第五十四話 【side she→side heⅤ~Recollection~】
あれはもう十年近くも前のこと。俺が高校一年の、夏のことだった。
「電車涼しーっ!」
俺の前を、二人の少女が歩いている。
真っ白な夏用のセーラー服は、襟の部分とスカートが揃いの青地に水色のチェック模様。以前目にした襟に付けた校章の色で、彼女たちが二年生の先輩だということを俺は知っていた。
「葵っ! 空いてるよ、座ろっ」
「ラッキーだな」
腰まで伸ばした長い髪を三つ編みに結った、笑顔が可愛らしい先輩。それに金髪の、少し背の高い先輩。
──前者は「ほたるさん」。後者は「葵さん」という名前らしい。
別に調べたわけじゃない。毎日通学の電車が同じなので、普段の二人の会話から俺はそれを知ったに過ぎない。
金髪の葵さんが、鞄からいつものように何かを取り出した。今日は漫画ではなく、あれは──雑誌だ。アニメ雑誌だろうか、表紙には金髪金眼の少年が描かれている。よく見えないが雑誌のタイトルは英語のようだった。
「ロン毛、いいよねー。背が高かったらもっと良いのに」
ほたるさんが自分の三つ編みをくるくると弄くりながら、雑誌を覗き込む。大人になった彼女よりも、少女の彼女は少しだけ目付きが険しい。
そんなほたるさんを見た葵さんが、わざとらしい溜め息をついた。
「ほたる、わかってないねえ。男は金髪だよ」
「だからって自分が染める?」
「あんたもじゃん? ロン毛三つ編み」
ほたるさんの三つ編みを引っ張る葵さん。ページを捲りながら、二人はきゃいきゃいと話に花を咲かせており、見るからに漫画好きな女子高生といった感じだ。
「金眼もいいよね」
「ええ~、わたしは断然、蒼!」
「蒼眼に金髪?」
「金髪もいいけど、黒髪もいいよね」
「わかる」
この頃の俺は髪が長いわけでも、蒼い瞳なわけでもなく──ただ背が高く大人しい、眼鏡をかけた少年だった。
この頃から既に色々な意味で有名だった──当時は一部の人間から“格闘虫女”と呼ばれていた真戸乃 ほたる、それに友人の菱川 葵。あの少女達が本人なのだと同級生に教えられ、危ないから近寄らないようにと警告されていた。
毎日駅や校内で遠目に彼女たちを見つめていたが、そんなに恐ろしい人物だとは思えなかった。姿はよく見かけたが、彼女達と会話をしたことは一度もなかった。
──あの日までは。
夏休みが開けた九月のこと。俺は駅のホームに立ち、帰りの電車を待っていた。その日は手首に巻いている腕時計がいつもと違った。朝起きると電池が切れており、一日くらいいいかと食卓に着いたら祖父に叱責されたのだ。
『これを使え』
そう言って代わりに渡されたのこの時計は一体いくらするのだろう。祖父の持ち物だから安価な物ではないのだろう。恐ろしいからと遠慮をしたが、壊れてもよいからと言われ押し付けられた。
(壊さずに一日終えられそうでよかった)
電池の交換は母に頼んでいたから、帰ってきたら手元に戻ってくる──はずで。
(あ、あの人たち)
大きな声にふと顔を上げると、ホームの少し離れた所に見慣れた先輩達の姿があった。三つ編み頭と金髪頭の少女達は、背の高い三人の男子生徒に囲まれ何やら言い争っていた。
「なに、邪魔」
「お前さあ、格闘虫女だろ? ちょっと殴らせろよ」
「はあ? 意味わかんない」
金髪頭の葵さんが男子生徒の一人を突き飛ばす。長い髪を揺らしほたるさんの手を引いてその間から抜け出そうとするが、別の男子がほたるさんの肩を乱暴に掴んだ。
「ほたるに触るな。殺すぞ」
ほたるさんの肩を掴んだ男子の鼻っ柱に、葵さんの拳が直撃した。鼻を抑えて倒れ込んだ彼を蹴り飛ばし、葵さんはほたるさんの手を引き俺の方へと──電車の停車位置へと近寄ってきた。
電車が間もなくホームに入るとアナウンスが流れる。それでも尚食い下がらない二人の男子生徒のうちの一人は、再びほたるさんの肩を掴んだ。
「……しつこいなあ」
眉間に皺を寄せた彼女は、あろうことか自分を襲う男子生徒を投げ飛ばした。背をホームに打ち付けられた彼は、唸り声を上げて身を丸めた。
次の瞬間──。
「この野郎っ!」
残された最後の一人──茶髪頭の男子生徒が拳を握りしめ、ほたるさんに殴りかかった。彼女は鬱陶しそうに身を捩りそれを避けた。
「う、わ!」
脇を通り抜けた彼は、勢い余って近くに立っていた俺にぶつかった。まさか止まらずに突っ込んでくるなんて──突然のことに体が反応せず、足がもつれて俺も転けそうになる。
「──え?」
「おい!」
「うそ、何やってんのっ!!」
葵さんの怒号──ほたるさんの悲鳴──。
ぶつかってきた男子生徒と俺は、揃って線路に落下した。幸いホームから線路までは、そう高さはなかった為、目立つ怪我はしなかった。ただ、落下したときに腕時計を庇ったせいでぶつけた腕が少し痛む。骨に異常はなさそうだった。
「あ──」
そういえば先程、ホームに電車が入るとアナウンスが流れていた。
(──嘘だろ)
顔を上げると目線の先に電車が──警笛を鳴らして────。
「ちょっと! ほたる!?」
線路上から降り注ぐ葵さんの悲鳴にも似た声──それに周りにいた客のどよめき。
俺の眼前に降り立ったのは、名前を呼ばれたほたるさん、その人だった。
「馬鹿かお前ら! さっさと避けなよ!」
線路下の退避スペースに自分よりも体格の良い男を二人も引き込むのは無理だと判断したのだろう、彼女は一緒に落下した男子生徒を電車のいない反対側の線路に蹴り飛ばした。尻餅を着いた彼はガタガタと震えながらこちらを見ている。
「もう少し離れてな!」
叫んだ彼女は俺の腕を掴み、ぐい、と強く引いた。前に転げそうになったが背中を支えられ、二人揃って無事退避スペースに潜り込んだ。抱きつかれるように体は壁側に押し付けられ、その視線の先で大きなブレーキ音を立てながら電車は止まった。
「大丈夫? 怪我とか」
立ち上がった彼女は俺の手を引きながら平然とした口調で言う。未だ恐怖が体から抜けない俺の足は、まだ少し震えていた。
「あのっ、ありがとうございます、先輩」
「先輩? 制服……ああ、同じ高校なんだ。一年生?」
「はい。あの、本当に……ありがとうございました。時計も無事でよかったです」
「時計?」
俺の腕に巻き付く腕時計を訝しげに見つめるほたるさん。そして何を思ったのか俺の後頭部を叩いた。なんだか怒っている。
「時計なんかよりあんたの体でしょうが! 怪我はないかって聞いてんのよ!」
物凄い形相で怒られた。腕が少し痛むと伝えると、病院に行けと怒鳴られた。
「救急車は……黙ってても来るかな。あ──」
駅員さんが駆けつけた為、俺達の会話はそこで中断される。彼女自身は怪我はないからと言って、逃げるようにその場を後にした──すぐに追い付かれてしまっていたが。
(格好いい……)
単純に抱いた初めの感情は、素敵な人だ、というものだった。今思えば、俺はその時既に彼女に惚れていたのだと思う。自分の恋心に気がついたのは翌日になってからだったのだが。
命を救ってもらったのに、お礼が足りない。そう思い立って翌日の帰りに、ほたるさんに声をかけた。
「お礼? いいよそんなの。わたしが勝手にやったことなんだから」
あっさりと受け流され電車に乗り込むと、昨日彼女達に絡んできた三人組が通路を塞いでいる。明らかにこちらに用があるといった雰囲気だ。
「おい虫女! テメーのせいでアキラが怪我しただろうが!」
「何の話?」
「ふざけんな乱暴に蹴り飛ばしやがって! 足も尻も痣だらけなんだぞ!」
当の本人──アキラというらしい茶髪の男子は──押し黙っているが、あとの二人が黙っていない。弱そうな奴から潰そうと思ったのだろう、二人の拳は俺に向けられた。
「──え! わ!」
顔を覆って固く目を瞑り──開くと、事が終息していた。ほたるさんと葵さんが一人ずつ男子生徒を撃退していたのだ。
「大丈夫? 眼鏡くん」
「大丈夫です、あの……また助けてもらって」
当時の俺は背は高かったが細身で、おまけに眼鏡を掛けていたせいもあり、見るからにひ弱そうな男だった。どちからといえば守られる側の人間──誰が見てもそんな外見だったと思う。
(このままじゃ駄目だ。彼女と対等に──相応しくなる為にはもっと強くならないと)
それがきっかけで通い始めたのがあの空手道場だった。まさか師範がほたるさんの上司になる人だなんて、当時は知る由もなかったけれど。
それからは──時々例の三人に喧嘩に巻き込まれては助けてもらい、会話をすることなんかもあった。学校内で話すときは控えめだったけれど、目が合うと必ず笑顔でその手をこちらに振ってくれた。
「すみません先輩……いつも助けてもらって、ありがとうございます」
「いつもなんて言われるほど、助けてないって」
「そんなこと──」
彼女と接していく内にわかったのは、噂で聴いたよりも優しい人だと言うことだった。売られた喧嘩を買っては勝ち、そして俺の見た限りでは最後には溜め息を吐いて──「人を殴りたくない」と言って後悔をしていた彼女。
変なあだ名のせいで喧嘩を売られ、それに勝ってしまうものだから良くない噂だけが一人歩きし、また喧嘩を売られる。他の生徒が不良に絡まれているのを助けている場面に遭遇することも時々あった。彼女は優しく、正義感の強い女の子だった。
(そっか──別に俺だけが特別ってわけじゃないんだ。いつもなんて、恥ずかしいことを言っちゃったな……)
それから夏が過ぎ冬が終わり──春休みが開け進級したある日を境に、学校内で見かけてもほたるさんが手を振ってくれることはなくなった。後になって知ったのは、どうやらその頃彼女に恋人が出来ていた、ということだった。
通学電車で顔を合わせることはあったが、俺の方を見て笑顔を向けてくれるだけ。帰りの電車では全く会わなくなった。三年生になると受験だなんだといって、他学年と下校時刻が重ならなかった。それに──彼氏と一緒に寄り道なんかして帰るから顔を合わさない、という可能性も考えられた。
月日は経ち、彼女と初めて会話をしてから一年が経った。夏が終わり秋が過ぎ、冬も終わり春が来た。
命を救ってもらったのに、何の恩返しも出来ないまま──ほたるさんは卒業していった。
結局俺は自分の中の淡い恋心を消し去ることができずに、心に蓋をしてその想いを閉じ込めたのだった。
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