第八十三話 【迫り来る魔の手①】

 夜間診療所での診察結果は風邪ということだった。ウイルス性の風邪の為、これからもっと熱が上がるかもしれないと医師に言われ、帰宅した頃には39.1℃。着替えて──というより、柊悟さんに着替えさせてもらってから解熱剤を飲み、ベッドに潜り込む。

 心配そうにわたしを見つめる彼に言葉をかける余裕もない。ただただ全身が寒く、怠く、痛い。


「ゆっくり眠って」

「うん……」

「おやすみ」

「うん……」


 布団の中で手を握ってくれている彼の手が温かい。わたしはそのまま、安心して眠りに落ちたのだった。




 翌朝になり、昨夜に比べて熱は下がっていた。体温は38℃代前半をうろついている。寒気はかなり治まったし、全身の痛みも消えていた。


「大丈夫だから、仕事行って?」

「でも」

「だって……夜は慰労会なんでしょ? みんな楽しみにしてると思うの……だから」

「でも、ほたるが──」

「わたしは大丈夫だから」


 それでも尚出勤を渋る彼に、わたしは「夜になったらバイトに行く前の樹李さんに、様子を見に来てもらうよう頼むから」と告げた。それならば自分がお願いをすると言うので、スマートフォンに樹李さんの電話番号画面を開いて渡す。


「起きてるかな、樹李さん」

「ひょっとしたらまだ寝てるかも……昨夜がバイトじゃなかったら起きてるかもだけど」

「──あ、もしもし、おはようございます。朝早くからすみません──」


 どうやら昨夜、樹李さんのバイトは休みだったらしい。挨拶を済ませた柊悟さんは現状を話し、今夜出勤前にわたしの様子を覗きに来てほしいと丁寧な口調で頼んでいる。丁寧な口調はいつものことだけれど、こうして聞いていると彼が執事だった頃を思い出してしまう。



(──懐かしいな)



 去年の初夏──突然現れた、ロングヘアーに燕尾服姿の自称執事は現在、出勤前のスーツ姿。髪を切り露になったうなじに、蒼ではなくクリアのコンタクトレンズ。いつまでも見つめていたくなる彼の横顔が、通話を終えると同時にこちらを向いた。


「樹李さん、六時頃に来てくれるって」

「そう……ありがとう」

「ちゃんと寝てなよ。樹李さん、部屋で作業してるけど、何かあったらすぐ連絡してくれって」

「わかった。柊悟さんも、気をつけて行ってらっしゃい」

「うん、行ってきます」


 額にそっと唇を落とし、頭を撫でてくれた彼は最後に「あまり遅くならないようにするから」と行って出掛けていった。


「わたしも……職場に電話しなきゃ」


 発信履歴から職場へと電話をかけようとした瞬間、着信画面が表示された。ちょうど今電話をかけようとした、職場からだった。


「はい、もしもし……」

『おはよう、私だ』

「か、課長!? おはようございます!」

『こんな時間にすまない。具合はどうかと……その、心配でな』


 どうやら課長はわたしの体調を気遣って、連絡を寄越してくれたらしかった。


『熱はまだ高いのかね?』

「はい……」

『ならば、休みなさい。週末も重なる、ゆっくり過ごすと良い』

「お気遣いありがとうございます。すみません、わざわざ」

『気にしなくて良い。では、失礼する』


 プツンと通話が途切れ、スマートフォンに通話終了を表す画面が表示される。


「びっくりしたあ……」


 まさか課長本人が直々に電話をかけてくるなんて──そっけない態度ではあったが、あんな課長でも心配してくれているということが、なんだか嬉しかった。


「寝なきゃ……」


 ベッドに潜り込み、すっぽりと布団にくるまる。通話の最中起き上がっていたからか、なんだか身体が冷えてしまった。布団の中で足先を擦り合わせ、暖を取る。こんな時柊悟さんが隣で寝てくれていれば、自分の足でわたしの足を包み込み、温めてくれるのに。


「はぁ……」


 なんだかどうしようもなく虚しくなってしまった。彼のことを考えたって、今すぐ帰ってきてくれるわけではない。仕事に行ってね、と言って彼を見送ったのはわたし自身なのだから。



 瞼を伏せ、眠りへと向かう。目覚めて食欲があれば、柊悟さんの作ってくれたお粥を食べよう────。





 結局、お昼前に目が覚めても食欲はなく、枕元に置かれたスポーツ飲料と薬だけを口にするだけに終わった。目が覚めても熱っぽさは変わらず、身体はまだなんとなく怠い。痛みが引いただけマシなんだろうけれど。

 だらだらと眠ると、きっと夜に眠れない。だからといって小説を読むのも、今の身体の状態を考えるとよろしくない気もする。仕方なしにテレビをつけぼんやりとニュース番組を眺めるが、やはり疲れてしまったのでそのまま目を閉じる。


 ごろごろと寝返りを打っては少し眠り、気が付くといつの間にか夕方になっていた。そろそろ樹李さんの来てくれる時間だな、と時計を見上げた直後、玄関のインターホンが鳴った。




「おっす、大丈夫かほたる」


 わざわざ買ってきてくれたのだろう、樹李さんの手にはスポーツ飲料の入ったコンビニのビニール袋。バイト前なので、いつもの絵の具のついた服は着ておらず、シンプルなロングTシャツにデニム姿だ。去年の夏に長かった髪を切ってからというもの、ずっとショートヘアな彼女。その耳元では涼しげな色のレジンピアスが揺れていた。


「すみません……忙しいのに、わざわざ」

「気にすんなって。いつも世話になってるし、こういう時はお互い様だろ」

「ありがとうございます」


 わたしが検温している間に、樹李さんはお粥を温めてくれる。柊悟さんが作っておいてくれたものだ。体温計を見ると38.2℃で、まだ熱は下がりきっていなかった。


「立石君も忙しいから仕方ないよな」

「ええ……わかってはいるんです。それなのに迷惑かけちゃって」

「彼はそんな風に思ってはいないと思うけどな」


 樹李さんがベッドサイドまで運んでれたお粥を、冷ましながら少しずつ口にする。お茶碗一杯と半分食べきると、薬を飲んで横たわった。


「ちゃんと甘えるところは甘えてあげたほうが、立石君も喜ぶと思うけど」

「そういうものですか?」

「彼、年上の女に甘えられたいタイプってかんじするけどなあ。世話焼きだし」


 確かに柊悟さんは、人の世話を焼くのが好きだ。でも樹李さんの言う前者の意見はどうなのだろうか、聞いたことがない。


「今度、甘えてみたらどうだ?」

「えっ……でも、どんな風に?」

「うーん、そうだなー……あれ、お客さん?」


 樹李さんが頭を捻っている最中、玄関のインターホンが鳴った。一体誰だろう。直ぐに起き上がれないわたしの顔を見ると、樹李さんは「見てこようか?」と言って立ち上がり玄関へと向かった。



「……ほたる」

「はい?」

「なんか、凄いイケメンが……」


 玄関からわたしのいるリビングへ駆け戻ってきた樹李さんは、扉の向こうにいるという謎のイケメンに興奮気味だ。こうしている間にもインターホンは鳴り続けている。まるで、わたしが在宅していることを知っているかのように、何度も何度も。


「出るか? 怪しい奴だったら、追い返してやる」


 拳を握りしめ腕を振り回した樹李さんは、気合いの籠った声を上げると鍵を開け、玄関扉を開けた。



(騒がしいな、なんだろう……?)



 何やら揉めているようだ。来客の足音と声はどんどん近づいてくる。


「困るよお兄さん! 嫁入り前の娘がすっぴんに寝巻き姿で寝てるんだ。ずけずけと入ってこられたら──」

「関係ない関係ない。もうすぐ俺らは家族になるんだ、そんな姿頻繁に見るようになるんだからさ~」


 聞き覚えのあるその声に身構える。上半身を起こして肩まで布団を被ると、壁に向かってじりじりと後退した。


「こんばんは、ほたるさん。具合悪いんだって? 大丈夫?」

「は……遥臣さん……どうして」


 あっという間に短い廊下を渡りきり、リビングへと侵入してきたのは、眼鏡にスーツ姿の背の高い男性──柊悟さんの弟、立石 遥臣さんだった。



 

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