第八十二話 【不調】

 侵入してきた大きな手は、わたしの臍や腹、それに腰の括れを撫でる。ブラジャーのホックに手が伸びた所で、わたしは訴えかけるように声を絞り出した。


「柊悟さん……夜ご飯」

「後で、ちゃんと食べるよ」

「でも、」

「今は……ほたるがいい」


 いつもなら──いつもならこのまま流れに身を任せ、共に快楽の海へ飛び込むのに。今は全くその気になれない。嘘みたいに身体が重く、顔を上げることも出来ない。ただただ怠い。熱っぽいというよりも、寒気。身体は密着して、温かな彼の指先が胸に、薄く柔らかな唇は首筋に触れているというのに、ぶるりと震え上がってしまう。


「柊悟さん……柊悟さん……待って、お願い……」

「待てない」

「待って……なんだか、調子が悪いの……」

「どうした?」


 後ろからぎゅっと抱き締めてくれた彼は、正面に回り込みわたしの様子がおかしいことに気が付くと顔色を変えた。


「どこが痛む?」

「痛くはない……けど、なんだか倦怠感がすごくて」

「疲れが出たのかな……」


 横抱きにされるので身を任せると、ベッドに運んで横たえてくれる。寒気がすると伝えると、まだ出しっぱなしにしていた毛布で肩までをすっぽりと覆ってくれた。


「ごめん、気が付かなくて……」

「ううん、大丈夫」

「まだ寒い?」

「平気。でもごめん、先に休んじゃって……それに、その……続き、出来なくて」

「気にしなくていいよ。ほたるの身体が大事なんだから」


 おやすみ、と言ってわたしの額を撫で付けた柊悟さんは、優しく微笑むと手を握ってくれた。瞼は重いがまだ眠気はそこまでなく、ぼんやりと彼の顔を見上げ、力無く笑みを返す。


「夜中も、何かあったらすぐに起こして」

「うん……ありがとう……ごはん、ちゃんと食べてね?」

「うん、頂きます」


 目を閉じようとした刹那、優しい唇がわたしのものと重なった。安心して瞼を下ろすと、いつの間にか近くまでやって来ていた睡魔に、あっという間に飲み込まれてしまった。





 翌朝。スマートフォンのアラームで目覚め、瞼を上げることは出来たが、身体を起こすことが出来ない。キッチンで朝食の準備をする柊悟さんに声をかけようとするが、叶わない。


「……! ほたる、大丈夫?!」


 わたしがベッドの上でもぞもぞと動く音に気が付いた柊悟さんは、振り返るや否やこちらへと駆け寄ってきた。わたしの額に手のひらを乗せた後、すぐに体温計を取りに立ち上がる。


「おはよう。熱っぽさは?」

「おはよう……それはないけど、やっぱりなんだか動けなくて」

「……本当だね。熱はなさそう」


 検温すると、やはり微熱。この程度ならいつもは出勤するのだが、どうにも身体が動かない。無理矢理身を起こすが、頭がくらくらしてしまう。


「仕事は休みなよ?」

「そうだね……今日はちょっと無理かも」

「少し横になって、落ち着いてから電話するといいよ。朝御飯、軽めに準備しておくから」

「ありがとう……」


 食事を終え、身支度を整えた柊悟さんが家を出る頃になってようやくわたしは職場に電話をかけた。電話を取ったのは勿論課長。体調が優れないので休むと伝えると、「ゆっくり身体を休めなさい」と優しい口調で言われ、驚いてしまった。ずっと『厳しい人』という印象だったから、どうにも、まだ柔らかな態度の課長には慣れない。



「病院、行こうか?」

「ううん。熱もないし、大丈夫……ゆっくり寝てるよ」

「ごめんね……休めなくて」

「平気だよ」


 ベッドに横たわるわたしの頭をひと撫ですると、柊悟さんは「お弁当作ってるから、食べれそうなら食べてね」と言って出掛けていった。



 平気だよ、とは言ったものの全く寂しくはないと言えば嘘になる。ここの所、二人でゆっくり過ごす時間も取れていないのだ。看病という名目で傍にいて欲しいと思わなかったわけでもない。けれど、彼にだって立場がある。少し体調が悪いくらいで、「寂しい」だなんて──そんな我が儘を通すわけにはいかないのだ。


「朝ごはん……どうしよう」


 ラップの掛けられた和朝食とお弁当箱が、キッチンに準備されてるのがここからでも見える。なんとなく食欲がないのでそのまま眠り、結局お昼前に頂くことになった。食べた後は再びベッドに潜り込む。なんだか少し熱っぽい気もするが、体温計を取りに立ち上がるのすら煩わしい。とりあえず眠って、目覚めたときのわたしに検温を任せることにした。






「……何時」


 目覚めると、部屋の中は真っ暗だった。そういえばカーテンも開けず電気も消したままだったなと首を捻って時計を見ると七時を少し過ぎたところだった。どうやらまだ柊悟さんは帰宅していないようだ。



(やっぱり、熱っぽい……)



 全身の倦怠感が朝より増している。寒気は少し治まったが、頭が熱いような気もする。



(お弁当……)



 目覚めたばかりではあったが、何か口にしたいというぼんやりとした食欲が沸いてきた。キッチンカウンターの上には柊悟さんが作ってくれたお弁当が置かれたままである。それを食べたい──というよりも、せっかく作ってくれたのだから食べなければ、という使命感に駆られ、わたしは重い身体を無理矢理起こした。


「っ……ぅ…………」


 立ち上がり、ふらりふらりとよろめきながらキッチンに辿り着く。お弁当に手を伸ばそうとしたがその前に、口の中がカラカラであることに気が付いた。冷蔵庫の中の麦茶をゆっくり飲み干し改めてお弁当と対峙するが、先程までのぼんやりとした食欲は何処かへ行ってしまった。



(お弁当……せっかく、柊悟さんが作ってくれたのに……)



 自己の体調を恨めしく思う。わたしがこれを食べずにベットに潜り込こんだ姿を見たら、柊悟さんは一体どう思うだろう。


「……はぁ」


 立っているのも辛くなり、その場に座り込んでしまった。四つん這いの体勢でベッドへと向かうが、なかなか思うように前進出来ない。



(なんて情けない格好なんだろ……)



 柊悟さんに見られた時のことを考えると、顔から火が出そうになる。一旦停止し両手で顔を扇ぎ、パジャマの胸元を掴んでパタパタと風を送り込む。


 ──と、その時だった。玄関の鍵ががちゃりと音を立て、扉が開くと直ぐに柊悟さんが駆け寄ってきたのだ。


「ほたる、具合は──って、何やってるの?」

「お……おかえり……柊悟くん…………あっ……」

「ふふっ、ただいま」


 わたしが「柊悟くん」と呼んだことに対して、一瞬嬉しそうに顔を綻ばせる彼。というのもわたしは彼と交際を始めた当初から「柊悟さん」と呼んでいたのだが、敬語を無くすのに必死で、その呼び方を変えられないままここまできてしまっていた。

 身体を重ねる時だけ余裕がなくなり、本性がでてしまうからなのか──不思議と「柊悟くん」と呼んでしまう。今更ニックネームで呼んだりするのも照れくさいので、敢えてそのままの呼び方でいいかと割り切っていたのだが。


「……で、ほたる、何やってるの?」


 恐らくは彼も話をそちらに持って行きたいのだろうが、わたしの行動が不思議だったのだろう、屈み込み視線を合わせてくれた。


「お弁当、食べなきゃって思って」

「うん、食欲は?」

「……ない」

「なら、無理に食べなくていいよ」

「だって、せっかく柊悟さんが作ってくれたのに」

「柊悟さん、か」

「……! ごめん……」


 いいんだよ、と言ってわたしの頭を撫でてくれる彼の顔は、心なしか少し寂しげだった。やはりきっちりと気持ちを切り替えて「柊悟くん」と呼ばなければ、いつまで経っても彼に寂しい思いをさせてしまう。


「ほたる、熱は測った?」

「ううん。体温計、遠くて……」

「頭、熱いよ? うわっ、おでこも熱い! 待ってて、体温計取ってくる」

「ちょ……先に着替えなよ」


 わたしの訴えも届かず、体温計と取って戻ってきた彼に無理矢理パジャマのボタンを開けられ、体温を計られる。


「38.2℃」

「高いねえ……」

「解熱剤はある?」

「ないねえ……」

「夜間病院行くよ」

「大丈夫、朝で大丈夫だから」

「だーめ!」


 少しだけ厳しい口調で言った柊悟さんは、タンスからわたしの服を取り出し、着替えを手伝ってくれる。パジャマから外出着に着替えさせられた わたしは、彼の背中に背負われると病院へと向かう車に乗せられたのだった。

 


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