第七十五話 【すれ違う二人】
どう考えても帰宅後シャワーを浴びてメイクを直してからだと、出勤時間に間に合わない。こんなことで仕事を休むわけにもいかず、仕方無しにわたしは黒部さんの運転する車内で職場に「少し遅れる」という旨の電話を掛けた。
「申し訳ありません。私がもう少し早く起こしていれば……」
「そんな、黒部さんが悪いわけではありせん。自分で起きれなかったわたしが悪いんですから」
自宅アパートに到着し、二人揃って外階段を上る。黒部さんは「お二人が揉めないか心配なので」と言って事が解決するまで付き添ってくれるという。一応お断りをしたのだが、どうしても心配だからということで一緒に部屋へと向かっている。
「ただいま……」
鍵を開け室内に入ると、ドライヤーの音が耳に届く。どうやら柊悟さんはシャワーを浴びた後のようだ。
「……ほたる?」
「ただいま、柊悟さん」
「ほたる! よかった……心配したんだよ」
下着姿の彼は、ドライヤーを投げ出しわたしに抱きつく。後で佇む黒部さんを振り返ると、顔を赤らめて俯いてしまった。
「ありがとう、黒部。ほたるを送ってくれて」
「いえ……私は、その……真戸乃様が心配で……仕事をしたまでですので」
「心配?」
黒部さんの言わんとする意味を、柊悟さんは理解出来ていないようだ。帰宅したにも関わらず何か心配することがあるのだろうかと、首を傾げている。
「こんな時間になっちゃってごめんなさい。柊悟さんも……帰り、朝だったんだね」
「うん。ちょっとトラブルがあって」
「トラブル?」
「……ああ」
わたしのことを抱き締める腕に力が入る。彼は口を濁してそれ以上言葉を発さず、しばし沈黙が流れる。
「俺のことより……あんな兄貴で本当にごめん。ほたる、兄さんに何もされなかった?」
「…………俺のことより?」
「ほたる?」
腕を緩めた柊悟さんは、わたしの肩に両手を添えて瞳の奥をじいっと覗く。黒い瞳がゆらゆらと不安げに揺れている。
「何も……何もされてないよ。お酒を勧められて、断るわけにもいかないし……それでお酒を飲んで」
「……飲んだの?」
「ごめんなさい……」
「外ではあまり飲まないでって約束してたよね? それなのに……兄と飲むだなんて」
「あの、柊悟様」
すかさず黒部さんが会話に割って入る。仕方無しにわたしが飲酒をしたことに対して、フォローを入れてくれようとしたのだと思う。けれど──。
「……どうしてそんな言い方をするの?」
「ほたる?」
「わたしだって、好きで飲んだ訳じゃない! 『飲まないとどうなるかわかってる?』って言われて、仕方なく飲んだだけなのに! これ以上は無理だって断ったのに……勧められて……それなのに柊悟さんは楽しそうに食事をして、わたしに気が付いてくれなかった!」
「……見てたのか」
柊悟さんの顔から血の気が引いて行く。やはり見られると都合の悪い相手だったのだ。
「ねえ、誰だったの? あの綺麗な女の人……まさか朝まで一緒にいた訳じゃないよね? やましいことがあったから『トラブルがあった』なんて濁したわけじゃないよね?」
「まさか」
「本当に? 本当だよね?」
「具合が悪いから一人にしないでくれと言われて……眠るまで傍にはいたけど、別の部屋に泊まったよ。当然じゃないか」
「……何よそれ」
相手の男に好意を持った女が、男を引き留めておく為の常套句じゃないか。そんなものに引っ掛かるなんて。いくら優しいとはいえ、そんな手に引っ掛かる彼にどうしようもなく怒りの感情が沸いた。目頭が熱を帯び、涙が溢れ、止まらない。
「雪菜は……」
「雪菜?」
随分と親しげな呼び方に、苛立ちが増してゆく。伏し目がちにわたしの涙を止めてくれる柊悟さんの表情は、はっきりと見てとることが出来ない。黒部さんが後ろから声を掛けてくれているが、全く耳に届かない。
「雪菜は
「……従妹? 本当に?」
「嘘を吐く理由なんて、あるわけないだろ」
黒部さんを振り返ると、大きく一度だけ頷いた。本当に立石の血筋の人間であるのなら、彼女が把握していないはずがないのだから。
「俺の言葉が信じられないのに、黒部のことは信じられるの?」
「えっ……」
「柊悟様、そのような言い方はよくありません」
わたしと柊悟さんの間に割って入った黒部さんは、申し訳なさそうに頭を下げる。わたしを守るように壁になると、ゆっくりと口を開く。
「柊悟様。真戸乃様は夏牙様に無理矢理酒を飲まされ、セクハラ紛いの言葉を浴びせられ相当不安だったのだと思います。彼女の帰りがこんな時間になってしまったのも私のせいです。夏牙様から解放された後は私と二人で飲酒をし、ホテルに宿泊されたのです。その後遥臣様に遭遇して、あんなことに……」
驚いたわたしは、彼女を見つめ目を丸くする。一緒にお酒を飲もうと誘ったのも、ホテルに泊まると決めたのもわたしの意思だというのに、これでは全て黒部さんが悪いようではないか。
「本当に二人で?」
「はい。夏牙様は夜の間に帰宅されております。確認して頂ければわかるかと」
「……それならどうして兄さんはほたるの素肌──背中を見た、だなんて言ったんだ」
「ご存じでしたか」
「……ああ」
「そうでしたか……。それは──朝、電話に出なかった私の様子を気にかけ、夏牙様がホテルの部屋までいらっしゃったからです。その時偶然ベッドで眠る真戸乃様の背中が見えてしまったのです」
そうか、と頷いた彼は、わたしを見て小さく溜め息を吐いた。呆れているような──違うのかもしれないけれど、今のわたしにはそんな風に見えてしまった。
「お二人とも、納得して頂けましたか?」
「ああ……すまなかったな黒部」
「はい……ありがとうございます、黒部さん」
「では、私もそろそろ失礼します」
未だ険悪な部屋の雰囲気に息が詰まりそうだ。というよりも、夏牙さんはわたしの裸の背中を見たのか──。彼がどのように柊悟さんに伝えたのかわからないが、そこだけ切り取って聞くと、彼が怒るのも無理はないなと思えてしまう。
「ごめんなさい……こんな……駄目な女で、ごめんなさい……」
言葉を紡ぐと止まっていたはずの涙が再び零れ出す。本当は「辛かったね」と言って抱き締めてくれるだけでいいのに、どうして伝わらないんだろう。あんなにも不安で仕方がなかったのに、今は──なんだろう、違う感情がわたしの中に渦巻いていた。
きっとこれは怒り。それも理不尽で自分勝手な感情。
わたしが柊悟さんに助けて欲しかったその時、いくら従妹とはいえ楽しげに食事をしていた彼に対して、やり場のない怒りをぶつけてしまいたいのだ。二人きりで部屋で過ごして──何もなかったとは言っているけれど、本当に何もなかったのか。
(……いけない。柊悟さんのことを疑うなんて)
彼は必死にわたしを探してくれたのに、そんな風に考えるなんて。
わたしが一人で必死に彼を肯定している後ろでは、黒部さんが頭を下げて帰って行く。玄関のドアが閉まると同時に、わたしは風呂場へと向かう。早くシャワーを浴びて仕事に行かなければ。
「待って」
後ろから抱きすくめられ、足が止まる。耳元で「ごめん」と呟いた柊悟さんは、そのままわたしの耳に唇を落とした。
「……ごめん。ほたる、ごめん……」
「……なにが? 柊悟さんが謝ることなんて、なにもないじゃない」
「そんな──」
「約束を破ったのもわたし。あなたを問い詰めるような言い方をしたのもわたし。無防備な格好を夏牙さんに晒してしまったのもわたし。全部……全部わたしが……」
「やめてくれ、そんな言い方」
後ろから無理矢理唇を吸われそうになるのを、身を捩って抵抗する。時間がないからと言って彼の腕を振りほどき、逃げるように風呂場へと向かった。
脱衣場の鍵をかけたドア越しに、柊悟さんが「先に出掛けるから」という言葉を残して出かけて行く。メイクと着替えを済ませたわたしは、その後急ぎ会社へと向かった。
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