第九十七話 【いざ、真戸乃家へ】

 アリスさんと外出したその翌日からわたしは体調を崩してしまった。勿論柊悟くんとお風呂は別々。痛み止め等のお世話になりながらもなんとか一週間を乗り切り、とうとう実家へと向かう日がやって来た。



 閑静な住宅街の、少し良い家々が軒を連ねる団地。その一区画の角の、一戸建ての玄関先。

 緊張した面持ちでネクタイを締め直す柊悟くんの背中をそっと撫でると、彼は大きく息を吐き出しながら固まった表情を少しだけ弛緩させた。


「じゃあ行くけど、大丈夫?」

「俺は平気。ほたるの方こそ大丈夫?」

「ありがとう、大丈夫」


 本当はこんな家になどあまり上がりたくない。特別な用がある時にしか顔を出さないように避けている、わたしの実家。


「じゃあ、行くよ」


 後ろで柊悟くんが、わたしの左手を握ってくれている。扉を開くと同時にその手は離れたが、重いドアノブを引く勇気を沢山貰えたような気がした。


「……ただいま」


 意を決して扉を引くと、既に客用のスリッパが用意されていた。扉の開閉音の後、近寄ってくる足音が一人分。靴箱の上に生けられているグラジオラスの明るい赤が、なんとなく場の空気に不似合いだ。


「あら、ほたるちゃんなの? 久しぶりに連絡くれたと思ったら何の用──」


 エプロンで手を拭きながら姿を現したのは母だった。髪を緩く結び、仕事柄からなのか分からないが、年齢の割には若く見える彼女。まず久しぶりに会うわたしの姿に驚き、後ろに控える柊悟くんに驚いたようだった。


「ほたるちゃん、そちらは?」

「会って欲しい人がいるって言ったら拒まれそうだったから、連れてきたの」

「どなたなの?」


 眉をひそめた母は、わたしと柊悟くんに交互に視線を送っている。母が不審がるのも無理はない。わたしはただ「お父さんとお母さんの二人に用があるから、空いている日を教えて」としか連絡をしなかったのだから。


「初めまして。わたくし、ほたるさんとお付き合いをさせて頂いております、立石 柊悟と申します」


 わたしが口を開くよりも先に、柊悟くんが丁寧に挨拶をし頭を下げた。それを聞いてやはりというか開いた口の塞がらない母は、胸の前で両手を握り困惑した様子。差し出された手土産すら受け取れない程、母は動揺していた。


「お……お付き合い?! こんな色男とほたるちゃんが?」

「……お母さん、言い方」

「ごめんなさいね、だって……あまりにも素敵な方だから──って、上がって頂戴。ここはあなたの家なのよ?」

「うん、わかってる」


 無言で玄関を上がり、客間へと通される。畳を張り替えたばかりなのか、襖を開けるとい草の香りがふわりと鼻先を掠めた。


「待ってて、お父さん呼んでくるから」


 和室の中央に置かれた木製の長机に、キキョウの花が生けられていた。恐らくは、この部屋から見える小さな日本庭園風の庭に植えられた花を摘み取ったものだろう。窓側が上座になっているので、柊悟くんと並んで二人、庭を眺めながら座布団に座って父母を待つ。


「ほたるが花を好きなのは、お義母さんの影響?」

「……うん」


 我が家の庭には季節を通して様々な花が彩りを添える。まだまだ元気な青い紫陽花も、きっとリビングにでも生けてあることだろう。裏庭にはきっとランタナが可愛い花をつけているに違いない。


「ほたるちゃん、入るよ」


 襖越しにわたしの名を呼んだ後で、父が部屋に踏み入った。スッと立ち上がった柊悟くんに続いて、わたしも立ち上がる。


「お母さんはお茶を入れているから」

「うん」

「何年ぶりかな」

「多分、四年」

「そうか」


 相変わらず小綺麗な父だった。母と同じく営業職のせいもあるかもしれないが、父は昔からやたらと清潔感があった。家にいる時もきちんと髪を整え、だらしのない部屋着を嫌い、わたしがスウェットなんて着ようものなら、「やめなさい」と注意をするような、そんな父親だった。


「ごめんね、お待たせ」


 盆に麦茶を四つ乗せた母が姿を現すと、すかさず父が立ちあがり盆を受け取る。各々に配るのも父。不思議とこういうことには気が回るようだ。


「それで、ほたるちゃん。そちらは?」


 母は何も話さなかったのか、父は品定めでもするかのような目付きで柊悟くんを見ている。それが酷く不満で、わたしは思わず舌を打ちそうになってしまう。


「お父さん、娘の大事な人をそんな目で見るのは止めて」

「……すまない、そんなつもりは」


 場の空気が重い。それを払拭する者も誰もいない。


「……さっきお母さんには話したけど、こちら立石 柊悟さん。今、お付き合いをしてる人」 

「お……おつ?」

「立石 柊悟と申します」

「ちょ、柊悟くん、名刺とかいいから」

「ごめん、つい癖で」


 戸惑う父に、慣れた手つきで名刺を差し出す柊悟くん。受け取った父は懐から自分の名刺を取り出そうと胸を触った。


「失礼、休みの日は名刺を持ち歩いてなくて」

「いいえ」

「“Hotel Tateishi”ってあの立石……?」

「はい、あの立石です」


 父の手の中の名刺を、母が身を乗り出して覗く。驚き、再び口の塞がらない母。


「そんなお坊ちゃんがうちの娘になんの……」

「結婚の許しを頂きたく、ご挨拶に参りました」


「ふざけんなあああああ!」


 柊悟くんが頭を下げたその時、入口の襖がピシャリと勢い好く音を立てて開いた。


「ふざけんなこのイケメンが! ねーちゃんと結婚? ふざけんなっ!」

「す……すばる!」


 いつからそこにいたのだろう、姿を現したのは弟の昴だった。仕事は休みなはずなのに、アウトドア派の弟がこんな時間に家にいる理由はただ一つ。


「昴、なに?」

「ねーちゃんが帰ってくるって聞いたら家にいるに決まってるだろ?! こっそり聞き耳を立ててたら話がどんどん進んでいくし……結婚など許さん! 父さんも母さんも余所行きの態度だし、俺が出なければ流れで結婚許しちゃいそうだし!?」

「昴、うるさい」

「ねーちゃん辛辣~!」


 この通り昴は、ドシスコン。わたしたちが幼い頃から両親が多忙だった為、仕方がないといえば仕方がないのだが、成人を四年過ぎてまで姉にベッタリなのは勘弁してほしかった。


「父さんも母さんも黙ってないで何か言ってよ!」

「……」

「いつまで余所行きの態度なのさ?!」

「と、父さんは反対だぞ~……!」

「お、お母さんも~!」

「……何でよ」


 つい低い声が出てしまう。顔を上げないまま両拳を握りしめ、湧いて出た言葉が零れた。


「お父さんとお母さんに反対される理由なんてない。今まで無干渉だったくせに……こんな時だけなんで干渉してくるの!」

「ま~ま~、ねーちゃん落ち着いて」


 昴が後ろからわたしの肩を揉み解す。彼なりに気を利かせてくれているのだろうが、肘で柊悟くんを小突こうとするのは許せない。


「昴、おねーちゃんが気付いてないと思ってる?」

「バレたか」

「ちゃんと謝りなさい」

「ごめんなさいね、おにいさん」

「いいえ」

「くっ……イケメン過ぎて腹立つ~!」


 柊悟くんは全く気にしていない様子。昴はそれが気に食わないのか、歯を剥き出しにして彼を威嚇していた。全く面倒な弟だ。その上ナチュラルにわたしのすぐ隣に腰を下ろしている。柊悟くんよりも昴との距離が近いのが、なんとなく気になる。


「それで、どうして反対なの」


 昴のことは一旦放置し、父へ言葉を投げる。話が自分達へ向かないのを良いことに、いちゃついていたのをわたしは視界の隅で確認済みだ。


「だって、お父さん彼のこと何も知らないもん」

「お母さんも知らないもん」

「どんな人柄なのかもわからないし」

「まだ早すぎるわよ」


 最後に二人揃って顔を合わせ「ね~っ」と微笑み合う父と母。段々素が出てきたなと、わたしは唸りながら米神を押さえる。


「まだってなに? そんな理由で入籍日を遅らせたりしないからね?」

「えっ、入籍日?」

「もう向こうのご両親にはお許しをもらって、これに署名をして頂いた。入籍したい日付まで日がないから、今日署名をしてもらわないと困るの」


 鞄の中から婚姻届を取り出し、机のこちら側に置く。手に取ろうとする父からスッと遠ざけ、鞄にしまいこんだ。


「署名をする気があるのなら渡す」

「あらやだ、この子、親を脅すの……!」

「お母さん、そういうのいいから」


 被っていた猫を何処に逃がしたのか、母は先程までとは別人のように演技ががった態度だ。わたしと昴は慣れたものだが、柊悟くんは少しだけ驚いた様子。


「ほたるちゃん、お坊ちゃんでイケメンの彼にまさか騙されてないよね?」

「……馬鹿なこと言わないでよ!!」


 机を派手に叩き父に掴みかかるが、直後柊悟くんに後ろから引き剥がされてしまう。


「駄目だよ、ほたる」

「だって!!」

「立石さん、ご趣味は?」

「家事全般……特に料理が好きです。それにピアノにバイオリンです。料理は基本的に何でも作れます。特技は裁縫です」

「まあ、すごい!」

「お母さん、話の腰を折らないでよ!」

「だって大事なことよ?」

「だからって今聞く?!」


 本当にこの親は何を考えているのかわからない。柊悟くんに促されて座り、盛大な溜め息を吐いた。


「おいくつなの?」

「ほたるさんの、一つ下です」

「あら、年下なの~! 心配ね」

「お母さん、いい加減にしてよ!」

「落ち着いて、ほたる」

「ごめん……」

「ご両親が、どうしてこんなことを言うかわかる?」

「こんな人達の考えてることなんて、わからないよ!」


 真面目な話をしようとすれば、二人共直ぐに茶々を入れる。わたしや昴よりも、父が母を、母が父を大切に思っているのは端から見ても明確だった。そのくらい両親は仲が良いのだ。


「こんな人達って?」


 宥めるような優しい声で、柊悟くんが問う。この声を聞くとやはり冷静になれる。幼い頃から過ごしてきた家族よりも大好きで落ち着く、彼の声。


「……わたしに、虫の名前を付けるような人達」

「ほたる、自分の名前の由来をご両親に訊いたことある?」

「…………ない」


 考えてみれば、そんなことただの一度も訊ねたことがなかった。昴も同じだったのか、「そういえば」と小さな声で呟いた。


「今ここで教えて頂けませんか? ほたるさんの為にも」


 彼の言葉を聞いて、両親の顔色が変わった。互いに見合わせた顔の上には何処にも、先程までのふざけた表情はない。


「お父さん、話してもいいかな」

「……私は構わない」

「わかりました」


 麦茶のグラスに口をつけた母は、顔を下げたままだ。ひょっとすると、わたしと目を合わせるのが気不味いのかもしれない。隣に座る昴の、ごくりと唾を飲み込む音が耳に届く。小さく口を開いた母は、そこでようやく言葉を紡ぎ始めた。


 

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