第四十四話 【乙女の蛮行】
なんとなくわかっていたけれど、ずっと考えないようにしていた。
初めて出会った時、容姿も声も──仕草さえ素敵な人だとは思った。でも、ただそれだけだった。好意は抱いたが、恋心を抱いたつもりなんてなかった。
いつからだろう、こんな風に彼のことを愛おしいと思うようになっていたのは。
でも、もうそれも終わり。心に決めた人だなんて、そんな言い方──よっぽどの人なんだろう。ひょっとしたら結婚の約束なんかもしている人なのかもしれない。
(……失恋かあ)
桃哉に別れを告げた時はここまで辛い気持ちではなかったと思う。それはわたしがアイツに愛想を尽かしていたから。
(桃哉は──こんな気持ちだったのかな)
今となってはわからない。知るつもりもない。わたしがいながら他の女に手を出すような男の気持ちなんて、わたしにはどうでもいいことだった。
(もうなんか……全部どうでもいい)
「セバスさん」
どうでもいいと思いながらも、聞かなければならないことがある。聞きたくない。聞きたくないけれど、聞かないわけにはいかない。
「はい?」
「心に決めた人がいるんですよね?」
「えっ──はい、そうです」
「それなのにわたしなんかの執事をしていて、いいんですか?」
目線をどこに投げたらいいのかわからず、ハンドルを握るセバスチャンの手を見つめた。
「それは……」
「花嫁修行ならぬ花婿修行のつもりですか?」
「そんな、違います!」
「じゃあ、どうして」
「それは……」
口を噤んだセバスチャンのハンドルを握る手に力がこもる。わたしはただ黙ってそれを見つめる。言葉の続きを催促することが出来なかった。
「それは……その、ですね…………あっ」
「どうしました?」
「すみません、不味いことになりました」
「不味いこと?」
「後ろの車、見えますか?」
「後ろ?」
チラリと振り返ると、後ろを走るのは赤い軽自動車。赤信号で止まり左折するが、まだ後ろを着いてくる。
「珠緒さんの車です」
「家の方向同じなんですかね?」
「いいえ、逆方向です」
「用事があるとか?」
「それならいいのですが……以前、家まで車で着けられたことがあって」
「えっ!?」
セバスチャン曰く、それは一度だけの話ではないらしい。終業時間が重なった時には、立ち寄る先で頻繁に彼女に出会う。そして偶然を装ってばったりと会ったフリをするのだそう。
「ひょっとして、さっきも職場から後を着けてた……?」
「可能性はあると思います。すみません、巻き込んでしまって」
「……いえ」
なんと恐ろしい子なのだろう。恋する乙女、行き過ぎである。
「ど、どうしましょう?」
「このまま家に帰るのは不味いですね」
「ですよねえ……」
「仕方がないですね……少しドライブした後、外で食事にしましょうか。流石に飲食店の中にまでは着いて来ないと思いますので」
結局、かれこれ三十分程度走り回ったが、その間中ずっと赤い軽自動車は後を着いて来た。市外のレストランの駐車場に、ウインカーをギリギリに出して入った時には流石に通り過ぎて行ったのだったが。
(セバスさんのカレー、食べたかったなあ……)
どうせならもっと──幸せな気持ちのまま、大好物を食べておきたかった。なんたってわたしは失恋したてホヤホヤ。上手く気持ちを切り替えないと、またセバスチャンに心配をかけてしまう。
食事を終えて家に帰る車中、段々具合が悪くなってなってきたせいもあって、何を話したのかよく覚えていない。
「すみません、体調が悪いのに連れ回してしまって」
「大丈夫ですよ」
そうは言っても貧血で頭はくらくらするし、お腹も重く痛い。おまけに眠気もすごい。
「あ、これ」
アパートの入口の掲示板に「第五十回記念 花火大会」のポスターが張られていた。記念大会というだけあって、例年よりも上がる花火の数が多いようだ。ポスターも例年よりも派手なように見える。
「ほたるさん」
「はい?」
「花火大会、一緒に行きましょうね」
「え────はい!」
「浴衣も着ましょうね」
「はい!」
眠気が一気に吹き飛んだ。そんなわたしに、セバスチャンの心に決めた人の存在を思い出す余裕などなかった。
なんとなく気持ちが高揚した──とは言っても頭痛と腹痛は継続中。アパートの外階段をセバスチャンに手を引かれて上る──なんとみっともないことか。
「御風呂、直ぐに入れますから上がったらそのまま御休みになって下さい」
「すみません、ありがとうございます」
部屋に到着し、お風呂の給湯スイッチを押しながらセバスチャンは「あ!」と声を上げる。
「ほたるさん、買い物の片付けは私がしますから、休んでいてください」
「でも……」
「いいから」
手を引かれて無理矢理ベッドに座らされる。セバスチャンが手早く食料品をしまう背中を、わたしはぼうっと眺めた。
「
言いながらスパイスを戸棚にしまう。
「あ! わたしのプリン!」
「うーん……さよならしたほうが良さそうですね」
生温くなったプリンをセバスチャンが残念そうに見つめる。こればっかりは仕方がない。まさかこんなに帰りが遅くなるなんて思っていなかったのだから。
「あれ? セバスさんスマホ鳴ってます?」
「え……あ、すみません失礼します────はい、もしもし」
セバスチャンが通話をしつつ玄関の方へと向かう。その隙にわたしは日用品の入った袋を手に片付け始めた。
(食器洗剤と……スポンジと………………え?)
「なに、これ……」
買った覚えのない、黒い箱。これはあの時、珠緒さんが購入していたものと同じメーカーのものだった。
(セバスさんが買ったの? まさか)
そのような売り場を通ってはいないはずだ。じゃあ一体何故──。
「ほたるさーん」
「は、はい!?」
手にしていた箱を思わず床に放り投げる。床を滑ってそれはベッドの下へと吸い込まれていった。
「なんですか、セバスさん」
「それが……珠緒さんがあなたと話がしたいと」
「え?」
セバスチャンのスマートフォンが差し出される。通話画面には「珠緒
「無理だと思ったら、無理矢理切って下さい」
「大丈夫ですよ」
受け取ったスマートフォンを耳に押し当てる。セバスチャンはわたしの後で買い物袋を片付け始めた。
「……お電話代わりました」
『あ、こんばんは~! 今帰られたんですかあ?』
「……ええ、まあ」
『お食事は美味しかったですか? デートできてよかったですね!』
(この子……!)
『それより、プレゼント見ましたあ?
「ちょっと!」
『マスターに見つからなくてよかったですね! あ、見つかった方がよかったのかな、そっちの方が誘いやすかった? わたしも何度も誘ってるんですけど全然ダメで~、だから一回くらい断られたくらいで諦めちゃ駄目ですよ? 偽物彼女さん』
勘の鋭い子だ。この子はさっき会っただけで、わたしとセバスチャンの関係に気が付いたようだった。
『あれ、聞いてます? 聞こえてます~? 偽物彼女さーん!』
マシンガンのようだ。銃弾は全てわたしにヒットする。一回どころか、こちらは毎日一緒にお風呂にも入っているし、同じ布団で寝てもいるというのに。
(わたしに魅力がないだけなんだろうな)
『私のこの体で何度誘っても駄目なんですから、あなたもまあ、まず無理だと思いますよ。あ、でも~、マスターお酒は弱いみたいだから酔わせて襲うのもアリだと思いますよ。私も一回その手を使いましたけど、撃沈でしたね~!』
アハハハ、と電話の向こうで笑う珠緒さん。ただの嫌がらせの電話じゃないか。
『ところで、知ってますか? キキョウの花の花言葉』
「……キキョウ?」
『マスターが買ってたでしょ? 車に積んであったじゃないですか』
片付けを終えたセバスチャンが、わたしの背後でキキョウの茎を水切りしている。花と一緒に購入したのか、見慣れない陶器の花瓶に十輪の花が順に生けられてゆく。
『キキョウの花言葉は“永遠の愛”』
「永遠の愛……」
『やっぱりあなた、からかわれてるだけなんじゃないですかぁ?』
わたしが黙っているといつの間にか通話は一方的に切れていた。
(キツいなあ……)
失恋した直後のわたしに、この攻撃はかなり効いた。黙ってセバスチャンのスマートフォンをテーブルに置くと、足早にお風呂場へと向かった。
──からかわれているだけ。
「ほたるさん? 御湯はまだ溜まっていませんよ?!」
「いいんです」
「珠緒さんに何か言われたのですか」
「大丈夫です。お風呂、入りますね」
「え、ちょ──ほたるさん!」
お風呂のお湯なんて、溜めながらでも入浴できる。体と頭を洗い終える頃には、十分お湯は溜まっていた。
「……はあ」
──辛い。
「……玉砕だなあ」
湯船から出て、脱衣場に置いていたスマートフォンを取る。お湯に浸かりながらわたしは、親友の葵に電話を掛けた。
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