第六十七話【地獄の月曜日②】

 この春になって、育児休暇を取得していた同課の宮城さんが復帰。更には新入社員が二人も増えたということで、わたしの課は残業とは程遠いものとなっていた。新入社員の内一人が同じ係なので教育は大変だが、美鶴くんが率先して教育をしてくれているので、わたしが手出しすることは殆どなかった。


「定時上がり最高~」

「繁忙期はまた残業ありますよ、瑞河さん」

「それを言うなってカニちゃん」


 十七時過ぎ。退社準備を整えたわたしは、スマートフォンを確認する。柊悟さんからのメッセージは──。



(──あ……)



『ごめん、少し遅くなりそう。六時前には着くと思うから』



 画面に映し出させる、メッセージのポップアップ。忙しい時期に無理をして定時で上がり、わたしを迎えに来てくれるのだ。待つことなんて、全く苦ではない。



『謝らないで、大丈夫だから。ロビーで待ってるね』


『じゃあ、また後で』



 ショルダーバッグにスマートフォンを突っ込み顔を上げると、皆の視線がわたしに集中していた。


「真戸乃先輩」

「なに、美鶴くん?」

「今から南海みなみさんの親睦会って名目で飲みに行かないかって話してたんですけど、真戸乃先輩もどうかなあって」

「親睦会するの何回目よ」


 言いながら肩を揺らすのは瑞河さん。最近はこの一年で伸びた髪を、頭の高い位置で一纏めにしている。背の高い彼女の下で、美鶴くんと蟹澤くんは負けじと声を張り上げる。


「たまには良いじゃないですか瑞河さん! 行きましょうよ」

「そうだ! 蟹澤先輩の言う通りだ!」

「話がわかるようになってきたな美鶴!」


 南海さんの親睦会という名目のわりに、当の彼女は置いてけぼりだ。どちらかといえばおとなしいタイプの南海さんは、縮こまってことの成り行きを見つめていた。


「ごめん、わたし迎えが来るから今回はパスで」

「彼氏?」

「です……すみません」


 それなら仕方がないと諦める瑞河さんの横から身を乗り出して来たのは美鶴くん。やけに顔付きが険しい──というよりも、必死な形相だ。


「迎え待つくらいなら一緒に行きましょうよ先輩! 帰りは送りますから!」

「でも……」


 わたしの手を掴んだ美鶴くんを、瑞河さんが制した。厳しい顔で首を横に振ると、彼の額を指で弾く。


「美鶴、お前は最近真戸乃に対して積極的過ぎだっての。慎みなさい」

「でも」

「でもじゃない。女の子の話は最後まで聞きなさい。モテないわよ」


 眉尻を下げた美鶴くんは、申し訳なさそうにわたしから手を離した。突然のことで驚いたけれど、瑞河さんの言う通り、最近美鶴くんはこういった行動をとることが多い。一体どうしたのだろう。


「ごめんね美鶴くん。今日はどうしても彼と一緒に夕食を食べたくて」

「……昨日、食べたんじゃないんですか」

「昨日は色々あって……無理で……ごめんね、また誘って」

「わかりました。僕こそ、無理言ってすみませんでした」


 頭を下げて去って行く美鶴くんを、蟹澤くんが追う。「じゃあね」と手を上げる瑞河さんの背に南海さんがとことこと着いて行く姿を見送り、ソファに腰を下ろす。


 ロビーに一人取り残されたわたしは、「小説家になろう」のブックマークを読み漁り時間を潰すことにした。





 二十分程度経っただろうか。しんと静まり返ったロビーを打ち鳴らす、カツカツという靴音にわたしは読書の手を止めた。



(柊悟さんかな……)



 画面をタップしてしおりを挟み、ふと顔を上げる。靴音はいつの間にか止まっていた──わたしの目の前で。


「柊悟さ────」

「真戸乃 ほたるさん?」




 ────誰。




「遅くなってごめんね。あいつは遅くなるみたいだから、代わりに俺が来ちゃった」




 ──この人は、誰。



 顔に張り付けた、屈託のないにこにことした笑顔と壁のような長身がわたしの恐怖心を煽る。整った髪──それに整った顔をしているのに、何処かで見たことのある顔をしているのに、なんだろう──この恐怖心。


「あ……の」


 カラカラになっていた口をなんとか動かし、わたしはか細い声を出す。スカートのポケットに入れようと手にしていたスマートフォンをひょい、と奪われる。


「大丈夫、取り上げたりしないよ」


 彼はその手の中のスマートフォンを、ご丁寧にもわたしのショルダーバッグの中へとしまった。意図は──この時のわたしには理解できなかった。



 差し出された名刺を見て愕然とする。



(そういうことか……)



「ね、着いてきてくれるでしょ?」



 こんなの、着いていかないわけにはいかない。ロビーには誰もおらず、助けを求めることすら出来ない。ショルダーバッグにしまわれたスマートフォンを取り出して柊悟さんに連絡を取るにも、緊張と恐怖のあまり、金縛りにあったように動かないこの体では、それは不可能だった。せめて、この手の中にスマートフォンがあれば──と後悔した時になってやっと、わたしは彼の策略に気が付いたのだった。





 一体どういうことだ?


 メッセージを送っても未読のまま。電話をかけても繋がらない。居たたまれなくなりほたるの会社のロビーに来たものの、彼女の姿は何処にもない。



(どこに行ったんだ……ほたる)



 流石に部外者である俺が彼女のオフィスに向かうことは躊躇われた。いくら警備員さんや受付嬢と雑談をする仲になったとはいえ、そう簡単に上へあげてもらえるとは思えなかった。


「……立石君?」


 聞き覚えのある低い声に顔を上げれば、通勤鞄片手に玄関へと向かうスーツ姿の男性。


「……御無沙汰してます、十紋字じゅうもんじさん」

「久しいな、どうした?」


 十紋字 堅侍けんじ──ほたるの上司であり、俺が昔通っていた空手道場の師範でもある。眼鏡の奥の瞳を見開き少し驚いた様子の彼は、顎に手をあてて考えるような仕草をとった。


「彼女を迎えに来たのですが何処にもいなくて……電話も繋がらなくて。何かご存知ありませんか?」

「さっきのは君じゃなかったのか」

「…………え?」


 十紋字さん曰く、部下を退勤させ自分の仕事を片付けていたという──およそ二十分前のこと。普段は聞かない大きなエンジン音が耳に届き、五階のオフィスから下を覗き込んだという。


「真っ赤なスポーツカーだったな。真戸乃君が乗り込むのが見えたから、てっきり君かと思ったんだが」

「真っ赤なスポーツカー……」


 俺の背を一筋の汗が伝う。爆音を放つ真っ赤なスポーツカー、それにほたるに近寄ろうとする男と言えば、あいつしかいない。


「すみません、ありがとうございました」


 頭を下げて駐車場に向かい駆ける。あいつのことだ、ほたるに何をするつもりなのか──考えるのも恐ろしい。



(まさか──変な所に連れ込んだりしないよな……)



 不安ばかりが募る。何処へ向かったのか心当たりなどないが、それでも探さねば──。


 車のキーを開けようとした、次の瞬間だった。


「柊悟!」


 ソプラノの、鳥の鳴くような高い声に名前を呼ばれ振り返る。何故こいつがと思考を開始するよりも早く、俺に抱きつく小さくて柔らかな体。


「ゆ……雪菜ゆきな!?」

「えへへ~。ここにいるって聞いてね。会いたかったから空港からそのまま来ちゃった」

「は?」


 背はほたるよりも十センチ近く低いだろう。露出度の高いワンピースに、大きなキャリーケース。俺の体に巻き付かせた腕を離す気配は全くない。


「どうしてお前がここにいるんだよ」

「冷たいわね。そんなこと言ってたらほたるさんの居場所、教えてあげないんだから」

「……お前も一枚噛んでるってことか」

「せーかいっ!」


 良くできました、と俺の頭を撫でようと背伸びをする雪菜。腕を伸ばすも届かないと悟ったのか、諦めて頬を膨らませた。


「相変わらず、どこもかしこもでっかくて腹が立つわね!」

「雪菜も相変わらずちっこいな」

「失礼ね、胸は大きくなったもん」


 言われて視線を向けると確かに、そこそこ……いや、結構な大きさの…………って、違う違う!


「見てたでしょ、エッチ」

「お前が余計なこと言うからだろう」

「何よそれ。ていうか、急がなくていいの?」


 そうだ、こんなことをしている場合ではないのだ。一刻も早くほたるを救出せねばならないというのに。


「行こう。案内してくれ」

「後でご飯奢ってよね」

「わかったから早くしろ」


 大きなキャリーケースを積み込み、俺たちは車に乗り込む。エンジンをかけると、雪菜の指示通りに車を走らせた。


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