第八十一話 【触れ合い】
「お疲れ様。今日は少し早かったんだね」
彼に抱きつきたくて湯船から上がると、考えていることは同じだったようで、長い腕がするりと伸びてきた。わたしの水気を帯びた身体は、ぴったりと隅々まで彼と重なった。
「ほたる」
「うん? ……ん」
顔を上げた瞬間、唇が重なった。わたしの背を這う彼の腕の感触に、ぞくぞくと全身が震え上がってしまう。
──寒いわけではない。こんなにも疲れているというのに、身体は彼を求めているのだ。自分でも呆れてしまうが、こればかりはどうしようもない。
「浸かろうか」
「……そだね」
湯船に浸かると、柊悟さんはわたしに膝の上に座るよう促した。後ろ向きに座ろうと身を捩ったが「こっちを向いて」とせがまれるので、対面する形で彼の腰の上に跨がった。
「やだ……」
「なにが?」
「何このエッチな体勢……」
「嫌?」
「嫌ではないけど」
身体が火照る。湯船の中で、こんなにも密着しているのだから当然といえば当然なのだが、なんだか頭がふわふわしてしまう。
「ほたる、どうしたの?」
「ぎゅーって、してほしい……」
彼の胸に頬を寄せ、背に腕を回す。抱きつく腕に力を込めると、同じように彼もわたしを抱き締めてくれた。
しばし抱き合った後、何度も唇を寄せ、互いの存在を確かめ合った。こんなにものんびりと身を寄せ合うのは、なんだか久しぶりのような気がする。
揃って湯船から出ると、柊悟さんはわたしの身体を洗ってくれた。相変わらず程好い力加減で上手に身体を擦ってくれる。洗いつつもボディタッチが多いのはご愛敬だ。「もう!」と手のひらに触れると、二人分の小さな笑い声が重なった。
身体を洗い終え、再び湯船に浸かり身を寄せ合う。
「……朝は、ごめんなさい」
「いや。俺のほうが悪かった……ごめん」
「朝だけじゃない。昨日の夜も……その……ごめんなさい。よりにもよって柊悟さんのお兄さんとお酒を飲むなんて」
「それは兄が脅して無理矢理、なんだろう?」
「そうだけど……もっと上手く断る方法もあったかもしれないし」
脅されても、わたしが気丈な態度を取っていれば、夏牙さんはしつこくお酒を勧めてこなかったかもしれない。そう考えると自分の昨夜の失態が情けなく思えてきて、彼の膝の上で顔を伏せた。
「ほたる」
「なに?」
「顔上げて」
ゆるゆると首を横に振ると、柊悟さんの両手がわたしの頬を包み込んだ。酷く苦しげな表情で、濡れた瞳はゆらゆらと揺れていた。
「傍にいてあげられなくてごめん……怖かったよな」
「怖かった……怖かった……」
「うん」
何度か唇を重ね、彼は抱擁の後に「よしよし」と頭を撫でてくれた。そこで堪えていたものが一気に溢れ出てしまい、わたしは彼の胸に身を寄せながら声を殺して泣いた。
「今日だって……仕事終わりに夏牙さんが来て」
「……やっぱりそうか」
「やっぱりって?」
「遥臣……弟が、俺のところにやたらと仕事を持ってきて帰れなかったんだ。おかしいとは思ってたけど、そういうことか」
途切れ途切れに、今日あった出来事を柊悟さんに話した。ついでに言えば昨日──夏牙さんとどんな会話をしたのかも伝えると、彼はわたしを抱き締める腕に力を込めた。
「ごめん……俺、何も知らずにほたるのことを……責めた」
「……ううん。わたしだって──」
「本当にごめん」
「……」
項垂れて顔を伏せる柊悟さんの髪を鋤き、頬を撫でる。悪いのはわたしだって同じなのに、こんな顔をしないで欲しいのに。
「わたしだって、柊悟さんのことをほんの少しだけ疑った。もっとあなたのことを信じられていれば、こんなことにはならなかった……」
「違う。俺がほたるに信用される男でなかったのが、そもそも悪いんだ」
「そんなことない……わたしがもっと……」
わたしがもっと彼のことを信用出来ればいいだけの話。でもそれが出来ずにいるのは、先日樹李さんに話したあの事が原因であった。
──結婚を前提に交際して同棲をしているのに、なんの発展もない、わたしたちのこの関係。
──彼は本当にわたしのことを大切にしてくれている?
そんなもの、イエス、としか答えようがないだろう。大事にしてもらっている自覚は有るのに、やはりわたしは自分に対する自信の無さから、彼のことを──いや、彼との関係を、根底から信用出来ていないのだ。
(わたしが、前向きに、変わらなきゃ……)
「ほたる?」
考え込んでしまっていたせいで、絡ませるはずだった視線を湯船に落としてしまっていた。顔を上げると不安げに眉尻を下げた彼が、物言いたげにわたしを見つめていた。
「柊悟さん…………ううん、柊悟くん」
「なに?」
「わたしのこと、好き?」
「好きだよ」
「愛してる?」
「愛してる」
ざぶん、と湯船から持ち上がった彼の手が、わたしの頬を包み込む。勢いに任せて重ねた唇が熱い。彼の首に腕を回し身体の隅々まで密着させると、胸の心臓の高鳴りを感じとることが出来た。
「……ん」
「ほたる」
「だめ……」
わたしの頬を離れた手が、首を這い──胸へと下りる。唇が離れないのをいいことに、わたしも彼の存在を確かめるように、何度も身体に触れた。
「……ほたる、駄目って自分で言ってるくせに」
「だって」
「じゃあ、せーの!で、やめよう」
「わかった……せーのっ! ん……っと! よし、シャンプーしよ」
直前まで触れていた彼の身体と目を合わさないように気を付けながら、上に座っていたわたしが先に湯船の外に出る。風呂椅子に腰掛けると、洗面器にお湯を汲んだ彼がわたしの背後に立った。
「洗うよ」
「わーい!ありがとう」
「いつも思うけどさ」
「なーに?」
「ほたる、切り替え早いよね」
「そう?」
汲んだお湯で髪を濡らし、シャンプーを手に取った彼はわたしの頭皮を優しく揉み洗う。時々こうやって洗ってくれるのだが、絶妙な力加減は最早プロ級といっても過言ではない。初めて「上手」と褒めたときに「ほたるの執事になると決めて色々学ぶ過程で身に付けた」と聞いて笑ってしまったことを思い出し、小さな笑い声が漏れた。
「どうしたの?」
「ちょっと……出会った頃のこととか、色々思い出しちゃって」
「ふうん?」
「色々あったよね」
「……そうだね」
出会った初日に一緒にお風呂にも入った。裸のまま抱きついてしまったことも、人前で唇を重ねてしまったことも──色々。
「流すのは自分でするよ」
「なら、俺もシャンプーするね」
「次はわたしに洗わせてね?」
「うん、楽しみにしてる」
たくさんの言葉を交えながら、懲りることなく身体を絡ませながら入浴を済ます頃には、胸のもやもやも汗と一緒に流れ落ちてしまっていた。
しかしなんだろう。心はすっきりとしたのに、身体は酷く重く、
着替えを済ませ、化粧水を手に鏡の前に座る。背中でドライヤーの音を受け止めながら肌の手入れを済ますと、髪を乾かし終えた彼の近寄ってくる気配があった。 首筋に唇を落とし、わたしの髪を乾かしてくれた彼は、手早くドライヤーを片付けるや否や、その手をするりとわたしのパジャマの裾から滑り込ませてきた。
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