第四十三話 【剥き出しの敵意】

 高いヒールの踵をカツンと鳴らし、彼女はずいっとセバスチャンとの距離を詰めた。たわわな胸が彼の腕に押し当てられ、わたしはぎょっとして手に持っていたプリンを籠の中に落としてしまった。


「珠緒さん……」

「お疲れ様です~! 駐車場にマスターの車があったからまさかとは思ったんですけど、やっぱりだったんですね!」


 珠緒さんと呼ばれた彼女の視線はセバスチャンにしか向いていない。胸を押し当てられたセバスチャンは一体どんな顔をしているのか、彼の背中側にいるわたしからは伺うことが出来ない。


「こんなところで会うなんて偶然ですねっ! 嬉しいなあ~!」

「偶然ですね……」


 わたしと同じくらいか、少し年下だろうか──その顔をまじまじと見つめると、若いわりにはメイクがやたらと濃いようにも見える。


(ていうか珠緒さんって……下の名前呼びなんだ、セバスさん……)


 何となく嫉妬している自分に嫌気が差す。自分だけが下の名前で呼ばれている──特別なのだと思っていたけれど、どうやらそうではなかったらしい。


「助手席に女性物の鞄があったからまさかとは思ったんですけどぉ……」


 人の車の中を覗き見たことを、悪びれることなく告げる彼女。黙って隠しておけばいいものを。

 驚くわたしのことなど露知らず、彼女は長い睫毛をぱちくりと上げ下げしている。そして買い物籠の中から、手の中に収まる黒い箱を袋の中に放り込んだ────ん?


(っ、この子──!!)


 籠の中には同じ物がまだ数箱、取り残されている。一体それを──それだけのコンドームをどうしようというのか。


(いや、使うんだろうけど買いすぎでしょうよ……)


 わたしは驚いて声も出ない。その間にもセバスチャンと珠緒さんは今日の勤務中の出来事だろうか、何やら会話を交わしている。


「マスター、そちらはご家族ですかぁ?」


 そちら、と言いながら珠緒さんはわたしへと視線を向ける。セバスチャンがつられてくるりと振り向いた瞬間、彼女の目付きが変わった。


(なに、この子……)


 目尻を下げてにこにことしていた顔付きが一変、敵意剥き出しの目でキッとわたしを睨んだのだ。


「ああ、ええっと……」


 わたしと目を合わせたセバスチャンは、今までに見たことのないほど困惑した顔になっている。珠緒さんの巨乳を押し当てられたままで、気まずいだとか思っているのだろうか。

 セバスチャンは右目でウインクを飛ばすと、声を発することなく口の動きだけで何かを訴えた。


(お願いします──!)

(お願いします? 何を?)


 わたしの目を見つめたまま、セバスチャンは口を開き──。


「家族だなんて……恋人ですよ、ね、ほたる」


 くるりと振り返り珠緒さんに笑顔を見せると、またしてもわたしの方へと顔を向けた。


(恋人!? ほたる!?)


 思考が混乱すると同時に、セバスチャンの必死な形相が視界に飛び込む──なるほど、そういうことか。


 セバスチャンはこの子にわたしを恋人だと認識させたい。しかしこの子はセバスチャンのことが好きで、おまけにわたしに敵意を向けている。


(なるほど、面倒だ……)


「ほたる、こちらは同じ職場の珠緒たまお 彩芽あやめさん」

「どうも、マスターにはいつもお世話になってます~!」

「どうも……」


(珠緒って名字なのか……ややこしいな)


 そして安堵している自分にまたしても嫌気が差した。

 


 わたしの顔を見る彼女は、ツヤツヤの唇を尖らせて不満げな表情だ。ようやくセバスチャンに押し当てていた胸を退かせ、わざとらしく、見せつけるようにゆっくりと黒い箱コンドームを袋に放り込む。


「買い物の感じ、ひょっとして、まさか同棲しちゃったりしてます~?」


 挑発的な瞳だ──恋する乙女は恐ろしい。珠緒さんの瞳が「まさかそんなはずはないだろう」という色に変わってゆく。


「そのまさかですよ?」

「えっ……!?」


 動揺した珠緒さんは一歩後退する。つられて耳につけたピアスがぐわんと揺れた。胸にばかり目線が行っていたので気が付かなかったが──よくよく見るとそのピアス、セバスチャンが家の鍵につけていた金魚のストラップによくデザインが似ていた。


「本当ですか?」

「ええ」

「この人のことだったんですか?」

「……そうですよ」

「そっかあ……」


 落胆した声色だが、顔つきは寧ろ険しい。恋人だなんて嘘を吐いたせいで、乙女心を刺激してしまったのではないだろうか。


「そうかあ、そうでしたかあ、すみませんお邪魔しちゃって! マスター、また明日ですっ」

「え、ちょっと珠緒さん!」


 彼女は早足で店外に出ていく。振り返ることなく、買い物袋を腕に下げて駆けて行く背中をセバスチャンは追うことなく、ただ黙って見つめていた。


「あの、セバスさん?」

「はぁ……」


 嵐のような人だった。胸を撫で下ろしているのはどうやらわたしだけではないようだった。


「すみませんほたるさん。巻き込んでしまって」

「いえ、それは構わないんですけど……何ですか、あの子」


 何ですか、という意味をどうセバスチャンが捉えたのかはわからない。買い物袋を全て持った彼とわたしは、並んで店内から車へと向かう。


「同じ職場の……」

「同僚?」

「……部下ですね」

「マスターって何なんですか?」


 マスターと聞いてわたしが思い浮かべるのは、なんとなく如何わしい主従関係だった。バーテンダーのようなイメージも沸いてくるが、彼女のあの体つきのせいで、どうしても前者のイメージが払拭できない。


「あだ名というか、呼び名のようなものです」

「呼び名?」

「はい」


 荷物を積んで車へと乗り込み、セバスチャンはエンジンをかけた。


「チーフとかリーダー、みたいな感じです?」

「そうですね」

「……ふうん」


 あまり多くは教えてくれないようだった。やはり先程言っていた「男には秘密の一つや二つあったほうが格好良い」ということなのだろうか。


「どうして、あんな……恋人だなんて嘘を吐いたんですか?」

「不快にさせてしまって申し訳ありません」

「不快だなんて、そんな」


 寧ろ嬉しかったのだと口から零れそうになるのを、どうにか塞き止める。


「なかなか……その、しつこくて」

「しつこくて?」

「交際を申し込まれているのですが」


 やはりそうだったか。初対面のわたしから見ても、珠緒さんがセバスチャンに好意を寄せていることは見え見えだった。


「心に決めた人がいるからと言って、御断りしているのですが……」

「えっ」


(心に決めた人──?)


 そんな人がいるというのに、わたしなんかの執事をして──同棲までして、果たして良いのだろうか。


「ほたるさん?」


 なんだか酷く胸が苦しい。痛み止めの効果が切れてしまったのだろうか。


 違う。


 そうか──。


 やっぱり、そうか。



「どうかなさいましたか?」



 わたし、今……この瞬間、失恋したんだ。


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