第六十六話【美女たちの猥談】
私の名前は月山 マキ。このカフェレストラン「
ここで働く女性は皆、経営者であるマスター目当てで入社している。勿論、日曜祝日が休みで福利厚生もしっかりしており、お給料も良い。加えて人間関係もそこそこ良好な職場であるから続けられる仕事、ということもあるけれど、何より一番は、マスター。マスターあっての緑の楽園なのだ。
入社した時の自己紹介で得た情報では、マスターは今年で二十六歳。私より二つ年下にも関わらずいつも物腰穏やかで、ここがオープンした時から、頼れる好青年であった。そして何よりも顔、顔が良い。モデルかはたまた俳優か──そう言われても疑う余地のないほど、誰が見ても整った顔立ち。優しげな瞳に見つめられた暁には、蕩けて崩れ落ちてしまう。
背もすらりと高く、男らしい体つきだ。これは彼の兄 夏牙様、弟の遥臣様、それに父である楓様にも共通する。一家揃って皆色男。
ここの従業員は調理師、ウエイトレスを合わせても十人程度。式場側は数百人に及ぶので、夏牙様と遥臣様の争奪戦は熾烈だと聞く。
マスターがいつも出勤するのは、営業の始まるおよそ一時間半前の九時半前後。毎日仕立ての良いスーツ姿で出勤する様は、従業員の女性陣全てを虜にしている。
ある日突然髪を伸ばし始めた時には驚いたが、あの長く艶やかな黒髪を去年の夏の終わりにバッサリと切り落としたマスターの姿には、更に驚いた。
「きっと失恋したのよ」
「恋人が切って、とか言ったんじゃない?」
などという憶測が飛び交ったけれど、真相は勿論わからないまま。何しろ私達従業員は、マスターの本当の名前すら知らない。名字が「立石」ということはご家族の名前から知っているが、下の名前は知る術がないのだ。
時々出入りする夏牙様に聞くという方法もあるが、仕事中にそれはなかなか難しかった。夏牙様は怖い──時々ここに来るのは私達の勤務態度を観察していると専らの噂だし、下手なことを喋ると首を切られかねない。イケメンではあるけれど、柔らかいマスターに慣れている私達からすれば、少し近寄りがたい空気があった。
そんな私達の憧れの的であるマスターが、今日はなんと九時前に出社した。実に久しいことだ。おまけにスーツ姿ではなく、私服に眼鏡姿。白いVネックのTシャツに薄手の黒いカーディガンを羽織り、淡いグレーのロングパンツ。足元を確認すると、夏にも関わらずカジュアルな革靴だった。足首が見えないのが残念であったが、普段肌を見せないマスターが今日身につけてる肘上のカーディガンからは、筋肉質な腕が剥き出しになっている。私もそうだったが、これには皆胸が跳ねたに違いない。おまけにVネックの部分からは鎖骨まで見えるのだ、気絶する従業員が出なくて本当によかった。
それほどに新鮮だった。真夏でもカッターシャツにネクタイを締めたベスト姿で、いくら暑くても腕すら捲らず涼しげな顔。ピアノの演奏の時のみシャツの袖を肘まで捲りあげる姿は激レアなので、いつも多くの女性の視線を集めるのだ。
しかも、しかもだ。
「ねえ月山、マスターに恋人っていると思う?」
私がチキンをソテーする横で、同じ調理師の
「だってよ~、月山? あの邪魔な珠緒が辞めてからというもの、誰がマスターを落とすかって皆殺気立ってるじゃない?」
「そうね。まあ、マスターを落とすのは私だけど」
「月山は美人だけど胸がないから駄目よ~。やっぱり女は胸! 胸の嫌いな男なんて、いるはずがないもの」
「そういう河根田は性格がキツいから駄目だね。美人で胸があっても、性格が悪いのは最悪よ」
火花を散らす私達の奥で無言で調理を進めるのは遠山。溜め息を吐き呆れ返っておるが、彼女だってマスターを狙うライバルであることに変わりはない。
ピークが過ぎてオーダーが一端止まり、洗い物をしながら話を進める。
「マスターに恋人はいないと思うわ。というか、いてほしくないわよね」
「それは、マスターが童貞でもいいってことぉ?」
「あ、それも美味しいわね」
「私が手取り足取り指南して差し上げたいわ~」
今年で三十二になる河根田は、綺麗な顔をしているがこの通り肉食系。チーフシェフの山岡さんが今日休みでよかった。おっさんにこんな会話聞かれたら、雷を落とされてしまう。
「マスターが童貞……」
「お、遠山興味ある?」
「あるわね」
ほっそりとした指を顎にあて、考え込む遠山。ガリガリに痩せてはいるが、この女はどうも色っぽい。ショートカット故に剥き出しのうなじは年中白く、艶やかだ。
「マスターにはテクニシャンであってほしいな~」
キッチンからフロアへの配膳スペースに滑り込んできたのは、良い歳をしてツインテール頭の花邑だ。ザ・ぶりっ子な彼女だが実際可愛らしいので、落とされる男は多いのだろう。
「花邑、フロアは?」
「今ちょっと落ち着いてるし、他の二人で回るよ。それより何? どうせ猥談でしょ? 何話してたの?」
この淫乱女!と河根田が花邑の額をつつく。大袈裟に「いったぁ~い」と声を上げた花邑は、頬を膨らませて腕を組んだ。
「マスターに恋人がいるか、経験があるかって話」
「経験って、セックスの?」
「そーそー」
「マスターは童貞だね、そっちのほうが美味しい」
うっとりとした顔で言う河根田の意識は、少し遠くに行ってしまったようだ。ぼおっと天井を見つめて、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべている。
「えぇ~、絶対経験あるって。イケメンでセックスも上手かったら最高じゃない?」
「確かに……」
「マキも好きだね~」
「花邑に言われたくないわね」
「…………わたしがだな……一から手解きをして育てるというのも美味しい……」
「河根田は一人で何言ってるんだか。ホント変態だよね」
皆が妄想に浸っていると、何やらフロアが騒がしくなり始めた。時計を見て気が付く──そろそろマスターのピアノ演奏の始まる時間だということに。
「──お疲れ様です」
フロアの喧騒を抜けて颯爽と現れたのは、未だ眼鏡姿のマスターだった。いつの間にやらスーツに着替え、キッチンスタッフが全員見える位置で足を止める。
「お疲れ様です、マスター!」
皆それぞれ弾んだ声を上げる。それを見てにこりと微笑むマスターの笑顔で、皆の士気が高まるのを感じる。
「お願いがあるのですが」
「なんなりと!」
身を乗り出すのは河根田。熱い視線をマスターの下半身に送っているのはいつものこと。それにマスターが気が付いていないのも、いつものことだ。
「昼食を持参したのですが、手違いで紛失してしまって。忙しい所申し訳ないのですが、賄いをお願いしたくて」
「「「誰が作りましょうか!?」」」
「……ま、任せます。演奏の間はオーダーが少ないでしょうから、その間にでもお願い出来ますか?」
「「「はい!!」」」
さあ戦争の始まりだ。調理師の誰がマスターの為に腕を奮うのか──決めなければならない。
「じゃ、じゃあよろしくお願いします。私は演奏へ向かいますので」
逃げるようにフロアへと消えるマスターの背を見送り、私達はコックコートで手の汗を拭いた。拳を固く握りしめ、腰を落として息を吐く。
「それじゃあ、いくわよ」
「ええ、恨みっこなしね」
「絶対、負けないんだから」
そして、フロアに聞こえない程度の声量で囁くように声を出し、心の中で雄叫びを上げるのだ。
「最初はグー! じゃんけん────!」
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