第五十二話 【懺悔】

 ぼんやりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れた男の──裸の背中だった。濡れた頭をタオルで拭きつつ衣装ケースから下着を取り出し身に付けると、身を起こしたわたしに気が付いた桃哉はくるりと振り返った。


「起きたか」

「え……桃哉……なんで……え、え!? なんで!?」


 昨夜は職場の飲み会だったはず。それなのにどうしてわたしは桃哉の家のベッドで、こんな格好で眠っていたのだろう。身に付けているのは彼のTシャツで、ブラジャーはおろかショーツさえ身に付けていない。


「勘違いすんな、やってねえよ」

「うそ」

「少しは信じろよ」

「だって……」


 名前を呼んだ瞬間、寂しげな顔になったのが気になったが──そんなことよりも、あからさまに事後のような格好で眠っていたのに信じろだなんて無理だ。


「俺あっちのソファで寝たし」

「でも、」

「そんなに信じられねえならごみ箱でも覗いてみろよ」


 桃哉はこんな奴だが、よっぽどのことが無い限り必ず避妊はする男だった。軽薄な見た目からは想像もつかないが、そこには彼なりの信条があるらしい。


(だからもし、事後なら──ごみ箱にアレがあるはず……)


「ねえだろ?」

「……疑ってごめん」

「気にすんな、ただ」

「ただ何?」

「キスはしたし、胸とか触った」

「はあ!? とかって何!?」

「お前が悪いんだお前が!」


 喚く桃哉の話に耳を傾ける。それでようやく昨夜会社の飲み会に参加していた自分が、何故元カレであるこいつの部屋にいるのかを理解した。



(うん……確かにわたしも悪い気が──する。でもだからって、触ることないじゃないの!)



「胸とかって、ホントあんた一体……」

「言わせるな馬鹿、わかるだろ」


 桃哉の目線がわたしの体に向けられる。それで全てを悟った。


「ばかっ! 桃哉のばかっ!」

「はぁ……お前なあ、隣の部屋でお前が裸で寝てんのに、一人で処理した俺の身にもなれよ」

「……処理したの」

「しなきゃ寝れんわ」

「なんかごめん」

「謝るなら抱かせろよ」


 ベッドの上に座り込むわたしの肩を一気に押し倒す桃哉。馬乗りになりになった瞬間、Tシャツの裾から手が侵入してきた。


「やっ……だ、ちょっと!」

「……ほんっとお前、良い体してるよな」


 一通り体を撫で回し溜め息を吐いた桃哉は、ごろんとわたしの隣に転がった。手で目元を隠すと、一呼吸置いて再び溜め息。


「俺さあ……」

「なに?」

「ずーっとお前のことが好きだったんだよ、ほたる」

「──は? え?」


 名前を呼ばれてどきりと胸が跳ねた。桃哉は未だ顔を隠している。その表情が見えなくて良かったかもしれない。


「ずっと、ずーっとだ。ガキの頃からずっと好きだった。学生の頃もずっと。大学を卒業してこっちに帰ってきて再会して……あの夜、初めてお前を抱いたとき、幸せすぎて死ぬかと思った」


「なによ、急に……」


「こんなことでもねえと、話せないだろうが」


「でも、だって──そんなこと、昔は言ってくれなかった……」


 桃哉は──愛情をあまり口に出してくれる男ではなかった。好きだと言われて、なんだか放って置けなくて付き合い始めたら、いつの間にかわたしが彼に溺れてしまって。

 それでも「好きだ」なんて正面から言ってくれることは殆どなかった。


「今でも好きだ。離れてようやく気が付いた。お前、あの男とは付き合ってねえんだろ? 俺たち……やり直せねえか?」


 身を起こした桃哉は、ぎゅっ、とわたしを抱き寄せた。厚い胸に顔を押し付けられ、ただただ呼吸が苦しい。それに──腹立たしかった。


「なんで──なんで今更そういうこと言うのよっ!!」


 腕に力を込めて思い切りその体を突き飛ばした。胸ぐらを掴んでやりたい気分だったが、生憎桃哉は半裸のままなので、それは叶わなかった。


「どうして……どうして付き合ってる時に言ってくれなかったのよっ! なんで……なんで別れてからそういういうこと言うのよっ! わたしは……」


 自然と涙が溢れていた。悔しくて情けなくて、辛かったあの頃。わたしはあんなにも桃哉のことが好きだったのに、彼はちゃんとわたしを見てくれてはいなかった。


「……ごめん。恥ずかしかったんだ」

「何よそれ……」

「好きとか、愛してるなんて、恥ずかしくて言えなかった。俺の気持ちくらい、言わなくてもわかってくれてると思ってた。他の女と遊んでたのも、もっとお前に俺を見てほしかったからってだけなんだ」

「ふざけないでよっ!」


 桃哉の胸を何度も叩き、わたしは両手で顔を覆った。堪えようとしても涙は止めどなく溢れてきて、止まらない。


「わたし言ったよ? 何度も言った。気持ちはちゃんと言葉にしてくれないとわからないって」

「……ごめん」

「セックスしてれば、大丈夫だって思ってた?」

「思ってた」

「……ほんと、ばか」


 確かに子供の頃から桃哉は、気持ちを言葉にするのが苦手な少年だった。やんちゃ小僧の特性なのだと思っていたが、それは少年から青年になっても変わらなかった。交際して男女の仲になれば、変わると思っていたけれど──そうじゃなかった。長い間傍にいたはずなのに、気付けなかったわたしにも非があるのかもしれない。


「お前さ、一つ勘違いしてるっぽいから言うけど」

「なに?」

「お前と付き合ってるときに他の女をこの家に上げたことなんてねーよ」

「……そうなの?」

「当たり前だろ、なんでお前が好きなのに他の女とやるんだよ」

「それじゃあ、わたしは……」


 ずっと勘違いをして、桃哉を恨んでいた。わたしと付き合っているのに他の女と遊んで──抱いているのだと。


「桃哉が……わたしが誤解するような行動ばっかりとるからじゃん」

「だから、悪かったって」


 気が付くと涙は止まっていた。シーツを握るわたしの手を、桃哉が上から優しく覆う。ふと顔を上げると不意打ちを食らい、唇を塞がれた。何もかもがどうでもよくなり、抵抗する気力も沸いてこなかった。彼にされるがまま口の中は侵食され、再び押し倒されてTシャツを剥ぎ取られたところでようやく、言葉を発することが出来た。


「……わたし、さ……失恋したんだ……多分」

「多分ってなんだよ」

「セバ…………スさん………が、さ……」


 セバスチャンの名を出した途端、桃哉の手が止まった。不満げにわたしを睨むと、鼻先を摘ままれTシャツを床に放り投げられた。仕方がないのでそのままの格好で続ける。


「……セバスさんがさ、言ってたんだ。心に決めた人が自分にはいるって。わたしさ……自分でも気が付かないうちにあの人のこと、好きになってたんだよね」

「……」

「うちの玄関先で寝てた人だよ? しかも燕尾服で。怪しいにもほどがあったのに、毎日が寂しすぎて家にあげちゃった……色々あったなあ……」

「おいちょっと待て、玄関先で寝てたってなんだよ?!」

「……あ」

「お前たちが付き合ってねえってのは樹李さんから聞いたんだ。でも玄関先で寝てたってなんだよ?」

「えっと……」


 仕方無しに桃哉にセバスチャンとの出会いの経緯を説明する──勿論伏せる部分は伏せて。時々悪態を吐きながらも桃哉は最後まで話を聴き、そして。


「恩返しか何か知らねえけど、そもそもお前に好意がなきゃそんなことしねえだろうが」


 と怒鳴った。


「そうでもないでしょ。ただ、物凄く律儀な人なんだと思う」

「そういうもんじゃねえと俺は思うけどな」

「……そかな」

「で、お前はどうするんだよ」

「それは、ちゃんと言うよ。駄目だってわかってても」


 フラれると決まっているのに告白するなんて、なんとも滑稽な気もする。──けれどこのままじゃ駄目なんだ。


「ごめんね、桃哉とはもう……気持ち的に無理だと思うんだ。だから、」

「そんなことねえ、俺は……────悪い」


 背を向けた桃哉は、ベッドサイドに腰掛けて項垂れた。後ろから抱き締めたくなるような哀愁に満ちているが、駄目だ。自分が失恋したからといって、他の男に頼るなんて。


「悪い、みっともなかった」

「そんなこと、ない。わたしも悪いし……ごめん……」


 これ以上かける言葉が見つからなくて、黙り込んでしまう。徐に立ち上がった桃哉は、衣装ケースから服を取り出し身に付けると、先程床に放ったTシャツをわたしに向かって投げた。


「風呂入ってこいよ。服は全部洗って乾かしてる。飯食ったら帰れよ、付き添ってやるから」

「ごはん作るのはわたしなんでしょ」

「……そうだな」

「まあ、いいけど」


 Tシャツを頭から被り、お風呂に向かう。寝室のドアの前で、わたしの腕を後ろから桃哉が掴んだ。


「駄目だったら俺が慰めてやるから」

「……遠慮しとく」

「いいじゃねえか、いい加減楽になれよ。遠慮すんなよ」

「フラれたからって桃哉にすがるのは、駄目だと思うの」

「……変んねえな、そういうとこ。昔より頑固になった」


 諦めたのか、わたしの腕は解放された。そこでようやく、ずっと──何年も繋がっているように感じていた桃哉との繋がりが切れたような気がした。


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