第八十話 【危機からの脱出】

「美鶴」


 思いがけない人物に割って入られ、美鶴くんは目を丸くする。彼の肩を掴んだ蟹澤くんが、唇を真っ直ぐに結んで首を横に振った。


「蟹澤先輩……」


 力無く呟く美鶴くんを見つめながら、夏牙さんが肩を揺らしてくすくすと笑い出す。その笑い声に苛立ちを隠しきれないわたしは、思わずその声の主を睨み付けてしまった。が、本人は全く気が付いていない様子で、なかなか止まらぬ笑い声を抑え込むのに必死なようだ。


「この場でそんなことを言うのは無粋だよ、君」

「あなたには関係ないでしょう?」

「そうだね。じゃ、そろそろ失礼するよ」


 そう言って彼は強引にわたしの腕を掴む。美鶴くんと蟹澤くんが止めに入ろうとした次の瞬間──。


「お止め下さい」


 音もなく現れた新たな乱入者に、その場に居合わせた者は皆目を丸くする。濃灰のスーツの背で纏めた一房の黒髪が、弾みで波打った。


「黒部、何のつもりだ」

「黒部さん!?」


 昨晩お酒を飲み交わしたばかりの彼女──黒部 アリスさんが、 わたしの手から夏牙さんの手を強引に引き剥がす。弾みで転びそうになった所を支えられ、彼女はにこりと微笑んだ。


「柊悟様にをお守りするよう言われております。夏牙様、申し訳ありません。黒部は初めて夏牙様に逆らいます」


 腰を落として構えた黒部さんは夏牙さんに対峙する。呆れたように腰に手を当てた夏牙さんだったが、何時まで経っても彼女が態度を変えないのを見て、同じように腰を落とした。


「俺に勝つつもり?」

「何を仰いますか。それはこちらの台詞です──ほたる様」

「え……はい?」


 この場で黒部さんに下の名前で呼ばれたことに驚いた上、張り詰めた空気に圧倒されて返事が一歩遅れてしまう。振り返らぬままは続ける。


「夏牙様は私がここで食い止め、連れて帰りますので、このままご自宅へお帰り下さい」

「でも……」

「大丈夫です。ご心配には及びません。そちらの男性方も、さあ早く!」

「ありがとうございます、アリスさん!」


 アリスさんの叫びに背中を押され、わたしたちは走って駐車場へ向かう。前を走る美鶴くんがわたしの手を引いてくれている。後ろを走る蟹澤くんの声に振り向くと、夏牙さんとアリスさんが拳を交えているのが見えた。まるで格闘技の試合を見ているような光景だった。


「いいのかな……これで」

「真戸乃さん?」

「だって、わたしの問題なのに皆を巻き込んで……こんなことになって」

「いいんだよ。俺達がしたくて勝手にしてることなんだから、気にすんな」

「蟹澤くん……」


 駐車場に到着したが、夏牙さんが追ってくる様子は今のところ無い。二人に背を押され、わたしは自分の車へ乗り込んだ。


「運転、大丈夫ですか?」

「うん。焦らないで運転するから」

「念の為、後ろを着いて行きますよ? 僕、方向も同じですし」

「ありがとう。でも大丈夫だから」


 流石にそこまでお願いする訳にもいかない。というよりも、なんだか美鶴くんの目が恐ろしいのだ。いつも優しげな目元は先程の騒動のせいなのだろう、殺気立ちぎらぎらと鈍い光を宿している。まるで獲物を捕らえようとする肉食獣のような、そんな瞳。狩るはずの夏牙さんはアリスさんが食い止めてくれているのだから、もうそんな顔をしなくてもいいのに何故──。


「美鶴、お前はさっきの男が真戸乃さんを追ってこないか、近くで見張ってろ」

「……蟹澤先輩?」

「何か動きがあったらすぐ真戸乃さんに電話しろ。家まで送るより、そっちのほうが何かあったとき直ぐ対処できるだろうが」

「でも、」

「でも、じゃねえ。お前がパニクってどうすんだ。こえぇよ、真戸乃さん任せるの」


 蟹澤くんが言っていることは正しいのだろうか。美鶴くんはこの状況に混乱している?だからこんな見たこともない目の色をしているのだろうか。


「早く真戸乃さんを帰さないと。モタモタしてたらさっきの男が来るかもしれんだろうが」

「……わかりました」


 蟹澤くんに言い負けた美鶴くんは、なんだか不満げな顔で来た道を戻って行く。蟹澤くんに背を押されたわたしは急いで車に乗り込み、自宅へと向かった。





 結果から言ってしまうと、夏牙さんがわたしを追ってくることはなかった。自宅の駐車場へ到着した直後、美鶴くんから「男性の方が女性に無理矢理手を引かれて帰っていった」との電話があったのだ。お礼を告げた後、蟹澤くんにも無事帰宅できたとメッセージを送った。今は忙しいだろうし、後でアリスさんにもお礼を言わなければならない。



(電話だと迷惑かな……忙しいもんね、アリスさん)



 互いに下の名前で呼び合う関係になれたことに、なんだか胸が弾む。「様」は仰々しいから止めて欲しいと伝えなければならない。


「……っ…………」


 安心をしたせいか、膝に力が入らない。手摺に掴まりながら外階段を上りきり、何とか無事に帰宅。


「疲れた……動きたくない」


 仕事着を脱ぎ捨て、殆ど下着のような格好でベッドに仰向けに転がる。少しだけ仮眠を取って、早く夕食を作らないと。

 とはっても今日も柊悟さんの帰りは遅いはず。わたし自身は食欲がほとんどないので、短い仮眠の後に彼の分だけ夕食を作り、お風呂のお湯を溜め始める。



(お風呂上がったら、先に寝ちゃおうかなぁ……)



 なんだか身体もだるくて重く、思うように動かない。食欲もないとあっては早めに就寝するのが身のためだとは思うけれど、彼と一緒に過ごす時間を少しでも作りたいと思っているのも事実。実際、一緒に住んでいるというのに、日曜日からまともに会話も出来ていない。それに──。



(……時間を気にせず思いっきり抱き締めたい)



 湯船に浸かりかなら天井を仰ぐと、直後にお風呂場のドアがノックされた。驚き肩が跳ねたが、直ぐに待ち焦がれていた彼の声がわたしの名を呼んだ。


「ただいま、ほたる」

「……! おかえりなさい」

「俺も入ってもいいかな」

「うん」


 食事も済まさずにお風呂に入るだなんて、お腹は空いていないのだろうかとも思ったが、そうこうしているうちに衣服を脱いだ柊悟さんがお風呂場に踏み入ってきた。

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