第九十二話 【愛の言葉】
柊悟さんが予約してくれていたのは、市外の小洒落たレストランだった。白で纏められた店内の大きなガラス窓からは、川沿いに植えられた鮮やかな
「こんなお店あったんだね。知らなかった」
「俺も来るのは初めて」
白塗りの壁沿いには派手すぎない風景画や静物画が飾られ、控え目な照明がそれをさりげなく照らしている。店内の隅には食事の邪魔をしない程度に緑の植物や花が飾られ、見ていて飽きることがない。お客の入りもそこそこで、席の八割程度が埋まっているように見えた。
「改めて、誕生日おめでとう、ほたる」
「ありがとう」
運ばれてきたノンアルコールカクテルのグラスを傾け、小さく乾杯をする。グラスの向こうで微笑む彼の笑顔が本当に愛おしい。手を伸ばしてその頬に触れ、身を寄せたい衝動に駆られてしまう。
「コース料理なの?」
「うん。ちゃんとデザートも出てくるから」
「やったあ、楽しみ」
他愛もない、だけど今この時しか出来ない会話を交わしながら、食事を楽しむ。ドリンクを追加で注文し、最後のデザートを味わった後、肩を並べてレストランを後にした。
*
「ちょっと夜のお散歩をしない?」という柊悟さんの提案で、わたしたちは店の周りの川沿いを散策している。近くで見る花々はとても綺麗で、つい足を止めて見入ってしまう。先程ちらりと蛍が飛んでいるのが見えたが、見失ってしまった。
「ほたる、紫陽花好き?」
「うん、好き。色合いがとても素敵」
「それなら、今度式場の花を少し貰って帰るよ」
「本当? ありがとう、楽しみ」
川の中央に木製の橋が架かっている。行ってみよう、と彼が手を引いてくれるので着いていくと、そこから見える光景に思わず感嘆の声を上げた。
「綺麗……」
「……すごいね」
眼下の川沿いにはライトアップされた紫陽花と菖蒲。それに花が落ち、新緑の衣を身に付けた桜の木々。その間を無数の蛍が飛び交う光景は、さながら絵画のようであった。
「桜の時期に来ても絶対に素敵……ね、柊悟さ──」
ふ、と振り返ると同時に思い切り抱き締められた。彼の香りがふわりと鼻を掠め、思わず力が抜ける。
「しゅ、柊悟さ……」
「ほたる」
「どうしたの?」
「好き」
「うん……」
「大好き」
「うん……」
「愛してる」
「わたしも、愛してる」
そっと唇を重ね、身体を離す。時間が時間なだけに人は疎らだが、多少の人目はあるのでほんの少し距離を開け、腕を絡ませた。
「ねえ、ほたる──」
「なに?」
「俺はずっと……俺がほたるのことを一番好きだって、大事なんだって、ちゃんと伝わってないような気がしてるんだ」
「そんなこと……」
「……どうしてなんだろう。こんなにも君のことが愛おしいのに、どうして伝わらないんだろう」
そんなことを言われてしまっては、わたしの黒い劣等感の塊を彼に伝えるしかないではないか。そのままの体勢で俯き、一度唇を噛み締めて、意を決した。
「それは……わたしが……自分に自信がないからで、柊悟さんが悪い訳じゃないのに」
「自信がない?」
「前に一度言ったことがあったけど……わたしみたいな女のことを、あなたみたいな素敵な人が好きだって言ってくれるのが嘘みたいで。自分に自信がないから、本当に嘘みたいで」
「俺がほたるを好きだって嘘をついて、騙してるとでも?」
「違う……! そういう意味じゃないの。柊悟くんがわたしのことを大切にしてくれているのは、わかってる! でも……でも……」
「俺は、ほたるが言うほど良い男じゃない」
「そんなことない!」
勢いよく顔を上げ、真っ直ぐに彼を見つめた。何度見ても見惚れる、綺麗な顔──それに身体。柔らかいのに、どこか男らしい大好きな目元。それに時々乱暴にはなるけれど、いつだって優しい唇。自分のことよりも、いつもわたしを優先してくれる優しすぎる彼。
「良い男じゃないわけがないよ……」
初めて出会ったとき──いや、大人になって再会したあの時、わたしは彼に一目惚れをしたのだ。外見だけではない、内面にだって心底惚れている──それなのに。
「こんなにもほたるは可愛いのに。自信がないなんて」
「そんなこと、誰も思ってない。柊悟くんだけだよ……」
きっと彼は知らない。わたしが彼と並んで歩いている時に、周囲からどんな視線を向けられているのかを。「なんであんな女がこんなイケメンと」という視線が、言葉にせずともいつもわたしに突き刺さるのだ。
ここまで来てしまっては、もう吐露せずにはいられない。思いきって打ち明けると、彼は驚いたように首を横に振った。
「ほたるは、俺が可愛いと言うだけじゃ足りない?」
「そんなことない……! 柊悟くんがそう言ってくれるだけで十分わたしは嬉しいよ?」
「俺だって……周りの人全てがほたるを可愛いと思ってしまったら、それはそれで困ってしまうよ」
「……妬いてくれるの?」
「妬く。俺だって妬くんだよ? それに……周りがどんな視線を向けようが関係ない。俺にとって、ほたるはかけがえのない、大切な人だ。それだけじゃ駄目なのかな」
彼の言葉に、思わず目頭が熱くなる。こんな場所で泣いては彼を困らせてしまうと、下を向き唇を噛んで涙を堪えた。
「……駄目じゃないよ……ずっと、ずっと一緒にいられれば……わたしはそれで、それだけで幸せなのに」
「ほたる」
「…………」
「顔を上げて?」
わたしの両手を、彼の両手が包み込む──が、何やら違和を感じる。何か手触りの良い物が当たっているようだ。顔を上げて見ると、彼の手とわたしの手の間には真っ白なジュエリーボックス。
「これ……」
「ほたる」
「柊悟くん、これは……」
彼の手の中でケースの蓋が持ち上がる。銀色のシンプルなアームに、控え目なダイヤモンドのはめ込まれた繊細な指輪が、月光の元できらりと輝いた。
「結婚しよう」
「……え」
「俺と、結婚して下さい」
ずっと、ずっと待ち望んでいた筈のその一言が夢のようで、言葉が上手く出てこない。彼が手に取った指輪がわたしの左手の薬指にはめ込まれたところでようやく我に返り、ぱちぱちと瞬きをした。
「これ……これは?」
「誕生日プレゼントの、結婚指輪
「
「プロポーズ用の婚約指輪があるの知ってる? サイズ違いやデザイン変更を後から出来るように、お店が指輪を貸し出してくれるサービスで。これはその結婚指輪バージョン」
「婚約指輪じゃなくて、結婚指輪……?」
「これが婚約指輪なんだけどな」
困ったように眉を下げる彼が指先でなぞるのは、わたしの左手の薬指で輝く、金のアームのルビーとダイヤモンドの指輪。付き合い始めて初めてのクリスマスに贈ってくれた、わたしの宝物。
「これ、婚約指輪だったの?」
「え……? 婚約指輪って、俺言ったんだけどな」
「えっ、えっ……覚えてない……」
この金の指輪を貰ったのは、クリスマスイブの日──夜景の綺麗なレストランで食事を終え、帰宅してのんびりと愛し合っている時のことだった。わたしが彼にプレゼントを渡した後に完全に不意を突かれる形で、気が付いたときには指輪は薬指に収まっていたのだ。
「ほたる……あの時すごく感動してて、俺の話聞いてないなとは思ってたけど……まさか聞き落としていたなんて」
「ごめんっ……」
「ううん、あんな時に渡した俺も悪かったし……ちゃんと言い直せばよかったけど……夢中だったし、それに恥ずかしくて」
あの時の事を思い出してしまえば、わたしだって身体が強張り熱くなる。彼も同じだったようで、暗がりでもわかるくらい背けた顔と耳が赤らんでいた。
「それで、返事は貰えるのかな」
ほんのりと赤い顔のまま、彼がわたしを見つめる。
「……もう一回言ってくれないかな」
「何度でも言うよ。ほたる、結婚しよう」
握ってくれた手が温かい。二人の体温が一体となり、混ざり合って、
「……はい! 喜んで」
嬉し涙が頬を伝う。周りの目など気にすることなく、わたしたちはその場で思い切り抱き合い、何度も唇を重ねた。
飛び交う無数の蛍がわたしたちを祝福するかのように、帰り道をほんのりと照らしてくれていた。
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