第七十八話 【女心と、それから】
平日は余程のことがない限り行っているピアノ演奏は、お客様に断りを入れて今日は休ませてもらうことにした。流石にフロアでの接客を花邑さん一人に任せて、俺がピアノを弾くわけにはいかない。状況を見て皆様理解して下さったので、俺はフロアでの配膳や接客に集中することができた。
お昼のピークをなんとか乗り越え、一段落した頃。粗方食器を洗浄し終え、溜まったごみをまとめて裏口へと持って出ると、煙草を咥えた山岡さんに遭遇した。
「お疲れ様です」
「おー、お疲れさん」
山岡さんは俺より二回りも年上なのに、仕事中には俺を立てて敬語で話し、おまけに他の従業員達と同様「マスター」と呼んでくれる。そこまでしてもらわなくても構わないと何度も言ったのだが、「責任者の顔は立てるのが自分の信条だから」とのことだった。
その代わりといってはなんだが、二人きりの時に表に出してくれる、この砕けた雰囲気が俺は好きだった。彼はここができる以前は式場のレストランで働いていたので良く知っていたし、もっと言えば、俺が子供の頃から式場の調理師だった彼とは、顔見知り期間を含めれば二十年近い付き合いになるのだ。
「ごみを捨てに行くと言ったら、月山さんに止められまして」
「ハハッ! だろうな」
「俺だってごみ捨てくらい出来るんですよ?」
「そういう意味じゃないよ、立石君」
「どういう意味です?」
「君にごみ捨てなどさせられないってことさ」
煙草を揉み消し携帯灰皿にそれをしまった山岡さんは、目元を綻ばせながら膝を曲げ、少年のように地べたにしゃがみこんだ。
「あの子達にとって君は特別ってことさ」
「特別って……同じ従業員じゃないですか」
「そうじゃなくて」
意味がわからず眉をひそめると、山岡さんは先程よりも更に笑みを深めて俺を見上げた。
「ここの女の子達は皆、君に恋してる。気が付いていなかったのかい?」
「……なにを」
「ハハッ! 君ならそう言うと思ったよ。思い出してもみなよ、今までの彼女達の言動を。さっきだってほら……」
俺の誕生日や血液型を知って、奇声を上げた二人……それに俺に婚約者がいると知って、ショックで熱を出してしまったという従業員。昼食に賄いを頼んだ時にはいつも争いが起きると聞いてきたが────つまりは、そういうことなのか。
「……」
「理解出来た?」
「……意味はわかりましたが、理解が出来ません。俺みたいな男の何処が……」
「そんなことを言うのは、ほたるさんに失礼なんじゃないかな?」
「……ほたる」
そういえばほたるから返信は来ただろうか。話の途中だが気になってしまい、スマートフォンを覗き見た。
『大丈夫だよ』
と、一言だけ。たった一言それだけのメッセージが、アプリの通知欄に届いていた。
「……大丈夫って、何がだよ」
「どうかした?」
「……ハァ」
つい漏れた溜め息と同時に、山岡さんの隣にしゃがみこんでしまう。職場にプライベートを持ち込んで落ち込むなんて、情けないったらない。
「何かあったの?」
「……実は彼女と色々あって」
「昨日彼女さんが副支配人と食事をしていたことで揉めた?」
「その食事の最中に、俺が女性……とはいっても従妹なんですけど……と食事をしていたのを見てしまったようで、それで」
「喧嘩したの?」
「まあ、そんなとこです」
果たしてあれは喧嘩だったのだろうか。どちらが悪かったのか、客観的に見れば俺で間違いないだろう。しかし──。
「ちゃんと、彼女さんの立場になったのかい?」
「ほたるの、立場……?」
「彼女さんは君に謝って欲しかっただけなのか、どうかってことさ」
「……謝罪以外に何か求めてたってことですか?」
「それは俺に聞かれてもわからないよ」
ほたるは俺が謝ったことに対して──間違いなく怒っていた。俺が最後に抱き寄せてキスをしようとした時、腕を振りほどいて風呂場に逃げたのだ。ほたると一緒に生活をしていて始めてのことだったので、情けない話……あの時の俺は酷く動揺してしまった。
「まあ考えた所で、女心なんて男には理解できないさ。幸いこの職場には年頃の女の子が沢山いるじゃないか。相談してみたら?」
「それもなかなか難しいですよ」
「君は……変に部下と距離を取り過ぎているからねぇ……。それに今の状況じゃあ、難しいだろうね」
先程のごたごたは記憶に新しい。彼女達の俺へ向ける視線や気持ちを知った以上、恋人のことを相談するなんて無理に決まっている。流石に俺もそこまで無神経ではない。
「まあしかし……立石君に婚約者がいると知って、皆のモチベーションが下がることは必須だろうねえ」
「そういうものですか?」
「そりゃあそうさ。何人の女の子が失恋したと思ってるんだい」
声を上げて笑いながら山岡さんは言うが、笑い事で済ませていいものなのだろうか。だからといって彼女達の気持ちに応えることなど、俺には出来はしない。
「忙しいのが落ち着いたら、たまには慰労会でも開いたらどうだい? 彼女達も君を独占出来れば、少しは気が晴れると思うんだが」
「慰労会ですか……」
「嫌かい?」
「いえ。しかし……それで皆は喜ぶでしょうか?」
「戻ったら月山にでも話してみな? 絶対喜ぶから」
「わかりました。色々と相談に乗って頂いてありがとうございます」
気にするな、と口にすることはないが、山岡さんは手をひらひらと振って挨拶を返す。頭を下げると俺は厨房へと足を向ける。
「まさかあの柊悟君の婚約者に会う日が来るなんてなあ……」
「何か仰いました?」
「いや」
「……? では、お先に」
何か言われたような気がしたが、あまり長居をするわけにもいかず俺はその場を後にした。
「あっ、マスター! 何かあったんですか?」
厨房へ足を進める途中の廊下で、月山さんに遭遇した。なんでもごみを捨てに行った俺がなかなか帰ってこないのを心配して、様子を見に来てくれたらしい。
「すみません、遅くなってしまって……山岡さんと少しお話をしてまして」
「そうだったんですか」
「ところで……あの、月山さん」
隣を歩く彼女は、口角を上げながら俺を見上げている。何故そんなに嬉しげな顔をしているのかと思ったが、先程の山岡さんの言葉を思い出し一人納得した。
(恋か…………信じられないが、事実なのか……)
「マスター?」
「あ……すみません。先程山岡さんと話していたのですが、繁忙期が一段落したら……皆で慰労会でも開きませんか?」
「え!?」
「嫌でしたかね。それなら──」
「そんな嫌だなんて! 初めてですね、そういうの。嬉しい……!」
思い返してみれば忘年会だの新年会だの、ここがオープンして今まで行ったことがなかった。俺も自身の仕事が忙しかったし、誰も何も言ってこなかったからというのもあるが、ひょっとして皆遠慮していたのだろうか。
「繁忙期が一段落したらしたらだなんて! そんなこと言わずにすぐにしましょう! 今週末とか!」
「今週末? でも皆さん熱が……」
「この話を聞いたら、皆一気に熱下がりますって! マスター、ご予定は?」
「金曜か土曜の夜でしたら、私は構いませんが……」
週末は出来ればほたるとゆっくり過ごしたいが、こういう事情とあっては身勝手なことは言っていられない。平日だと翌日の仕事に支障が出る可能性もあるし、皆もそのほうがゆっくり休めるだろう。
「わかりました! お店抑えないと……あっ、ここでしましょうか、それとも……あっちのレストランでもいいですよね、うーん……あっ、決まったら報告しますね!」
「任せていいのですか?」
「お任せ下さい! 花邑ーっ! 花邑ーっ!」
「月山さん、廊下では静かに」
「すいませんっ!」
言いながら走り去って行く月山さんの足取りは軽い、というか速い。走らぬようにと注意しようとするも、彼女の姿はあっという間に見えなくなってしまった。
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