第七十四話 【立石家の三男坊】

 食事を終えた柊悟さんが露出した女性の肩を抱き、肩を揺らして笑いながら去って行く。わたしのことなど見向きもせずに、どんどん遠くへ──遠くへ──。

 


「…………いやっ!」


 誰かに肩を揺すられている。驚いて飛び起きたわたしは、見知らぬ部屋のベッドに横たわっていた。体を起こすと頭が痛む。



(ええっと……確か……わたしは……)



「やッ……!」


 何も身に付けていない、自分の身体を見下ろして驚く。昨日着ていた衣類は近くには見当たらないが、下着はベッドの上に散らばっている。


「おはようございます、真戸乃様」

「お……おはようございます」


 目の前のスーツ姿の女性──黒部 アリスさんが、食い入るようにわたしの胸を見つめていた。その視線には少しの遠慮も含まれていない。手元のブランケットでサッと胸元を隠すと、彼女は残念そうに眉をひそめた。


「ええと……」



(たしかわたしは……夏牙さんにこのホテルに連れて来られて……それで……)



 着衣を進めながら、少しずつ記憶を辿る。気分が悪くなり──トイレへと逃げ込み、立石家に仕えている黒部さんという女性に助けられたのだ。その後二人でお酒を飲んで、それで──。



(その結果、脱いじゃったのかわたし……)



 まさかわたしは黒部さんの前で脱衣をしてしまったのだろうか?いや、そうでいないだろうと思いたい……。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 ハンガーラックに掛けられていた衣類を、黒部さんが手渡してくれた。背を向けて着衣を済ませると、改めて彼女に頭を下げた。


「昨夜はすみませんでした。色々とご迷惑をかけてしまって」

「迷惑だなんてとんでもない。一緒にお酒を飲めて楽しかったですよ、私は」


 黒部さんはにこりと微笑むと、ゆるりと立ち上がった。腕時計で時刻を確認すると促すようにわたしに手を差し伸べる。


「ご自宅までお送りします」

「すみません本当に……色々と……」

「いえ。夏牙様が無理矢理ここに連れてきたことが、まず間違いなのです」


 黒部さんの声を背中で聞きながら、部屋に備え付けられた鏡を見て愕然とする。昨夜わたしはお風呂に入っていないので、メイクをしたまま眠ってしまったわけで。


「最悪……」


 家に着いたら速攻でメイクを落としてシャワーを浴びて、再びメイクをしなければならない。



(憂鬱だな……)



 こんなことならいっそのこと仕事を休んでしまいたい。しかし、そんなことで有休を使うのも憚られる。


「はぁ……」

「大丈夫ですか?」

「……ええ」


 左手で眉間を揉むと、薬指のルビーとダイヤがきらりと輝いた。柊悟さんが贈ってくれた指輪──。



(……柊悟さん)



 昨夜の女性は一体誰だったのだろう。黒部さんとお酒を飲んでいるときには考えないようにしていたが、やはり辛い。深く考えたくはないが、思い出さずにはいられない。それだけショッキングな光景だったのだ。


「真戸乃様、柊悟様にご連絡は?」

「あっ……」


 取り出したスマートフォンを見つめ、しばし悩む。連絡が出来なかったことを謝って、今から帰ると連絡するべきなんだろうけれど。



(でも……)



 きっと声を聞けば、あの女性は誰だったのかと問わずにはいられなくなってしまう。電話越しにそれを聞くほうが、顔を見られなくて済むから気持ち的にも楽だろうか?迷ったあげくわたしは、謝罪の言葉と、今から帰るという短い文章のメッセージを送った。


「車を回してきますので、こちらでお待ちください」


 黒部さんが案内してくれたのは、ホテルのラウンジだった。窓際の見るからにふかふかそうなソファに腰を下ろそうとしたところで、後ろから「黒部」と声を掛けられた。声を掛けられたのは黒部さんなのだが、反射的に一緒にいるわたしも振り返ってしまう。


「おはようございます」

「おはよ~」


 背の高い、スーツ姿の男性だった。縁なしの洒落た丸眼鏡に、緩くパーマのかけられた暗い茶髪。目は大きい上にくりくりと丸く、可愛らしい顔立ちだった。見たところわたしより少し年下だろうか──その人物は頭の先から足の先までわたしを見つめると、顎に手をあて「へぇ」と何かに納得したような声を漏らした。


「君が、真戸乃 ほたるさん?」

「え……はい。初めまし──」

夏兄なつにいは昨日手をつけなかったんだ?」

遥臣はるおみ様っ!」


 わたしの言葉を遮り、訳のわからないこと──いや、理解は出来るのだが──を言いながら、距離を詰めてくる。が、わたしと男性の間に黒部さんが壁のように立ち塞がった。


「黒部?」

「はい」

「何のつもり?」

「遥臣様、まずは自己紹介をされては?」


 わたしが黒部さんの後で縮こまっていると、ひらりと彼女を横に躱した彼は、わたしの正面に身を捩じ込んだ。


「初めまして。立石 遥臣……柊悟の弟です」

「真戸乃 ほたるといいます」


 ぺこりと頭を下げながら考える。この人が柊悟さんの弟──ホテルの経理をしていると聞いていたから、出勤してきたタイミングだったのだろうか?


「──っ!?」


 下げていた頭を上げようとした刹那、後頭部付近を撫でられた。骨ばった大きな手──どう考えても黒部さんではなく遥臣さんの手だろう。


「遥臣様!」

「ごめんごめん」

「だから私が壁になったというのに……」

「何か言った?」

「いいえ」


 何度か頭を撫で満足したのか、遥臣さんはその手を滑らせ首筋から肩にかけて触れた。そこでようやく顔を上げると、覗き込むようにじいっと見つめられてしまい、思わず胸が跳ねた。


「いいね……」

「な……何がですか?」

「やはり、とんでもなく好みだ」


 昨夜シャワーを浴びていないから、ひょっとして髪がベタついてた──? そんなことを考えていたのだが、今彼は何と言ったのだろうか。


「ええっと……」

「君が欲しい」

「欲しい、というのは……」

「柊悟と別れて、俺に乗り換えない? 俺だったらもっと激しく、君を愛してるあげるのに」

「なっ……」


 頬が熱を孕む。彼の言わんとすることが何と無く理解出来てしまった自分が恥ずかしい。そんなわたしの心の内を見透かすかのように、遥臣さんは更に畳み掛ける。


「話の流れでわかるだろう? 随分と可愛いんだってね」

「……」

「ふぅん。ほたるさん、見かけによらずそういうとこあるんだ」

「いい加減にして下さい遥臣様!」


 語気を強めた黒部さんが、わたしの腕を掴み後退する。遥臣さんは綺麗な口許をにやにやと歪ませながら、腕を掴み笑った。


柊兄しゅうにいが惚れるのもわかる。奪ってしまいたくなる」

「遥臣様、失礼致します。真戸乃様はこれからお仕事です。急ぎ帰らねばなりませんので」

「……そ」


 名残惜しそうに何度もわたしの肩を撫でる遥臣さん。その手が鎖骨に伸びるので、反射的に手を掴んでしまった。


「すみません……」

「いいね、やっぱり欲しい」

「遥臣様、いい加減に……」

「黒部、俺はほたるさんと話してるんだよ? 邪魔しないでくれる?」


 黒部さんは女性にしては背が高い方だが、遥臣さんには敵わない。上から見下ろされるような形で睨み付けられた彼女は、「失礼します」と言って頭を下げると、食い下がるどころかわたしの手を掴みずんずんと歩き出したのだ。


「黒部!」

「時間がありませんので、失礼致します!」


 ラウンジに響き渡る大きな声で二人が会話を交わすので、周囲にいる従業員達が何事かと振り返る。その間をすり抜けてわたしたちは駐車場へと向かった。


「申し訳ありません」

「何がです?」

「車を回してくると言いながら歩かせてしまい……それに遥臣様のことも」


 車に乗り込み、エンジンをかけながら申し訳無さそうに黒部さんが頭を下げる。


「車のことは気にしないで下さい。遥臣さんには少し驚いちゃいましたけど……」

「夏牙様といい、遥臣様といい……真戸乃様にセクハラをし過ぎなんです。いくら魅力的な女性だからといっても、していいことと悪いことがあります。お二人とも、柊悟様が羨ましいだけなんですよ」


 わたしが魅力的かどうかはさておき、夏牙さんも遥臣さんも、兄弟の恋人をからかってみたかっただけなのかもしれない。二人揃って、本気であんなことを言うわけがないのだから、きっと全て冗談なのだろう──。


 わたしがそう言うと、黒部さんは驚き首を横に振った。


「本気かどうかはわかりかねますが……冗談ではないと思います。私も長年この家に仕えておりますが、そのくらいの見極めは出来ているつもりですので」

「……そうなんですか」


 そんなことを言われて、こちらとしてもどうしたらいいのかわからない。社交辞令のようなものだったのかもしれない。それならば本気でもないし、冗談でもないのだから。


「あっ……」

「どうしました?」

「柊悟さんから返信が………………えっ……」

「どうしました?」


 見たくなかった文面が、目に焼き付いて離れない。車を走らせる黒部さんがわたしの名を何度か呼び、我に帰る。


「柊悟様は何と?」

「『俺も今帰ったから、シャワー浴びたら出勤するよ』って……」

「……今帰った、ですって?」

「『お弁当はごめん、おやすみするね』って……そんな、そんなことより……今帰ってきたって何……? 昨日の女性と朝まで一緒にいたってこと……うそ、うそ、うそ……」

「真戸乃様? 真戸乃様?」


 嫌──。考えたくもない妄想で頭の中がパンク寸前だ。パニック状態に陥り目からは涙が零れた。止まることを知らない涙に次いで、嗚咽混じりの声が漏れる。


「大丈夫ですか?!」

「いや……いや……やだ、なんで……信じてたのに、なんで……」

「しっかりしてください!」


 車を停車し、後部座席に乗り込んできた黒部さんが、わたしの身体を抱き締めた。取り出したハンカチで涙を拭いてくれているが、いつまで経ってもそれは止まらなかった。


「一緒にいたとは限りません。決めつけるのはよくありません」

「で……も……」

「偶然入った仕事関係の会食だったのかもしれません。決めつけはよくありません」

「そっか……そう……ですよね」


 自分に自信がない故に「柊悟さんがわたしから離れていってしまうのでは」という考えばかりが先走る。黒部さんが言う通り、仕事関係の人だった可能性も高い。遅くなってしまい、泊まって帰った可能性もあるわけだし。



(でも……柊悟さんに限って、その日の内に帰宅しないなんてことが、立て続けにあるのかな……)



 先日、実家で酒を飲まされ帰れなかった時の彼の落ち込み具合は記憶に新しい。わたしに心配をかけるとわかっていながら、同じようなことをこの短期間で繰り返すだろうか。


「とりあえず、帰宅して柊悟様に話を聞くまでは何もわかりません。悪い方向に考えないで下さい」

「はい……ありがとう……ございます」


 わたしを再び抱き締めてくれた黒部さんはしっかりと頷くと、ドアを開けて運転席に戻った。


 車は先程よりもスピードを上げて走り出す。帰宅後、まさかあんなことになるなんて──この時のわたしはそれを知る由もない。



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