第八十九話 【アフタヌーン・ティー】
「午前中には仕事を終わらせて帰ってくるから」と言い、いつも通りスーツに着替えた柊悟さんは足早に出掛けて行った。昼食は一緒に食べる予定なのだが、彼が何かしら準備をすると言うので、わたしはゆっくりしておくよう命じられている。
(とは言っても、もう熱もないんだよね……)
天気が良ければシーツを洗って布団を干すことくらい出来たのに生憎今日は雨だ。何もできないなと思ったが、そんなことか彼にバレればきっと叱られてしまう。
(ゆっくり休んでいて、と言われても……全快してるのに難しいな……)
樹李さんの部屋から戻ったわたしはネットサーフィンの後、小説家になろうのページに飛ぶ。最近読めていなかったブックマークページを読み終える頃には、時計の針は十二時半を過ぎていた。
「……あっ」
「ただいま、ほたる」
「おかえりなさい」
玄関扉の鍵の開く音に顔を上げると、紙袋を両手に抱えた柊悟さんが、ふわりと微笑んだ。午前中だけの仕事だからと言ってコンタクトレンズを着けず、今日は朝から眼鏡姿。そんな彼に見惚れつつも起き上がり、受け取った紙袋をテーブルの上に置くと、上着を脱いだ彼に抱きついた。
「どうしたの?」
「こうしたかったの……でも、着替えるよね?」
「うん、ごめんね。後でもっとしてあげるから」
ゆるりと腕を解き彼を解放すると、わたしは紙袋をまじまじと見つめる。柊悟さんの実家のホテル名が印字されていることに気が付いたタイミングで、着替えを済ませた彼が紙袋の中から包みを取り出した。
「これ、お昼に食べようと思って」
包みの中には様々な具の包まれたサンドウィッチ、別の包みには甘い香りを纏ったスコーン。もう一つの紙袋から取り出した角ばった紙箱の中には、色とりどりのケーキが詰め込まれていた。
「すごい、美味しそう。でもどうしたの、こんなに」
「サンドウィッチとスコーンはうちの店の物なんだけど、ケーキはホテルのレストランがサービスで包んでくれたんだ。ホテルの方で少し仕事があって、その帰りに『よかったらどうぞ』って」
「ケーキ、多いね……」
「残ったら明日にでも食べようよ」
病み上がりにこんなにケーキを食べてもいいものなのだろうか。二人で食べるにはやや量の多いケーキは全て美味しそうで、どれを明日に持ち越すか悩んでしまう。食べても二つまでかなと箱の中を覗くと、珍しい緑色のケーキが目に留まった。
「ピスタチオ?」
「うん、凄く人気があるんだよ、これ」
「ピスタチオ大好き! でもこっちのチョコレートのも美味しそう……」
「よかった」
「なにが?」と首を傾げると、柊悟さんは優しい手つきでわたしの髪を鋤いてくれた。にこりと微笑み立ち上がると、皿とフォークの準備をしながら、お湯を沸かして紅茶の準備に取りかかる。
「ごめん、紅茶で良かった?」
「うん、ありがとう。ねえ、何が『よかった』なの?」
「ほたるが元気になって良かったなって」
「……うん」
甘い紅茶の香りが鼻先をくすぐる。クリームたっぷりなケーキを頂くので砂糖は遠慮しておくことにした。
「お昼ご飯っていうよりも、おやつタイムみたいになっちゃったけど……」
「ううん、嬉しい。アフタヌーンティーみたいで素敵」
「ティースタンドがあれば、アフタヌーンティーごっこが出来たのにね」
柊悟さんの淹れてくれる紅茶は格別。執事が経験あるからなのかもしれないが、自分で淹れるのとは全く味が違うのだから不思議でならない。一口口に含むと全身の力がふにゃりと抜けてしまった──美味しい。
「どうしたの?」
「……美味しくて」
「ありがとうございます」
胸に手を当てにこりと微笑む柊悟さんのその姿に、わたしもつられて頬が緩んだ。
「なんだか、色々思い出しちゃう」
「執事と、主だった頃?」
「そう」
生クリームがたっぷり乗ったフルーツケーキを食し、ハムとチーズのカスクートで口の中をリセットしてからピスタチオのケーキに手を伸ばす。カップの底がはっきりと見え始めたのでポットを手に取ろうとすると、柊悟さんに先回りされてしまった。
「ありがとう……やっぱり美味しいな、紅茶」
「そんなに?」
「柊悟さんの作ってくれるものは、何でも美味しいから……」
「そうかな?」
「うん」
ピスタチオのケーキをねだる彼に、ケーキを載せたフォークを差し出す。その代わりにわたしも彼に生チョコケーキをねだると、同じようにフォークを差し出してくれた。
「そういえば昨日はどうだった? 楽しく食事は出来た?」
「え……うん、まあ」
なんとなく口を濁すような答え方だ。何かあったのかなと疑問に思う部分もあったが、深く訊いてもいいものか迷ってしまう。
「……訊かないほうがいい?」
「訊くとほたるが嫌な思いをするかもしれないから」
「……嫌な思い?」
きっと柊悟さんは墓穴を掘っている。「訊かないほうがいい?」などと言ってしまったわたしも悪かったが、そんな風に答えられたら訊き返さずにはいられないではないか。
「俺の腕って、触ってると舐めたくなったりする?」
「なにそれ?」
思ってもみなかった質問に、すっとんきょうな声が出てしまう。「なめる」ってどういう意味なのだろうか。
「なめるって……ぺろぺろ、の舐める?」
「うん……」
「そんな風に感じたことはないかなあ……」
「だよね」
(──ちょっと待って。それって柊悟さんの腕に触れると舐めたくなる、という女性が職場にいるってこと?)
食べ終えたケーキ皿にフォークをコトリと置き、わたしは文字通り頭を抱えた。──最悪だ、できればあまり聴きたくない話だった。
「やっぱりモテるよね……」
「いや、そういう意味じゃ……」
「好きでもない人の腕を舐めたいだなんて、軽々しく言うような方なの?」
「いや、それは……」
「やっぱり、そうなんだ……」
部屋着の袖から覗く彼の手首に手を伸ばす。スッと袖を捲ると、その筋肉質な腕に指先で触れた。
「優しくて……綺麗な腕」
「そんなことない」
「力強くて、いつも温かい」
「……ほたる?」
「ん……っ」
そろりと顔を寄せ、軽く唇を落とした。ぴくん、と跳ね上がる彼の指先まで、わたしはスーッと舌を這わせた。
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