第七十三話 【我儘姫の猛攻】
どうしてこんなことになったのか。
雪菜が、ほたるのいる場所へ案内するからといって告げた先は、何故か実家のホテル──そのレストラン奥の個室だった。
「どうしたの柊悟、食べてる? 飲んでる?」
隣に座る雪菜が、ベンチタイプの椅子の上で尻を滑らせ俺との距離を詰めてくる。露出過多なキャミソールワンピースを着ているので、上から見ると胸が丸見えだった。
「雪菜」
「なあに?」
「どういうつもりだ」
「何が? 言葉が足りなさすぎて雪菜わかんない」
細いグラスに注がれた白ワインを飲み干すと、彼女は俺のグラスにも手を伸ばす。少しだけ口をつけテーブルに置かれたグラスには、明るいピンク色の口紅がほんのりと付着していた。これがほたるの口紅だったなら、色っぽいなと思うところだが相手は雪菜だ。そんな感情など微塵も湧いてこなかった。
「お前がほたるに会わせてくれると言うから、ここまで来たんだぞ? それが『とりあえず食事をしてから』って。約束はどうなったんだと訊いている」
「やだ柊悟、久しぶりに雪菜に会ったっていうのに怖い」
「久しぶりに会うのは関係ないだろ」
「帰国祝いにゆっくりご飯を食べようとかないの?」
「ない」
椅子から立ち上がろうとすると、雪菜は俺の腕をがしりと掴んだ。振り払う訳にもいかず、そのまま固まってしまう。
「胸を押し当てるな」
「好きでしょ?」
「そういう問題じゃない」
「彼女さん意外の胸を触れるんだよ? 嬉しくない?」
「ほたるだけで十分満足している」
「ふうん、つまんないの」
仕方なしに再び腰を下ろす。デザートまで食べ終え、後は退出するだけだというのに雪菜は一体何を考えているのか。彼女が俺を無理矢理に引き止めるメリットは一体なんだ。
(まさか、兄さんから何かしらの指図を受けているのか──?)
仮にそうだとしても、兄さんがほたるを解放しない理由が見当たらない。単純に先日俺が家族の前で取った態度に対する戒めのつもりなのかもしれないが、それにしては大がかりすぎる。
「柊悟は、あの子のどこが好きなの?」
「何故?」
時間稼ぎのような質問に飽き飽きする。もう間もなく午後八時。ほたるはちゃんと食事を食べただろうか。ここ最近多忙であまり一緒に食事を取れていないので、揃って夕食を食べたかったのだが。
いや──それよりも、兄はほたるに何もしていないだろうかという不安の方が大きい。あの兄の事だ──自分の立場を理解できないほど愚かな男ではないと信じているが、その立場を使ってほたるを脅し、口封じをしているかもしれない。そう考えただけで、居てもたってもいられなくなってしまう。
「柊悟?」
雪菜の存在が、俺の思考を狂わせる。もう少しじっくり考えれば、解決の糸口を掴めそうだというのに。こうも矢継ぎ早に話しかけられては、まとまる考えもまとまらない。
「しゅーうーごー?」
「……なんだ」
「雪菜がここまでしてるのに、柊悟には雪菜の愛が伝わらないの?」
(……そういうことか)
「悪い、雪菜。お前が何を言おうと、何をしようと、俺のほたるへの想いは変わらない。頼む……早くほたるの所へ案内してくれ」
驚き目を見開いた雪菜は、手にしていたグラスを静かにテーブルに置いた。一人でかなり飲んでいたようだが、雪菜はこんなに酒に強かっただろうか。
「……わかった。じゃあ、行こっか」
支払いは俺の給引きにするよう、始めに伝えていたのでそのまま個室を出る。レストランを後にし、雪菜が向かうのはホテル棟のエレベーターのようだ。
(ほたるは兄と、このホテル棟にいるのか……)
──まさか二人きりのまま、ホテルの一室に?
胸騒ぎがし、ほたるに電話をかけるも、やはり繋がらない。焦りと苛立ちで頭の中はぐちゃぐちゃだ。情けないが、まともに思考することが出来ない。
「……寒くないのか?」
ゆっくりと前を行く雪菜の、剥き出しの白い肩が、時折ぶるりと震えていた。いくら室内とはいえ、こんな薄手のワンピースではどう考えても身体が冷えてしまうだろうに。
「日本の夜って……こんなに冷えたっけ? 久しぶり過ぎて忘れちゃった」
「お前、着ていた上着……」
「お酒飲むし、温まるかなって……車にそのまま……」
「大丈夫か?」
なんだか様子が少しおかしい。スーツの上着を脱ぎ肩に掛けてやると、気が抜けたのか雪菜はそのまま床にへたり込んでしまった。
「雪菜!」
「……飲みすぎたのかも」
「飲みすぎだろ。真っ赤じゃないか」
近くを歩いていた従業員が、俺達に気が付き駆け寄ってきた。俺の顔を見て驚いた彼は、すぐに空いているホテルの一室を使用できるよう、手配をしてくれた。
「寒い……」
「ちょっと待ってろ」
背中におぶってきた雪菜をベッドに寝かせると、世話をしてくれた従業員に礼を言い、名札の名前を盗み見た。後日きっちり礼をしなければならない。バスルームからローブを持ってきて雪菜に着せてやると、まだ寒いのかブランケットにくるまっていた。
「何かありましたら、お呼びつけ下さい」
「ありがとう」
頭を下げ退室する彼を見送ると、ベッドに腰を下ろしうつ伏せに寝転ぶ雪菜にミネラルウォーターを差し出した。部屋の冷蔵庫に備え付けてあったペットボトルだ。足りなくなればまた買ってくるしかないだろう。
「飲めるか?」
「う……無理」
「飲んだ方が楽になるぞ」
「じゃあ……口移し」
「はあ?」
うつ伏せの姿勢から仰向けに転がった雪菜は、訴えかけるような視線で俺を射抜いた。
「ほたるさんにだったら……する?」
「するだろうな」
「じゃあ……雪菜も」
「お前とほたるは違うだろ」
「雪菜は……柊悟が好きだから……いいもん」
意味のわからない理屈を並べ、雪菜はすり寄り俺の腰にしがみつく。ブランケットが落下するので再び肩に掛けてやるとやると、彼女は俺の手からペットボトルを奪い取った。
「離れたらどうだ?」
「寒いもん……」
「雪菜。誰に指図されてこんなことをしている」
「誰にも言われてない。雪菜の意思だもん」
上手く力が入らないのか、ペットボトルのキャップを握る手が震えている。取り上げて開けてやると、飲み口を唇に添えてやった。
「これなら飲めるだろう?」
「ケチ」
「元気そうなら、俺は帰るぞ」
立ち上がろうと腰を浮かせると、俺の上着を握りしめた雪菜が、背にのし掛かった。のし掛かるというよりもこれは、抱きついている形に近い。這ってきた腕が俺を絡め取って離さない。
「もう少し……傍にいてほしい」
「具合が悪くて不安なら誰か──」
「……ホテルの人呼ぶの?」
「嫌なのか?」
「知らない人と二人きりなんて、怖い」
「はあ……」
雪菜の我が儘は今に始まったことではない。昔から彼女は、こんな風だった。駄々を捏ねる手のかかる子というレッテルを貼られた彼女が単身海外へ留学すると言い出した時には、彼女の両親は当然だが、俺の両親まで反対したほどだ。どうやらその我が儘な部分は成長せぬまま、帰国したようだ。
「お願い、一人にしないで」
ここまで言われて、知らぬ顔をして彼女を置き去りにすることなど出来よう筈もなかった。別に下心があるわけではない。神に誓って、俺は雪菜に対してやましい気持ちなど抱いてはいない、これから先抱くことも決してない。
「柊悟、電話鳴ってる」
ズボンのポケットに入れたスマートフォンが、小刻みに震えている。雪菜がそろりと身体を退かすので画面を確認して通話ボタンをタップする。
「兄さん!」
『怒ってんのか?』
「当たり前だ! ほたるを何処へやった! 今何処にいる!」
俺の声に驚いた雪菜が、背後で小さく声を上げた。構うことなく俺は再び同じ質問を兄に投げ掛けた。
『悪かったって。ほたるちゃんの世話は黒部がしてる。ちゃんと家まで「送らせたから」安心しろ』
「……何もしてないだろうな?」
『アバウトな質問だな。要は手をつけてないかってことが聞きたいんだろう? それなら安心しろ』
胸を撫で下ろしたのも束の間、一呼吸置いて兄は電話越しにとんでもないことを口にした。
『綺麗な身体をしているな、彼女』
「…………は?」
『触れてはいないさ。指の一本もな』
「おいっ! ……くそっ!」
通話の切れたスマートフォンをベッドに叩きつけ、思わず頭を抱えてしまう。兄は一体ほたるに何をしたんだ。触れてはいない?そうは言っても先程のあの発言──触れてはいない……触れていないだけで、ひょっとしたら──!
「しゅ……柊悟……」
「……!? どうした?」
振り返ると、ブランケットにくるまり目に涙を溜めた雪菜が、小刻みに震えながら縮こまっていた。
「さ、寒い……」
「まだ冷えるのか?」
暑すぎない程度に部屋の暖房は入れてある。キャミソールワンピースの上にバスローブ、それにブランケットだけでは雪菜の身体の冷えは治まらないようだった。
「風呂に浸かるか?」
「無理……動けない」
「毛布を持ってきてもらうよう手配を……」
「柊悟が、温めて」
「何だって?」
「知らないの? 人肌が、一番温かいんだよ」
ブランケットを跳ね除けた雪菜は、正面から俺の上半身にがばりと抱きついた。カッターシャツのボタンに手が伸びてくるのでそれを阻み、仕方無しに抱き締めてやる。
「裸同士の方が、温かいんだよ?」
「だから脱げというのか?」
「雪菜のこと、女として見てないんでしょ? それなら、そのくらいのこと出来るんじゃないの?」
「馬鹿を言うな。それとこれとは別だろ」
「ほたるさんに言っちゃうよ? 柊悟は雪菜のこと、抱き締めてくれたって」
「勝手にしろ」
「……鉄壁だなぁ」
跳ね除けたブランケットを、しっかりと背中にかけてやる。どうやら雪菜が「よし」と言うまで、この状態に付き合わなければならないようだ。彼女が一度言い出したら聞かないということは、よくわかっている。
「柊悟、知ってる?」
「何?」
正座をしていた雪菜が急に膝立ちになり、ベッドの上で胡座をかく俺の肩に全体重を預けた。仰向けに押し倒され、馬乗りになった彼女の冷たい手が俺の首筋に触れた。
「従兄妹同士でも、結婚は出来るんだよ?」
冷たいその手は、ゆっくりと俺のシャツへと伸びる。その手を払い除けた俺の盛大な溜め息が、部屋を包み込んだ。呆れて言葉を発することも出来なかった。
*
フロントに無理を言ってもう一部屋──雪菜の泊まる部屋の隣を抑えてもらい、俺はそちらに一晩宿泊した。このまま雪菜を残して帰宅することが叶わないと判断した為であった。
相変わらずほたるとは連絡が取れないままで、不安で押し潰されそうになる。
(朝起きたら雪菜を起こしてすぐに帰ろう──)
兄はほたるを「送った」と言っていたが、それが本当とは限らない。電話越しの兄の言い方には、何となく信用できない雰囲気が漂っていた。
起床し、隣部屋の雪菜を叩き起こすと俺は朝食もとらずに急ぎ部屋を後にし、車を走らせた。 ほたるのことが心配で心配で仕方がないのだ。
(……いない)
午前七時過ぎ。俺はアパートに帰宅するも、そこにほたるの姿はなかった。兄は嘘を吐いていたということになる。となると、ほたるは一体何処へ連れていかれ、何をされたのか。最悪の事態が頭を過り────と。
「…………は……?」
控え目な通知音、それにバイブレーションと共にスマートフォンに届いた一通のメッセージ。真っ暗な画面に、無機質なグレーのポップアップが浮かぶ。兄の名前が表示されたその下に届いたメッセージが添えられていた。
『綺麗な背中をしているな、ほたるちゃん』
絶句し、手から滑り落ちたスマートフォンが床に落下すると同時に、俺は頭を抱え込む。この後俺は──情けないことに、ほたるから無事を知らせるメッセージが届くまで、頭も心もぐちゃぐちゃの状態のまま、その場に踞ることしか出来なかったのだった。
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