第八十四話 【迫り来る魔の手②】
「おいにーちゃん、それ以上ほたるに近づくことは許さねえぞ」
遥臣さんが開けっぱなしにしていたリビングドアをくぐり、室内へ踏み込んだ所で樹李さんが彼の前に回り込んだ。彼女も女性にしては背の高い方だが、柊悟さんと同じくらい高身長の遥臣さんの前では小さく見えるほどだった。
「お姉さんは何? 邪魔しないで欲しいな。俺は
その口許が恐ろしく歪む。口の両端を吊り上げ、にっこり──というよりも、ニタニタと厭らしい笑みを浮かべる遥臣さん。
(──怖い)
樹李さんを見つめると、「大丈夫だ」と言わんばかりの強い眼差し。彼女は遥臣さんの両肩を掴み、後ろへと力一杯押した。
「悪いけどお兄さん、ほたるさんの看病はあたしがすることになってるから」
「ふうん。でもお姉さんは今からバイトなんじゃないの?」
「「……は?」」
わたしも樹李さんも、どうしてそれを知っているのか、という表情が思い切り顔に出てしまった。しまった──そう思った時には既に遅かった。
「やっぱりそうなんだ。それなら……」
自分の肩を掴んでいた樹李さんの手首を握り締めた遥臣さんは、無理矢理彼女の身体を玄関側に引き寄せた。
「な、ちょっと……お前っ!!」
「樹李さん!!」
くるりと身を回転させた遥臣さんは、そのまま樹李さんを玄関側へと突き飛ばした。リビングへ通じる扉が閉められ、彼は内側から鍵をかけてしまった。
──わたしはリビングに閉じ込められてしまった。
「おい! 開けろ! ふざけんなテメェッ!!」
激しく扉を叩く樹李さんの怒鳴り声が聞こえる。そんなことはお構いなしに、遥臣さんは足早にわたしのいるベッドへと近寄ってくる。
「こ……来ないで……」
「どうして?」
「樹李さんを、入れてください」
「ほたるさんが抵抗しないなら、入れてあげても良い」
「何を……」
壁に目一杯寄り、これ以上後退出来ない所まできた。遥臣さんはというと、ベッドの端に腰掛けて上着を脱ぎ、わたしの方へとにじり寄ってくる。
「だって、彼女がここにいたら、今から俺がすることを絶対に止めようとするから」
そう言って伸びてきた手のひらが、わたしの首筋に触れた。首筋に指を這わせ、パジャマの胸元──鎖骨を撫でる。
「や……やめて下さい」
「汗かいてるじゃない。拭いてあげるよ」
恐ろしくなり、抵抗出来ない。全身が強張り、震えてしまう。この人は一体何を……何をしようとしているのか──。
「いっ……あ…………!」
首筋に触れていた手が突然、背中に差し込まれた。肩甲骨の辺りを撫で回され、ぞくりと身が震えた。
「ブラつけてないの?」
「ずっと寝てるので……息苦しくて外してたんです」
「無防備すぎじゃない? 汗拭いてあげるから、俺が準備してる間に脱いでてね?」
「あ……! 待って!」
枕元に置かれていたタオルを手に取った遥臣さんは、真顔で立ち上がる。タオルにくるまれていたわたしのブラジャーが、彼の足元に落下した。
「……ふうん」
手に取ったそれをまじまじと見つめると、黙って元あった位置に戻す彼。わたしはといえば恐怖と羞恥で頭が混乱中だ。
「ドア開けちゃ駄目だよ?」
背を向けた遥臣さんは、キッチンでタオルをお湯で濡らし絞っているが全く隙がない。玄関側から体当たりをして、扉の破壊を試みている樹李さんの怒号が次第に強くなっているにも関わらず、焦る様子もない。
「食事は済ませたんだね」
「はい……柊悟さんが、お粥を作ってくれたいたので」
「それなら、やっぱり汗拭かないとだね」
絞ったタオルから滴った水が、シンクに落下する音が耳に届く。振り返った遥臣さんは、腕を捲りながら悠々とベッドへと近寄ってくる。
「あれ、ほたるさん。俺、脱いでてねって言ったよね?」
湿り気を帯びたタオルを手に、遥臣さんはわたしの前に跪く。目元はにこりと微笑んではいるが、表情が怖い。口の中が渇き、言葉を返すことが出来ない。
「あっ……あ、の……」
「どうして、言うことを聞けないの?」
「え……や、いやっ…………」
パジャマの一番上のボタンに、遥臣さんの手が触れた。一つ外すと鎖骨が露になった。
「ほら、あと四つ」
二番目のボタンに手が伸びる。もしも──もしもここで抵抗してしまえば、わたしは「柊悟さんに相応しくない女」と彼の家族に報告をされ、彼から無理矢理引き離されてしまうのだろう。最悪、もう会わせてもらえないかもしれない。それならば──ここは遥臣さんのすることに従ってやり過ごしたほうが、懸命なのかもしれない。
「この指輪……」
「それは、柊悟さんが」
去年のクリスマスに贈ってくれた、左手の薬指で輝くルビーの指輪。宝石の部分を指の先で摘んで転がすと、遥臣さんの手はそのままわたしの腕を這い、鎖骨を撫で──二つ目のボタンを外した。
「…………っ!」
「恥ずかしい?」
「どうして、こんなことをするんですか」
ボタンの外れたパジャマの隙間から手を差し込めば、簡単に胸に触れられてしまう。けれど遥臣さんはわたしの肌には一切触らず、眺めているだけだった。
「前にも言わなかったっけ、俺。君が欲しいって」
「聞きました、でも、わたし──」
──ピンポーン
「だっ……誰……?」
突然、玄関のインターホンが鳴った。扉に体当たりをしていた樹李さんの動きが止まり、すぐに玄関へと駆けて行く気配があった。
「なんだ邪魔が入りそうだねえ……」
落胆した様子の遥臣さんが、わたしのパジャマから手を離す。樹李さんが体当たりをしていたドアが、先程とは比べ物にならないくらい激しく音を立てて揺れる。
「ほたる!!」
ドアの外側から、聞き慣れた声に名を呼ばれる。わたしから離れて、降参と言わんばかりに手をヒラヒラとさせる遥臣さんを尻目に、わたしは胸元のボタンを慌てて閉めた。
──ドン! ドン! ドスンッ!
扉の鍵が壊れ、勢いよく内側に開くドア。
「ほたる!!」
涙で揺れるわたしの視界に飛び込んできたのは、狼狽する樹李さんよりも先にわたしの元へと駆けつけたのは──。
「と……
わたしの幼馴染であり元恋人の、大家 桃哉だった。
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