第五十三話 【心に決めた人】

 桃哉の部屋で朝食とも昼食とも言えない食事を取り、わたしたちは部屋を出た。車を走らせ二十分後──自宅に到着するや否や、桃哉はキャリーケース片手にわたしの手を引きずんずんとアパートの外階段を上る。


「ところで桃哉、どうやって帰るつもりなの? 送ろうか?」


 帰りの車の中では桃哉はずっと、助手席で黙り込んでいた。足もないのに一体どうやって帰るつもりなのだろう。


「送んなくていい、適当に帰る。タクシーで駅まで行くからいい」

「……遠いよ?」

「大丈夫だって」

「でも、」

「お前さあ、無駄話はいいからさっさと加減覚悟決めろよ」


 あっという間に自室の前に到着した。中にはセバスチャンがいるはずだった。


「……大丈夫、覚悟は出来てる」


 鍵を開けて、ゆっくりとドアを引いた。部屋に踏み込むことが出来ずにいると、桃哉が強引にわたしの手を引いた。


「ほら」

「うん……」


 室内からこちらへ、ぱたぱたと駆け寄る足音。燕尾服の上着は着ておらず、ネクタイもベストも身につけていない。シャツにスラックスだけの姿だ。髪はいつも通りの三つ編みで、六日ぶりに会うセバスチャンは、なんだか少し憔悴しているようにも見えた。


「ほたるさん!」

「……セバスさん」


 桃哉はわたしから手を離すと、後ろ手にドアを閉めた。セバスチャンは訝しげにその姿を見つめた。


「……おかえりなさいませ」

「……長い間家を空けてしまって、すみませんでした」

「……葵さんの所にいらっしゃったのでは」


 後ろで桃哉が舌を打つ音が聞こえた。振り返って睨むと、ぷいと顔を背けられた。


「それが……昨日職場の飲み会で飲みすぎちゃって、帰れなくなっていたところに偶然桃哉が」

「安心しろ、何もしてねえよ」

「……何も、ではないよね」


 わたしの言葉にセバスチャンの眉頭が寄った。双方口を開かないが、二人の間の空気が一気に冷えたように感じた。


「おい、セバ」


 サンダルを脱ぎ部屋に上がった桃哉は、セバスチャンとの距離を詰めた。シャツの胸ぐらを掴むので、慌ててわたしも靴を脱ぐ。


「ほたるから聞いたんだが、お前は……いや、お前こそほたるに何してんだよ」

「ちょっと、桃哉!」


 肩の辺りを掴んで引き剥がそうとするが、桃哉の手はセバスチャンから離れない。


「人前でほたるにキスしたって? 自分の護身の為に、好きでもねえ女にか? そんならほたるに未練タラタラな俺がやったことのほうが、まだマシなんじゃねえか?」

「なっ……!」

「桃哉っ!」


 驚き見開かれたセバスチャンの瞳が、わたしを見つめた。刹那、伸びてきた彼の腕は、桃哉の胸ぐらをぐい、と掴む。


「……ほたるさんに何をしたんだ」

「お前と同じことだ、いや……それ以上か」

「貴様っ!」

「ほたるは俺のことなんて、もう男として見れねえらしい。まあ、俺が過去にしたことを思えば当然だ。でもな、お前がこいつの手をちゃんと握ってねえと、俺は無理矢理にでもこいつを奪うぞ」


 セバスチャンから手を離した桃哉は、掴まれている胸ぐらの彼の手を強引に引き剥がす。そして振り返るとわたしの手を取りその胸へと抱き寄せたのだ。


「ちょ、桃哉!」

「どうすんだ、セバ」

「…………私は」


 セバスチャンの近寄る気配。桃哉の胸の中にいるわたしは、その表情を伺うことが出来ない。


「なんだよ」

「……私は!」


 低い声で凄んだセバスチャンが桃哉の腕を掴んだようだ。桃哉もそれを待っていたかのように、スッとわたしを解放した。


「私は、好きでもない方にあのようなことは致しません。断固として致しません」

「セバスさん……?」


 解放されたわたしの両手を、セバスチャンが優しく握る。目が合うといつものように柔らかく微笑まれ、わたしは照れて頬が熱くなってしまった。


「ほたるさん」

「えっと……」

「先日はあのようなことを急に……その、申し訳ありませんでした。全ては私の盛大な勘違いで、その……勝手に……」

「勘違い……? いえ、わたしの方こそ驚いて逃げ出したりしてすみませんでした。でも、セバスさん……心に決めた人がいるんですよね、なのになんでわたしにあんなこと……」


 あの時の彼の行為が、決して嫌だったわけではない。冷静になって考えると寧ろ──驚きはしたけれど、嬉しかったという気持ちの方が強いことに気が付いた。それでも、彼の本心はわからない。──今こそ、どうして彼がわたしにあんなことをしたのか──真意を聞き出すチャンスだった。


 真っ直ぐにわたしを見つめるセバスチャンが、ゆっくりと口を開く。


「あなた様だからです」

「……なにがですか」

「私が、心に決めた人というのが……あなた様だからです、ほたるさん」

「……えっと?」

「御慕いしております」

「……えっと?」


 混乱した頭は、言葉を上手く理解出来ない。後ろで再び舌を打った桃哉が、「おい」とセバスチャンに文句を垂れる。


「セバ、もっとちゃんと言え」

「ちゃんとって、」

「いいから!」


 苛立った桃哉はセバスチャンの背中を叩く。お互いに睨み合うと、一呼吸置いてセバスチャンが言葉を紡いだ。


「……ほたるさん」

「えっと、はい」

「愛しております」

「…………なにを言って」

「ですから、愛しております」

「うそ」

「嘘ではありません。ずっと、ずっと昔から御慕いしておりました。あなた様が先日を仰った上にもなされたので……ひょっとしたら私に対して好意があるのではと、お恥ずかしながら勘違いしてしまったのです。ですからあのようなことを二度も──」


 ずっと昔から──? 意味がわからない。だってわたしが彼に出会ったのは一月ほど前。ずっと昔からだなんて、そんなことあるはずがなかった。


 わたしが本当の気持ちを伝えて、そして──フラれると思っていたのに、何だろうこの展開は。


「本当に申し訳ありませんでした。私の気持ちに嘘はありません。詳しいことは中でゆっくりお話しします」


 さあ、と促されるが混乱状態のわたしの足は前に進まない。桃哉はどうするのだろうかと振り返ると、彼はホッとしたような穏やかな表情でこちらを見つめていた。


「両思いでよかったじゃねえか、俺は帰るぞ」

「桃哉」


 サンダルを引っかける背中に、声を掛ける。


「ありがとね」

「……礼とかいらねえわ」

「……うん」

「おい、セバ」


 振り返らぬままの広い背中は、ドアノブを握りながら最後に一つだけ言葉を残した。


「ほたるを泣かすなよ。俺が言える立場でもねえけどな」


 ドアが静かに閉まる。二人きにりなった室内でわたしたちは、黙って見つめ合った。

 

「あの、ほたるさん」

「はい」

「本当に、本当に申し訳ありませんでした」


 腰を九十度も折って、大袈裟すぎる何度目かの謝罪。その頭をそっと抱き抱え、わたしは首を横に振った。


「とりあえず、あっちに行きましょう?」

「……はい」


 キャリーケースはセバスチャンが運んでくれるので、わたしはキッチンに向かい冷蔵庫の中から麦茶を取り出し、グラスに注ぐ。


(お花……キキョウから変わってる)


 キッチンの壁側に設置された白いキャビネットの上に、紫色に近いピンク色の花が生けられていた。ハンカチのように薄い花弁はなんとも可愛らしく、背が低く透明な太い円柱の花瓶の中でひしめき合っていた。


「あなたしか見えない」

「──え?」

「ブーゲンビリア。その花の、花言葉です」


 麦茶を載せた盆を花瓶の前に置くと、後ろから抱きすくめられた。驚き跳ね上がった肩さえも、セバスチャンの大きな体に包み込まれてしまう。


「私にはずっと、あなたしか見えていませんでした。ずっと、ずっと御慕いしておりました」


 耳にかかる彼の吐息に、体が熱くなる。駄目だ、こんな──ことでは。ちゃんと、しなければ。


「それって一体、どういう意味なんです?」

「ああ……すみません。とりあえず、座りましょうね」


 セバスチャンは盆を手にリビングへと向かう。その背を追って行くと、タンスの上に置かれた綺麗に畳まれた浴衣が目に止まった。


「セバスさん、これ……」


 薄緑ががった白地に、青竹色の帯模様。肩の辺りには薄桜色と白色の桜の花と葉があしらわれている。帯は模様の青竹色よりも明るい緑色だ。その隣には白練しろねり色の帯に、濃藍色に藍色のピンストライプの男性物と思しき浴衣。


「時間が余ったので、自分のも作ってしまいました」

「えっ、手作りなんですか、これ?」

「はい、その……」


 女性物の浴衣を手にしたセバスチャンは、それを広げてわたしの体にあてがった。


「やっぱりほたるさんには、緑色が似合いますね。それも淡い色の……先日のワンピースも素敵でしたしね」

「そう、ですかね?」

「ええ──とても、お似合いでした。花火大会、一緒に行くと約束しましたし」

「それで、わざわざ作って下さったんですか?」

「ええ」


 広げた浴衣を畳んだセバスチャンは「籠バッグや下駄に髪飾りもあるんですよ」とごそごそと動き出す。その背中を追いかけたわたしは、シャツの裾を摘まんで彼を引き留めた。


「……セバスさん」

「はい?」

「ありがとうございます。本当に……本当に……いつも、いつもいつも……わたしなんかの為に、こんなことまでしてくれて」


 込み上げてきた喜びは、目から雫となって零れ落ちた。振り返りわたしを見下ろした彼の目は、驚きのあまり大きく見開かれていた。


「本当に……あなたがうちに来てくれてから、わたしの生活は一変しました。食事だって三食きちんと用意して下さるし、部屋の中だっていつも綺麗で」

「ほたるさん……」

「笑うことも増えました。一人だと毎日寂しくて、そんな余裕なんてありませんでした。暗くて湿った部屋に帰る毎日が、あなたのお陰で──明るくて温かなものになりました」


 初めて玄関先で出会った時にはどうなることかと思っていた生活も、共に過ごしてゆくうちに受け入れられるようになっていた。


「本当に……いつも、ありがとうございます。あなたは最高の執事ですよ、セバスチャン」


 にこりと笑って細めた目から、涙が滑り落ち頬を伝う。服にぽたりと落ちる前に、セバスチャンの指がそれを塞き止めてくれた。


「今、なんと仰いました?」

「え…………と?」


 わたしの肩を掴んだセバスチャンの目は更に見開かれ、真っ直ぐにこちらを見つめている。


「いつも、ありがとうございます……ですか?」

「いつも……」

「セバスさん?」

「やっと──やっと」


 セバスチャンの両腕が、わたしの背に伸びる。ふわりと包み込まれると同時に、ぎゅうっと抱き締められた。


「やっと、あなたの中のになれた」

「……セバスさん?」

「わたしは、ずっと──ずっとあなたの中のになりたかった。やっとあなたの中のいつもになれた」

「どういう、意味ですか?」

「すみません、きちんと全ての恩を返してから気持ちを御伝えするつもりだったのですが……順番が前後してしまって……でも、これでわたしの恩返は完了です」


 恩返しが完了したということは、セバスチャンはわたしの元から去ってしまうのだろうか。いつの日か彼が言っていた──自分のこの行為は鶴の恩返しの様なものだ、自分のことは鶴だと思って下さいと。物語の中で確か鶴は最後に──おじいさんとおばあさんの元を去って行く。漠然とした不安に身が震えてしまう。


「ほたるさん」

「はい」

「少し──長いお話をしてもよろしいでしょうか?」


 腕の中でこくりと頷く。彼に手を引かれ、二人揃ってテーブルの前に腰を下ろした。



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