第九十一話 【27歳の誕生日】

 六月の──最後の夜。今夜は雨が降っておらず、外は静寂に包まれている。


 温かなベッドの中で、わたしはまだ息の荒い彼の腕に抱かれながら、ぼんやりとつい先日までのことを思い出していた。



 普通の結婚式場ではそうでもないようだが、六月は柊悟さんにとっては繁忙期だ。慌ただしく過ぎてゆき、あっという間に月末。土曜日の昼間に喧嘩をしたような形で話を無理矢理終わらせたまま、わたしたちは揉めた原因の話題に触れられないままあっという間に時は過ぎた。


 ──が、月が七月に変わる直前の、六月三十日の夜のことだった。とうとう我慢が限界に達したのか、わたしたちは互いが互いを求めて激しく愛し合った。明日も仕事だというのに、何度も。何も解決していないというのに、現実から目を逸らして──。




 時計の針が0時を指した。日付が七月一日に変わる。


「起きてる?」

「うん……」

「誕生日、おめでとう」

「……ありがとう」


 まさかこんな形で祝いの言葉をもらうことになろうとは。身を寄せて唇を重ねると、眠たい目を擦りながら彼は微笑んだ──勿論、わたしも。


「色々、話があるんだけど……とりあえず、寝よっか」

「うん……ごめんね、朝早いのに」

「謝ることないよ。お互い様なんだから」


 パジャマを着ることすら煩わしくて、出しっぱなしにしていた毛布に裸のままくるまり目を閉じる。彼の言う「色々な話」とは何なのか考える余裕もない程の睡魔に支配されたわたしは、気が付くと眠りに落ち──朝を迎えていた。





 珍しくわたしと同じ時間に家を出た柊悟さんは、仕事を早く終わらせて帰ってくるからと言って出かけていった。勿論わたしも残業はせず、真っ直ぐ家に帰る予定だ。仕事を終えて一旦家に帰り、そこから二人で出かけることになっている。



(それにしても、「色々な話」ってなんだろう……)



 そんな風に言われてしまうと、どうしても悪い方へと考えが傾く。左手の薬指で輝く指輪にそっと触れ、首を横に振った。




 愛車ジュリエッタのハンドルを握りながら、路肩脇の植え込みを彩る青い紫陽花を見つめる。そういえばあれから夏牙さん、それに遥臣さんの両名から接触がない。少し怯えながら生活していたこともあったのだが、ひょっとしたら口に出さないだけで柊悟さんやアリスさんがわたしに近寄らないよう手を回してくれているのかもしれない。それでなくとも二人とも多忙だというのに、本当に申し訳なかった。



(アリスさんと買い物に行く約束もまだ果たせてないんだよね……連絡してみようかな)



「でも忙しいよね……」


 スマートフォンを取り出して見つめたものの、彼女に連絡をとることをなんとなく躊躇ってしまう。どうしようかと頭を捻った所で、オフィスに到着した。


「真戸乃! 誕生日おめでとうっ」


 朝の挨拶もそこそこに、瑞河さんがわたしのデスクに可愛らしい紙袋をトン、と置く。律儀な彼女はわたしの誕生日を知ってからというもの、毎年こうやってプレゼントを贈ってくれる。勿論わたしも彼女の誕生日にはプレゼントを贈る。


「ありがとうございます」

「開けてみ開けてみ~っと言いたいところだけど、課長がいるから帰ってから開けな」


 「課長が」からは小声になりながら、オフィスの奥の十紋字課長を横目に見やる瑞河さん。課長の眼鏡の奥がギラリと光ったような気がした。


「……やば」


 目をギラつかせた課長が、ずんずんとこちらへ向かってくる。気不味げに背筋を伸ばした瑞河さんが、ちらりとこちらを見やり「ゴメン」と小声で囁いた。


「真戸乃君」

「……はい」

「よかったら食べなさい」

「……えっと?」


 課長が差し出したのは某有名メーカーの高級菓子の紙袋。ピンク色で可愛らしく洒落たデザインのそれは、課長の堅苦しい顔に不似合いすぎて、笑いが零れてしまいそうになる。


 お叱りを受けるものだと身構えていたわたしたちの思考は完全にフリーズ。いつまでも課長が紙袋を持った腕を突き出しているので、とりあえず受け取ることにする。


「ありがとうございます。でも、これ……」

「誕生日おめでとう」

「えっ!?」


 どうして課長がわたしの誕生日を知っているのか、どうして高級菓子のプレゼントを用意してくれているのか、疑問は尽きない。開いた口が塞がらないまま頭を下げると、課長はそっぽを向きながら口を開いた。


「去年……去年だ。瑞河君が君を祝っている同じような光景を目にしたんだ。それで……たまたま! たまたまだ、家にあったんだこれが。家族は誰も食べないと言うから処分に困っていて、そういえば君が誕生日だったなと思い出して。不要ならば捨ててもらって構わない。ただ、味は保証する」



(早口……!)



「ありがとうございます、頂きます」

「返礼などは気にしなくて良い。たまたまうちにあっただけなのだから。来年もあるかと聞かれれば、保証は出来かねるしな」


 振り返り颯爽と自席へと戻って行く課長の姿に、出勤してきた美鶴くんも驚き口を開いたまま立ち尽くしていた。勿論、わたしも瑞河さんもであった。

 課長にこんな物を貰ったとあっては、おかしな噂が立つかもしれない──と少し心配にはなったけれど、幸いにも出勤していた人数が少なく目撃者もほんのわずかだった為、心配していた事態にはならずに済んだのであった。





 定時で仕事を終え、真っ直ぐに帰宅する。柊悟さんはまだ帰宅していなかったので、瑞河さんと課長に頂いたプレゼントを開封してみることにした。瑞河さんは毎年趣向を凝らしたプレゼントをくれるのだが、柊悟さんと付き合い始めて初めて頂くプレゼントだ──嫌な予感しかしない。


「……瑞河さん」


 予感は的中した。紙袋の中、包装された箱の中には透け素材の、なんともセクシーなネグリジェが二着。淡いグリーン、それに黒色。寝巻きというよりも下着に近い素材に見えるが、とりあえず広げてみることにする。


「…………いやいやいや……」


 淡いグリーンの方は、胸元に繊細な刺繍が施されたショート丈のキャミソールワンピースで、可愛らしい印象の物だ。セットになっているショート丈のショーツは所謂カボチャパンツのようなもので、足の部分にさりげなくフリルが施されている。ただ、胸元がこれでもかというほど解放されたデザインのもので、身につければ胸の七割近くが丸見えになってしまうであろう代物だ。


「いや、これは……」


 腰回りの艶やかなリボンが可愛らしい、黒色のネグリジェ。なかなかお目にかかれない大胆なプランジングネックで、胸元の布地を横に少しずらせば、間違いなく胸が全て零れ落ちてしまう。というか胸が零れ落ちる以前に、全体が透け素材なので全てが透けて見えてしまう。身に付けたところで、ほぼ全裸状態と変わりがないと思われる。膝丈で少しでも清楚感を出そうとしたのかもしれないが、全く持って無意味。セットになっているショーツさえ、よくよく見れば総レース。しかもソングタイプでおまけに紐。瑞河さんはこんな物を一体何処で見つけて来たのだろう。



(こんな物を柊悟さんに見られたら……)



 着て欲しいと言われれば──いや、着れない。お酒の力があればなんとかなるかもしれないが、素面しらふでは努力しなければきっと無理だ。そんなよくわからない努力はしたくない。


「課長のはっと……」


 某有名メーカーの高級焼き菓子セットだ。洒落た缶の蓋を開けると甘い香りがわたしの食欲を刺激した。小さなクッキーを一つ摘み、口に放り込む。


「美味しい……」


 果たして本当にこんなものが偶然家にあったのか。あの辿々しい態度からして、どこかに嘘が混じっていたのは一目瞭然だったが、課長本人に真意を聞流石に出来ない。

 もう一つ、とフロランタンに手を伸ばしたところで、柊悟さんが帰宅。もぐもぐと口を動かしながらわたしは彼を振り返った。


「おかえりなしゃい……」

「ただいま。何食べてるの?」

「フロランタン。課長から頂いて……おいしいよ」

「十紋字さんが?」


 驚く彼の腕の中には色鮮やかな赤い花束。柔らかで上品な色合いのダリアの間には、同系色のトルコキキョウ。アクセントとして添えられたユーカリのグリーンが、非常にわたしの好みであった。


「これ……」

「嬉しい、すごく素敵……ありがとう」


 優しいユーカリの香りが鼻腔を擽る。ダリアもトルコキキョウも香りが弱いので、大好きなユーカリの香りを存分に楽しむことが出来る。


「何処のお花?」

「式場の方から良い花を仕入れて貰って、俺が作ったんだ」

「これ……柊悟さんが作ったの?」

「変だったかな?」

「全然! 本当に器用だなってびっくりしたの」


 腕の中の花束は、とても素人が作ったとは思えない作品だ。彼にそう伝えると、「褒めすぎ」と言って照れながら花瓶に花を生けてくれた。


「ところでほたる、気になってたんだけど……」


 柊悟さんの視線はわたし──それから菓子の缶──そしてあのスケスケのネグリジェへと移動する。


「あ……」

「これは?」

「あう……」

「透け透けだねえ……」

「それは……瑞河さんが」

「着てくれるの?」


 黒色のネグリジェを手に取り広げた柊悟さんは、柄にもなく口許を歪めて厭らしい表情だ。ドキリと胸が跳ねたが、首を大きく横に振り否定の意志を伝えた。


「し……素面じゃ無理だよ」

「じゃあ、お酒飲んだときに」

「それなら、柊悟さんも飲んでよ!」

「だめだめ、俺は飲むと大変なことになるから」


 言われてみれば彼と同棲を初めて約一年。一緒に飲酒をした記憶がわたしにはない。いつも飲むのはわたしだけなのだ。


「じゃあ、週末一緒に家で飲もうよ」

「え、ええ……だって俺……」

「大丈夫、わたしの脱ぎ上戸よりはマシでしょ?」


 手早くネグリジェを片付け、用意していたグリーンのワンピースに着替える。スーツのまま出かけるという彼の手を引き、わたしたちは真っ白なランボルギーニ カウンタックに乗り込んだ。




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