第八十八話 【火花散る】

 いつもならば、「ただいま」という声の後、洗面所から手を洗う水音が聞こえ、柊悟さんはリビングへと姿を現すのだが、今日は違った。きっと玄関に男物の革靴があるのを見て、戦慄したに違いない。ドスドスと急ぎ足でこちらへと近寄ってくる足音が荒い。


「ただいまほたる。お客さ──」

「おかえりなさい、柊悟さん」

「……桃哉さん」

「……よぉ」


 通勤鞄を床に投げ出し、柊悟さんは早足でベッドへと歩み寄る。スーツ姿のままわたしを抱き締めると、歯を食い縛った後、桃哉を睨み付けた。


「……どうして」

「お願い柊悟さん、話を聴いて」


 このままでは彼は桃哉を殴りかねない。善意でここに留まってくれた桃哉に対して、それはあまりにも酷い話だった。


「わかった」


 深呼吸をして立ち上がった柊悟さんは、上着を脱いで一旦洗面所へと姿を消した。少し落ち着きを取り戻したのか、わたしの隣へ腰を下ろす頃には、つり上がっていた眉はいつもの優しげな形へと戻っていた。


「……遥臣さんが来たの」

「遥が?」

「うん……それで、樹李さんを追い出して、自分が看病をするからって言って……」


 パジャマの前側を隠すように、わたしは自分の身体を抱き締めた。その手を掴んだ柊悟さんの顔が、少しだけ青い。


「何かされたの?!」

「何かって訳じゃないけど……」

「言うのが辛いなら、言わなくていい」

「うん……」


 パジャマを脱がされそうになっただなんて言えば、きっと兄弟の間に亀裂が入ってしまう。のであれば話さなければならないかもしれないが、である以上は被害者ぶっておかしなことを言うのも気が引けた。


「そこに偶然桃哉が来てくれたの。いつもの野菜を持って……それで、助けてくれて」

「…………」

「樹李さんはバイトに行かなきゃだし……遥臣さんは『自分がほたるさんの看病をするから』って言ったんだけど、桃哉が残ってくれて」

「ごめん……嫌な思いをさせたね」


 桃哉が盛大な溜め息を吐いた。そんな彼を振り返った柊悟さんは、深々と頭を下げて謝罪と感謝を口にした。


「気にすんな」

「しかし……」

「俺だって、どうこう言える立場じゃねえし。それに昔こいつにもっと辛い思いをさせた。だから、何も言わない」


 隣に柊悟さんがいるというのに──桃哉の言葉に、昔の事を少しだけ思い出してしまう。それを頭の隅に追いやって、桃哉へと視線を移した。


「ありがとね、桃哉。助かったよ」

「別に…………早く風邪治せよ。もう帰るから」

「うん、気を付けて」


 約束通りチャーリーを桃哉に差し出すと、柊悟さんは「あげるの?」と不思議そうに首を傾げた。そんな中、立ち上がろうとするわたしを制し、桃哉は玄関へと向かう。柊悟さんは玄関まで桃哉を見送ると、早足でベッドへと戻ってきた。


「ほたる、熱は?」


 筋張った大きな手が、わたしの額にぺたりと押し当てられる。その冷たさに一瞬肩が縮こまったが、すぐに抱き寄せてくれた温かな腕の中に、すっぽりと包まれてしまった。


「さっき計ったら37.6℃だったよ」

「よかった、だいぶ下がったね。ところで、チャーリーはよかったの?」

「うん……なんかね、桃哉ったら一人で寂しいらしくて。それで、あげたんだ」


 本当のことなど話せるわけがない。柊悟さんが嫌な思いをすることは、わかりきっている。小さなことだけれど、さっきから彼に隠し事や嘘ばかり吐いている。わたしの自己満足で、彼の為にと話していないことだが、胸の奥がチクチクと傷んで仕方がなかった。





「樹李さん、昨日はありがとうございました」


 朝になって更に熱は下がり、37.3℃。ある程度動けるので、「大丈夫だから」と言って柊悟さんには仕事に行ってもらった。今日は土曜日だが、お昼まで仕事が入っているとのことだった。


 お昼前になって、昨夜お世話になった樹李さんにお礼を言う為、彼女の部屋へと向かった。柊悟さんが昨夜作った特製パウンドケーキを片手にチャイムを鳴らすと、樹李さんはすぐにドアを開けてくれた。


「おー、ほたる! 大丈夫だったか?」

「はい……」

「悪かったな……傍にいてやれなくて」

「いえ、こちらこそすみませんでした」

「そんなことないって」


 パウンドケーキを見て樹李さんは嬉しそうに顔を綻ばせた。ここ一年で何度か振る舞ったことがあり、彼女のお気に入りの味になってしまったようだ。


「立石君と桃哉君は喧嘩にならなかった?」

「ええ、なんとか」

「それならよかった」

「それで……あの、この前相談したことなんですけど……」

「どうした?」 

 

 先日、わたしは樹李さんに「柊悟さんとの将来に対する不安」という漠然なことについて相談をしていた。将来を約束してくれたのに、自分に自信がないゆえにそれを信じて待つことが出来ないと。


「ひょっとしてプロポーズされて解決したん?」

「いえ、プロポーズはされてないんですけど……わたし、馬鹿みたいに焦りすぎていたかもしれません」


 樹李さんはわたしを玄関に招き入れ、扉を閉めた。話の内容を外に漏らさぬようにという彼女なりの配慮なのだろう。狭い玄関に腰を下ろした彼女に促されるまま、膝を立てて隣に座った。


「寝込んでいる間に、色々考えたんです。別に結婚にこだわる必要なんてないんですよね。わたしはただ、彼と一緒にいられればそれで幸せなのに、そんなこともわかっていなかった」

「……そっか」


 樹李さんはどこか安心したような声色で相槌を打つ。視線を左手の薬指──柊悟さんが贈ってくれた指輪に落としながら、わたしは続ける。


「わたしだって……色々と思うことはありますけど……そんなことばかり一人で考えていもどうにもならないって、気がついたんです」


 ただ恋人同士で同棲しているのと、婚姻を交わして夫婦に──家族になるのとではやはり意味合いが違う。最近ではそんなことに拘らないカップルも増えているようだから、ひょっとしたら柊悟さんもそちらの考えなのかもしれない。彼がそういう考えであるのならば、それに靡くのも悪くはないかなと考えるようになったのだ。


「まあ何にせよ、落ち着いたみたいでよかったよ。安心してこれを食べられるな」


 嬉しそうにパウンドケーキの載った皿を抱き抱える樹李さんにもう一度お礼を述べ、わたしは彼女の部屋を後にしたのだった。



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