第八十七話 【追憶】

 遥臣さんが立ち去り玄関の扉が閉まるや否や、桃哉は早足で施錠に向かった。悪態を吐き扉に蹴りを入れると、わたしが転がるベッドの足元の床に腰を下ろした。


「大丈夫か?」

「うん……」

「なんもしねえから、寝てろよ」

「うん……」

「お前、髪伸びたな」

「そうかな?」

「……昔のことを思い出しちまう」

「……そう」


 布団に潜り込み、チャーリー──水色の、大きなカエルのぬいぐるみ──を抱き締める。それを見た桃哉は驚き、少しだけ腰を浮かせた。


「まだそれ持ってたのか」

「うん……」

「……懐かしい」


 チャーリーは、わたしが桃哉と別れるか別れないかという際どい関係だった頃に、寂しさを紛らわせるために購入したものだった。抱き締めて眠ると心地の良いふわふわのぬいぐるみは、わたしと彼が破局後も身体の関係があったことを知っている──目撃している、数少ない存在だった。


「……こいつは全部知ってるんだもんな」


 桃哉も同じことを考えていたのだろう、懐かしむようにチャーリーの手をふにふにと握る。行為の際、幾度となくベッドから滑り落ちたこの大きなぬいぐるみは、処分したくてもなかなか出来ずにここまできてしまっていた。


「捨てねえの?」

「だって、可哀想」

「お前、これ見て俺を思い出すとか、ねえの?」

「無くはないけど……」

「それなら、俺が貰って帰ろうか?」

「えっ?」

「だって、お前にはもう必要ねえだろ? どうせこの狭いベッドであいつと一緒に寝てるんだろ。窮屈そうだし、抱き締めてくれる奴がいるなら、要らねえだろこれ」


 間違ったことは言っていないとは思う。 事実、ここ最近チャーリーを抱き締めて眠ることは滅多とないのだ。けれど、わたしにもチャーリーに対する愛着というものがある。数年間一緒に眠り続けたのだから、「はいどうぞ」とすぐに譲れるものでもないのだ。


「あいつは、お前がこれを買った経緯は知らねえんだろ?」

「うん」

「それならやっぱり処分だな」

「でも……」

「俺とはもう何もねえんだから、俺に関係あるものをいつまでも置いとくなって」

「……わかった。でも柊悟さんに何て言おう」


 桃哉は柊悟さんが帰ってくるまでここに居てくれるのだろうから、彼がチャーリーを連れ帰る場面にはどうしても遭遇してしまう。下手な嘘も吐きたくはないし、どうしたものか。


「俺が一人で寂しいから、貰って帰るって言っとけば?」

「一人で寂しいの?」

「別に……」


 フッと絡まった視線が──桃哉の目が、一瞬男の色に染まった。刹那、彼との過去のことを思い出してしまい、気まずくなって目を逸らしてしまった。


「ほたる?」

「なんでもない……」

「嘘吐くな」

「なんでわかるのよ」

「そんくらい、わかる」


 ベッドサイドに腰を下ろしたままの桃哉は、それ以上何も言わなかった。「寝てろ」と言われるので布団に潜り目を瞑った。


 うとうとと微睡んでは目を覚まし、その度に桃哉が「何か飲むか?」とか「しんどくないか?」と聞いてくる。求めると、スポーツドリンクのキャップを開けて渡してくれるという厚待遇だ。


「ごめんね……明日も仕事なんでしょ」

「気にすんな。別に、嫌じゃねえし」

「テレビ、つけてていいからね」


 音量をうんと小さくしたテレビから、人気の芸人の笑い声が漏れる。ぼんやりとそれを聴きながら、ごろごろと寝返りを打った。


「起きてるか?」

「うん……なに?」

「あいつ、何時くらいに帰ってくるんだ?」


 手首に巻いた時計で、桃哉は時刻を確認している。「何時?」と訊くと「もうすぐ九時」とのことだった。


「なるべく早く帰ってくるとは言ってたけど……やっぱり、長引いてるのかもしれない」

「お前がこんな状態だってのにか」

「仕方ないよ……彼にも立場があるんだから」

「立場ねえ……」


 溜め息を吐いた桃哉が検温をしろというので、体温計を受け取りパジャマのボタンを開け、腋に挟む。


「なに?」

「……別に」


 視線が気になり顔を上げると、桃哉は慌てて目を逸らす。口を開こうとしたその時、検温完了の電子音が鳴った。彼を一瞥して体温計を取り出すと、37.6℃。


「だいぶ下がったみたい」

「そうか。でも、まだ寝てろ」

「わかってる──ちょ……!」


 わたしの手の中から体温計を取り上げた桃哉は、わたしの背と肩に手を添えるとゆっくりとベッドに横たわらせた。端から見ると押し倒しているようにも見えてしまう。


「……びっくりさせないでよ」

「悪い、そういうつもりじゃ」

「────!!」


 ガチャガチャと玄関の鍵を開ける音に、勢いよく起き上がる桃哉。どうやら柊悟さんが帰宅したようだ。驚いたわたしが布団を被った時には、彼はベッドサイドの床に胡座をかいて座り、玄関の方を凝視していた。



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