第九十三話 【おねがい】
翌朝。
説明するまでもなく、わたしたちは昨夜帰宅してから何度も愛を確かめ合った。翌日も互いに仕事なので日付が変わらぬうちに眠りについたつもりだったが、二晩連続でこれなので少々身体が痛む。
「指輪なんだけど、どうする? 週末辺り選びに行く?」
朝食の準備をしながら振り返った眼鏡姿の彼が、鏡の前で寝癖と格闘するわたしに問いかける。
「入籍する日のことを考えたら、先にご両親に挨拶じゃない? 指輪は後でも大丈夫なんだし」
入籍する日は昨夜、帰りの車中で話し合った結果、二人が出会ったあの日にしようということになった。その日までおよそ三週間しかないのだ、それを考えると先に両家に挨拶に行くべきであろう。
「間に合わなかったら付き合い始めた日にする?」
「それは……いいけど、でも」
「でも?」
「それだと、初めてエッチした日になっちゃう……」
「う……」
盆に乗せた朝食を配膳する彼の動きが止まる。食卓に着こうと立ち上がったわたしも、自分で言って恥ずかしくなってしまい茹でダコ状態だ。
「やっぱり、出会った……再会した日で」
「そうだね。柊悟さん、ご両親に都合のいい日を聞いてみて。わたしも……お昼に連絡してみるから」
「わかった、すぐに聞くよ」
正直、両親にはあまり連絡を取りたくない。実家にも、もう三年近く顔を出していない──いや、四年だったかもしれない。
「ほたる? 大丈夫?」
「……大丈夫」
そういえば、彼にはわたしの家族のことを全く話したことがなかったような気がする。彼の家族の話は仕事の話をする流れで時々聞いていたが、仲睦まじげで羨ましいほどであった。夏牙さんや遥臣さんとの間には色々とあったが、彼の話を聞いていた限りでは、兄弟仲は良好であるように思えた。
(本当に、あの夏牙さんと遥臣さんのアプローチは一体なんだったんだろう……)
温かなお茶を飲みながら顔を上げると、何か言いたげな顔をした柊悟さんと目が合った。
「どうしたの?」
「お願いがあって」
「なあに?」
「くんって、呼んで欲しいんだ」
「くん?」
「柊悟くんって……」
彼の名を知り、初めて呼んだ呼び名が「柊悟さん」だった。それからというものなんだかそれが定着してしまって、気が付けば「柊悟さん」が普段の呼び方となっていた。わたしが「柊悟くん」と呼ぶのは肌を重ている時限定。自分の気持ちに余裕がなくなってしまった時には「くん」と崩れることもあったが、今更呼び方を変えるのもなんとなく恥ずかしくて、そのままになっていたのだ。
「する時だけ『柊悟くん』って恥ずかしそうに呼んでくれるほたるもすごく可愛くて大好きなんだけど、普段も同じように呼んでくれたら……もっと嬉しいなって」
「時々『柊悟さん』って呼んだら?」
「もっと、もっと嬉しい」
「わかった、柊悟くん」
向かいに座り顔を綻ばせる彼が、身を乗り出しわたしの唇を塞ぐ。軽く触れるだけの口づけは次第に舌の絡む深いものへと移行し、気が付けば彼はわたしのすぐ隣。パジャマの上から胸を這う手を掴み「だめ」と言って押し返すと、「ごめん」と言って苦い笑み。
「遅れちゃう」
「……いっそのこと、午前中だけでも休みたい」
「駄目だよ」
誕生日の翌日に午前中だけ仕事を休むなんて、そんなあからさますぎる恥ずかしいことなど出来っこない。瑞河さんにからかわれるのが目に見えている。
「柊悟くん、職場に行ったらご両親に都合を聞いてくれるんじゃなかったの」
「それなら、今聞く」
「今?」
「出勤したら忙しくて電話どころじゃないだろうから……この時間の方がゆっくり話せる」
そう言ってスマートフォンを手にした彼はすぐに通話を開始した。あんなことのあとでよく切り替えが出来るなと感心してしまう。
「もしもし、父さん? 俺……うん、おはよう。朝早くからごめん」
朝食を口に運びながら、テレビのボリュームを落とす。気象予報士のお兄さんが言うには、今日は夕方まで雨のようだ。梅雨明けはもう少し先だという。
「は……え? ちょっと待ってくれ…………ねえ、ほたる」
「ん、なに?」
スマートフォンを顔から少し離し、ちょいちょいと指先で手招きをする柊悟くん。なんだか少し焦っているようにも見える。
「父が……今夜来ないかと」
「こ、今夜!?」
「どうやら、早くほたるの顔を見たいらしい」
「忙しくて都合がつかないから、とかではなくて……?」
「早くほたるの顔を見たいらしい……」
早いに越したことはないけれど、流石にまだ心の準備が出来ていない。かと言ってそんな理由で断るわけにもいかない。
「じゃあ、今夜……」
「ごめんね、急で」
「大丈夫」
「あ……父さん? 大丈夫、今夜で。え? 夕食? 無理、嫌だ嫌だやめてくれ……絶対喉通らないから。……え? いや、だから無理だって、うん、うん……じゃあ、八時に。うん、わかった、それじゃあ──」
電話を切り、大きな溜め息を吐く柊悟くん。会話の感じから内容は筒抜けであったが、一応説明を求めた。
「夕食、断ったけどよかった?」
「うん、絶対喉通らないもん」
流石に初対面の彼のご両親と顔を付き合わせ、結婚の報告をしながら食事をするほどわたしの肝は座っていない。彼の配慮に感謝しつつ、お味噌汁を啜った。
「だよね……八時に来るよう言われたから、俺も一旦うちに帰ってくるから一緒に行こう」
「実家って、レストラン……ホテルのすぐ近くなんじゃないの?」
「そうだけど、一人で行きたくない……一緒がいい」
可愛いことを言うなと微笑めば、なんとなく暗い表情の彼。お茶の入ったマグカップに口をつけ、溜め息まで吐く始末。
「どうかした?」
「いいのかなって」
「なにが?」
「俺はほたるをお嫁さんに貰うのに、ほたるのご両親よりも先にうちの親に会わせるなんて」
「気にしなくて大丈夫だよ。うちの親、そんなこと気にしないだろうし」
深入りされる前に「ごちそうさま」と言って席を立つ。身支度をしながら、「夕食は移動の車の中で簡単に食べられるものにしよう」と話が纏まった。
「それならわたし、帰っておむすび作るよ」
「やった! 楽しみにしてる」
「どのお弁当箱にしようかな……」
そんなことよりも、ご挨拶に伺う際の手土産が何もない事に気が付く。仕事帰りに何か買いに行かねばと考えを巡らせた。
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