第七十九話 【招かざる客】
寝坊をしたので遅れた、だなんてありきたりな言い訳はしなかった。この会社に勤めて今まで、わたしはただの一度も寝坊で遅刻などしたことがない。そんなバレバレな言い訳をしてしまえば、課長に問いただされることは目に見えていた。だから──。
「通院? 出勤して大丈夫なのかね?」
「はい」
「具合が悪いのなら無理をしなくても良い」
「ありがとうございます、大丈夫です」
下げた頭を上げると、課長は心配したままの表情。顔色が悪いと言われたが、そんなことはないはず。
(そっか、そういえば瑞河さん有休使うって言ってたな……)
デスクに戻るも隣の席に彼女の姿はない。向かいの席の美鶴くんが、不安げな面持ちでわたしを見つめていた。
「どうしたの?」
「真戸乃先輩、大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫」
美鶴くんから受け取った書類の束を手に、愛想笑いを浮かべながらコピー機の前に移動する。手にした紙束を隣のシュレッダーに投入し、残り僅かとなったところで美鶴くんが大きな声を上げた。
「ああ!」
「えっ」
「先輩それ午後の会議で使う資料!」
「ええ!?」
一体何十枚の資料を裁断してしまったのだろう。手元に残るのはたったの五枚程度で、それすらも指先から滑り落ち床と事務棚の間に吸い込まれていく。
美鶴くんが大きな声で叫ぶものだから、オフィス中の視線は彼とわたしに釘付け。「申し訳ありません」と頭を下げた所に、美鶴くんが駆け寄ってきた。
「また刷りましょう」
「……ごめんなさい」
「うっかりミスなんて誰にでもありますって」
言いながらパソコン上にデータを開き、手早く印刷をしてゆく美鶴くん。フォローをしてくれているのはわかっているが、自ら行動できなかった自分に歯痒さを感じてしまった。
「……はぁ」
朝のしょうもないミスのせいで、モチベーションは低迷中だ。あんなくだらないミスをするなんて、恥ずかしいったらない。
(ぼーっとしてたのが悪かったんだけど……)
あの後、課長に「本当は体調が悪いのではないか」と小声で呼び出された。大丈夫だと言い張り仕事を続け、ようやくお昼休み。オフィスへ戻るにはまだ少し早いので、廊下の窓からぼんやりと外を眺めた。
(頑張らないと……)
昨日は色々とあったけれど、済んだこと。今は仕事中なんだし、余計なことを考えないようにしなければならない。お昼休み前に柊悟さんから、昨日のお弁当について謝罪のメッセージが届いていたが、素っ気ない返信をしてしまった。仕事に集中したかったからという理由だったので、帰ったら謝らなければならない。
しかし、この日柊悟さんの帰りは遅く、なんとなく体調の悪いわたしは彼の帰りを待つことも出来ず先に眠りに落ちてしまった。
翌朝になって謝るわたしを彼は思いきり抱き締めてくれたけれど、出勤前のこの時間に、お互いのんびりと過ごしている時間はない。大した会話も出来ぬまま、彼よりも先に家を出て職場へと向かった。
「真戸乃先輩、大丈夫ですか?」
向かいのデスクからひょっこりと顔を覗かせた美鶴くんが、わたしを気遣い声を掛けてくれた。事情を知らない瑞河さんは、今は席を離れている。
「昨日はごめんね」
「いいんです、気にしないで下さい。あ……先輩ひょっとして疲れてるんじゃないですか?」
「ううん、大丈夫」
まさか後輩に「彼と喧嘩してからなんとなく気不味い」などと話せるはずもない。瑞河さんがこの場にいたら、見透かされてしまっていたに違いない。彼女の恐ろしい程の観察眼は未だに健在なのだ。
課長も昨日様子のおかしかったわたしを気にしているのか──時折視線を感じ顔を上げると目が合うという、気不味い出来事が何度かあった。流石に午後になるとその回数は減ったが、やはり退勤時には声をかけられてしまった。
「無理をしなくていい」
「何のことでしょうか?」
「体調が悪いのではないのかね?」
「いいえ。休む程のことでは……ありませんので」
確かに昨夜は少し身体がおかしな感じもしたが、仕事に支障は出ないだろうと判断し出勤したのだ。
「そんなにわたし、顔色が悪いですか?」
「いつもに比べるとな。まあ……前にも言ったが、本当にキツいと感じたら遠慮なく休みたまえ」
「お気遣い、ありがとうございます」
頭を下げてオフィスを後にすると、ビルから少し離れた場所に見覚えのある派手な車が停車していた。車の持ち主はボンネットに腰を預け、腕を組みながらわたしに向けて痛すぎる視線を向ける。
「お疲れ様」
「……こんばんは。何の用ですか?」
「冷たいなあ」
仕事帰りなのか、はたまた仕事途中なのか。スーツ姿の夏牙さんが微笑みながらわたしを見下ろす。
「この後暇かな?」
「帰って夕食を作らないといけないので」
「それなら一緒に食事に行こう」
「柊悟さんも食べますので」
少しずつ距離を取っているつもりだが、夏牙さんはそんなことなどお構いなしに、どんどん身を寄せてくる。
「柊悟も帰りは遅いんじゃないかな?」
「それでも、いらないと連絡がない限りは作るので」
「今日も雪菜と食事に行くかも。なんだかんだでうちの仕事を手伝ってくれるんだよ、雪菜」
「えっ……」
昨日あんなことがあったばかりだというのに。柊悟さんはまたあの女性と食事に行く──?
「まさか、そんなことが──って思った?」
「なにを」
「雪菜は柊悟に気があるんだよ。子供の頃からずっと、『大人になったら結婚する!』って言ってて」
「でも、柊悟さんは……」
「昨夜の出来事、柊悟が嘘を吐いているとか考えなかったの?」
「それは……」
この人は本当に痛いところばかり突いてくる。柊悟さんを信用していない訳ではない。ただ、昨夜は色々とあって心が不安定なだけだったのに。
「いつまで立ち話をするつもり? 行こうよ」
「だから、行きませんって」
肩を抱かれ強引に抱き寄せられる。足が
「俺に逆らったらどうなるか忘れたの?」
「それは……」
「大丈夫だって、変な所に連れ込んだりしないから」
助手席のドアが開き、乗るように促される。誰か──と振り向いたその時、聞き慣れた柔らかな声がわたしの名を呼んだ。
「真戸乃先輩!」
オフィスビルから出てきた美鶴くんが、脇目も振らず駆け寄ってくる。並んで歩いていた蟹澤くんが驚きつつもそれに続いた。
「先輩、この方……」
「彼のお兄さん……」
「え?」
最もらしい反応だ。どうして彼氏のお兄さんが無理矢理にわたしを車に乗せようとしているのか──美鶴くんは瞬時に理解したようだ。
「先輩」
美鶴くんが夏牙さんの腕の中のわたしの腕を強く引く。解放されたわたしは彼の背の後ろに匿われる形になった。
「ひょっとして彼氏さんとは別れたんですか? こんな乱暴な人より僕のほうが絶対まともですって」
「……へえ。君は?」
「同じ部署の後輩です。それより……この人どう見ても危ないですよ、蟹澤先輩も来ますし帰りましょう?」
わたしが振り向くと、駆け寄ってきた蟹澤くんが事態を飲み込めないのだろう、眉をひそめている。美鶴くんが蟹澤くんのいる後方へわたしの肩を押すので、何かを察した蟹澤くんはわたしの腕を引き自分の背の後ろに匿った。
「ほたるさん、彼氏持ちのくせしてモテるんだね。職場に二人も守ってくれる男がいるだなんて」
夏牙さんの物言いに、少し苛立ちを覚える。同じ部署で、毎日のように顔を会わせて、時々みんなで楽しく飲みに行く。そんな関係を何年も続けて築いてきた関係だからこそ、こうやって助けてくれているだけだというのに。そんな勘違いをされては二人に迷惑だ。
「止めてください。そんなのじゃありませんし、二人に謝ってくださ──」
「……僕は」
「美鶴くん?」
わたしの言葉を遮り、振り返った美鶴くんの強い眼差しに一瞬気圧されてしまう。彼のこんな表情、今まで一度も見たことがなかった。
「僕は迷惑だなんて……そんなことありません。もっと先輩の傍で力になりたい。僕は……」
(待って)
「真戸乃先輩、僕は──」
似たような状況が過去にもあったような気がする。あれは丁度一年くらい前。最近はめっきり大人しくなった同期の核村が、わたしに────。
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