリギリまでこちらに駆け寄ってくる。
「ほたるちゃん、柊悟君、今夜夕食一緒にどう? 久しぶりにバーベキューしましょうよ!」
幼い頃は頻繁に大家家の庭先でバーベキューや花火をしたものだった。大家のおじさまにおばさま、それに桃哉にわたし、昴の五人で。
「柊悟くん、どう?」
「俺は構わないよ。大家さんにはいつもお世話になってるし」
「なら決まりね! お父さんにも電話して……あっ、二人とも一旦着替えに帰ったら? その格好じゃ匂いがついたら大変よ? あとは……千絵さーん!千絵さーん!」
柵から身を乗りだし、母の名前を呼ぶおばさま。名を呼ばれた母が玄関から姿を現すと、トントン拍子に話が進んでゆく。どうやら我が家の父と母、昴までがバーベキューに参戦するらしい。
「お肉とお酒は追加で買いに行かなきゃ。桃哉、草抜き早く済ませてね」
「いい加減、かーさんも手伝えって!」
「おばさま、わたし達着替えの帰りに買い物に行って来ましょうか? その後草抜きも手伝えますし」
「えっ、いいの?」
どう? と柊悟くんを見上げると、彼は嬉しそうに微笑みながら頷いた。きっと、良家育ちの彼は今までこんなことを体験したことがないのだろう。目元を弛緩させて、本当に嬉しそうだ。
「……草抜きにバーベキュー……楽しみだな」
「やっぱり、そうなんだ」
「なにが?」
「ううん、なんでもない」
草抜きはわたしと柊悟くんが戻ってくるまでには済ませると意気込むおばさまに手を振り、ガレージに駐車した
「じゃあ、行こっか」
「うん」
死角になっているから誰にも見られないだろうと、身を乗りだしそっと彼と唇を重ねる。シフトレバーを握る手の上に、彼の手が覆い被さった。
「何着てこようか。ジャージなんて持ってたかな……」
「帽子もいるね、汗もかくから着替えも要りそう」
家族とバーベキューなんて、初めてのことだった。今朝までのわたしならば、家族でバーベキューだなんて絶対に嫌だと断っていたに違いない。けれど今のわたしはこれらから始まる大人数での夕食会に、少しだけ胸を弾ませていた。
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こちらの話から最終話までの一晩の出来事 (4話分)+最終話のあとに続く話 (8話分)をこちらのURL……
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物語の最終的な最終話はR18の第12話になっていますが、読まなくても問題はありません。
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「いつも穏やかなセックスをする彼 (元執事)が、酒に酔うとドS王子に変貌して大変だった夜」
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