第五十九話 【愛しい人】
結局眠りについたのは深夜。彼の腕の中で最後に時計確認した時には確か──午前三時は過ぎていたと思う。
現在、壁掛け時計の示す時刻は十時半。朝というよりもお昼に近い時間に目を丸くする。大寝坊だが仕方がない。昨夜はその、なんというか凄かったのだから。
隣に横たわる彼も流石にあれだけのことをしたのだ──疲れているのだろう、ぐっすりと眠っている。壁際に追いやられたチャーリー──大きな水色のカエルのぬいぐるみ──が、なんとも言えない顔でこちらを見ていた。ごめんねチャーリー、本当にごめん。
わたしは一人ベッドから抜け出し、テーブルの下に転がるリモコンでエアコンの温度を少し上げた。流石に室内が寒すぎたのだ。
自分のものと彼の下着を手に洗面所へと向かう。洗濯かごに投入し、それから軽くシャワーを浴びた。戸棚から出した替えの下着を彼の枕元に置き、淡いグリーンのルームワンピースに着替えるとキッチンへと向かう。
今まではいつも執事であるセバスチャンが、一日も欠かすことなく朝食を作ってくれていた。わたしがキッチンに立つことを良しとしてくれなかった執事に、手料理を振る舞う絶好好のチャンスである。
(折角彼の恋人になったんだもん。わたしだってこのくらいは)
別に料理が嫌いとか、苦手とかいうわけではない。ただ仕事が忙しく作る暇がなかっただけで、わたしもそれなりに料理が出来る──と思っている。
野菜たっぷりのお味噌汁を作り、ネギケースから取り出した葱を刻む。卵焼きは甘めが好きな彼に合わせて、砂糖を多めにした。ご飯を炊くと時間がかかってしまうので、冷凍庫にストックしてあった冷凍ご飯を解凍した。
電子レンジが解凍完了の音を鳴らしたところで、背後に人の気配。
「おはよう、
「……おはよう……ほた……る……」
まだ眠いのか、下着姿の彼は目をごしごしと擦りわたしに体重を預ける。食器棚に背を追いやられ、豪快に抱きつく彼の唇がわたしに迫った。
セバスチャン・クロラウトの本当の名前は、
昨夜、彼が──交わる前に教えてくれた本当の名前。
「……朝ごはん、もう出来ますよ?」
「……朝ごはんは……ほたるが、いい」
「はい?」
垂れかかってきた横髪を耳にかけると、わたしの左耳は彼の口内へと誘われた。甘く噛み始めた彼の脇腹を小突いて、わたしは我が儘な彼の唇に軽く触れた。
「……痛い」
「目は覚めました?」
「……覚めました。すみませんでした、ほたるさん」
「……ほたるって呼んで」
「えっと?」
「昨日の夜みたいに、ほたるって呼んで欲しいな……」
なんだか恥ずかしくなってしまい、堪らず顔を伏せた。小さな笑い声を漏らした彼の──昨夜何度もわたしに触れた彼の手が、スッと伸びてきて頬に触れた。
「わかりました。ほたるは柊悟さんって呼ぶの?」
「はい……なんだかそっちの方がしっくりくるので、しばらくはさん付けで呼ぼうかなって」
「敬語は?」
「それも……少しずつ慣らしま…………慣らすよ」
「夜中は普通に話してくれることもあったのに?」
夜中──と言われてわたしの体は一瞬強張った。「そ、それはあなたもでしょう?」と言い返したが彼の方が大人で、余裕たっぷりな笑みを浮かべている。
「……可愛かったなあ」
「もうっ!」
悔しくて頬を膨らますわたしを、再び彼が抱きすくめる。子供のように頭を撫でられると、背と足に手が伸びてきて横抱きにされた。
「ちょ、柊悟さん?」
「なんでしょうか?」
「朝ごはん冷めちゃいますよ? わたしの作った初めての手料理が!」
「それは早く食べたい所だけれど、温め直せば大丈夫」
「そうじゃなくって!」
ゆったりとした足取りで彼が向かったのは、わかってはいたがベッドだった。わたしの体をそろりと下ろすと、自分はその上に覆い被さった。
「服を……着て」
「部屋着は持ってないよ。自分の家に帰ればあるけど……今あるのはパジャマかスーツか燕尾服」
「な……なんで」
「だって、こんなことになるなんて考えてもみなかったから、必要ないかなと思って持ってきてない」
(こんなこと──か)
わたしだって、そりゃぁ……玄関先で拾った執事と、まさかこんな関係になるなんて思ってもみなかった。今やわたしは彼の恋人──ううん、結婚を前提なのだから婚約者といってもいいのかもしれない。
「や……ちょっと、柊悟さんは大丈夫なんですか?」
「大丈夫とは?」
「い……ッ、色々」
「わたしの精力をナメないで頂きたい」
「ナメてませんけど……?」
「ほたる、ひょっとして体が痛い? それとも嫌とか……」
体を気遣ってくれるのはありがたいが、わたしが無理だと言って彼はこの状態で止まることが出来るのだろうか。試してみたい気もするけれど、結局わたしは正直に答えてしまう。
「それ……は…………大丈夫、って、どこ触ってるの!」
「太股の内側」
「言わなくていいっ! ん……ッ……やッ……」
「今触ってるのは、」
「や……やだ、言わないで!」
わたしの願いは叶って、それ以上彼は何も言わなかった。というよりも唇を塞がれたので、お互い何も言えなくなっただけにすぎない。
身に付けているのはワンピース一枚で、それを取り払えば彼と同じ格好になってしまう。キッチンの換気扇は回ったままだし、電子レンジの中には解凍したごはんがそのままだ。昨夜脱ぎ捨てた浴衣もテーブルの周りに散乱しているし、持ち帰ったスーツケースも置きっぱなし。
──こんな状態なのに。
「……ほたる」
「……ん?」
「す──」
──ピンポーン
「──ッ!?」
──ピンポーン! ピンポーン!
こんな朝早く──ではないけれど、一旦誰だろう。宅配便を頼んだ記憶はない。
「……出なくていいかな」
彼は居留守を決め込むつもりのようで、自分の髪をまとめるとわたしの服を剥ぎ取った。
──ピンポーン! ピンポーン!
「しゅ、柊悟さん!?」
「なに?」
「せめて、あの…………ですね、あ、あ、待って、や……声ッ……が」
「声が聴こえちゃう?」
「うん、うん……だから……待って、あッ……んッ、ん!!」
両手で必死に口を抑え、色々なものを堪える。わたしの必死な抵抗を彼は少し面白がっているようで、どうやったら声が漏れるかとあの手この手で攻めてくる。
その時だった。
「ほたるーっ! 居るのはわかってんの! 開けてー! わーたーしー!!」
ドンドン、と扉を叩かれ声の主は叫ぶ。この声は──。
「き……
隣の部屋に住む樹李さんだ。もしかして──という最悪の事態が頭をよぎる。着衣と髪を整えて玄関の鍵を開けると、目をきらきらと輝かせた樹李さんが興奮冷めやらぬ顔で立っていた。
「ありがとう……ありがとうほたる! お陰でいい原稿が書けたよ! いやー、流石に全部に付き合ったから寝不足だけどね」
「あ……おはようございます……えっと、樹李さん? 全部ってその……」
「四回だろう?」
「な、ななな……何のことでしょうか?」
樹李さんが言おうとしていることはわかっている。わかってはいるが、ひょっとしてとぼけたら上手く流してくれるかな、なんて期待した────わたしが馬鹿だった。
「四回やったんだろう?」
「わああああああ…………」
得意気に胸を張る樹李さんを前に、わたしはただ頭を抱えて踞るしかない。彼女のことだ、きっとまた壁に耳を押し当ててわたしたちの行為を盗み聞いていたのだろう。今までだって、ずっとそうだったのだから。
「いるんだろう、彼。あ、ひょっとしてまだベッドの中かな。お礼を言いたいんだけど」
そう言って玄関扉を閉め、靴を履いたまま廊下に膝をつく樹李さん。
「上がります?」
「いやいや~。私だってそこまで馬鹿じゃないよ。邪魔する気はないから安心して。彼、起きてるの?」
「はい、一応……」
「一応? おーい、お兄さーん」
「はい」
お兄さん、と呼ばれた彼は、律儀にも玄関へ姿を現した。下着姿のままなんだけれど。
「うわあ、良い体してるねえ!」
「すみません、すぐに着れる服がなくて」
「構わん構わん。それよりありがとうねー! 約束守ってくれて!」
「約束……?」
「覚えてない? ほたるの可愛い可愛い嬌声を届けてくれるって言ったじゃないか」
「……言いましたね」
彼が執事としてこの家にやって来たばかりの時、そういえば樹李さんとそんな会話をしたような記憶がある。あるけれど──あるけれど!
「まさかねえ、こんなに早く聴けるなんてねえ、思ってもみなかったからねえ、私も嬉しいよ。これからもよろしく。ほたるも頑張って!」
にやにやと笑みを湛え、颯爽と立ち去る樹李さんを尻目に、わたしは更に頭を抱え込むしかなかった。
第二部へ続く
(次のページにおまけがあります)
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