第四十話 【鬼の素顔】
何事もなく一日が過ぎて行く。気分は晴れないまま、お昼休みの時間になった。痛み止の効果が切れたので、ご飯の後に薬を飲まなければならない。
──そんなことよりも、だ。
(どこでごはん食べよう……)
体調が優れないというのに、この炎天下の下屋上テラスで食事をするのは憚られた。かといって自分のデスクで食事をとるのは禁止されているし、食堂に行こうものなら「噂になっている張本人」として注目の的となってしまうだろう。
お弁当の巾着袋を片手に廊下へと出る。人目を避けるように隅を歩くが、すれ違う──特に女子の視線が痛い。チラッとわたしを見てはくすりと笑ってすれ違う。非常階段へと続く扉が視界に入り、誰も見ていないことを確認すると、するりとその中へ身を滑らせた。
「はぁ……」
(……やっぱり女性は、怖いや)
何故だろう、昔から男性の攻撃的な視線や言動は簡単に跳ね除けてきたが、女性のそれにはあまり耐性がない。今思えば、それはきっとわたしのことを「虫女」といって
(さっきも手が震えてしたし、情けないや)
後ろ手にドアを閉めて溜め息を吐いた。
電灯の少ない非常扉の奥は薄暗く、人の気配など皆無だった。上に続く階段を一階ぶん昇りきると、思いがけず外から射し込む日光に目を細めた。
「あ……」
三階と四階の間に、狭いルーフバルコニーのような空間があったのだ。ちょうど日陰になっており、外にも出られるようだった。
外へと続くドアへ近寄り、ドアノブに手を掛けようとした刹那。
(──誰かい……る)
どうやら先客がいるようだ。あの見覚えのあるスーツ姿。暑さのせいだろうか、背広は脱いで脇に置いている。その人物はわたしに気が付くと立ちあがり、外側からドアを開けた。
「何をしているのだね?」
「か、課長……」
「お昼か?」
「はい」
わたしの手の中の巾着袋を見つけた十紋字課長は、眼鏡の奥の目を細めながら言う。
「ちょうどよかった。ここはわりと涼しいぞ。よかったら来たまえ」
「ちょうどよかった……?」
「ああ。それよりどうするのだね? 私は構わんよ」
こんな場所でこの人と昼食をとるなんて。しかし、そうこうしている間にも休憩時間はどんどん過ぎていく。このまま断って立ち去るのもなんだか気が引ける──仕方がない。
「ありがとうございます、失礼します」
朝の事と先週のこともある、きちんとお礼を言わなければならなかった。
「あの、課長」
既に食事を済ませていた課長は、缶コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。ザ・オッサンって感じだ。
「なんだね」
「先日の事といい、今朝の事といい……色々とご迷惑をおかけして、すみませんでした」
「迷惑などかけられた覚えはないのだが」
「でも」
「私が勝手に世話を焼いただけだ、気にしないでくれ。それより食べたらどうなんだ?」
「あ……ありがとうございます」
ベンチなどはないので、剥き出しのコンクリートにハンカチを敷いて座り込む。今日のお弁当も美味しそうだ。
「それは、君が?」
朝が早いのに、よくそこまで手の込んだものを作れるな、と感心しながらわたしのお弁当を控えめに覗く課長。
「あ、いえ、これは……」
「ひょっとして、朝の彼が?」
「すみません……」
「何故謝る?」
「まともに料理をしてませんし、彼に任せっぱなしで……」
「恋人が料理をしたら君は他人に謝るのか?」
恋人ではないんだけどな──と、口には出さないが、言葉に詰まってしまった。
「いつも残業続きで料理をするのもキツいのだろう? 休日出勤ばかりさせて、いつもすまないな。さぞ疲れているだろう?」
「──え?」
何故課長がわたしを労うようなことを言うのか、理解できない。だってこの人は超がつくほど真面目で、面白味がなくて、考え方の堅い、課の中では皆の恐怖対象だというのに。
「何を不思議そうな顔をしている」
「す、すみません」
「だから何故謝る? 私はそんなに恐ろしいか?」
「いえ、そんなことは──」
「難しいものだな」
短く息を吐くと、課長は缶コーヒーを飲み干し新聞を畳んだ。
「私にはね、君と年の同じ娘がいるのだ」
「え……は?」
「意外かね?」
「……ええ。というか課長、おいくつなんですか?」
「今年で四十七になる」
「見えませんね」
「それは良い意味かね?」
「はい」
結婚していたことすら知らなかった。指輪も着けていないし、そんな素振りも見せたことがなかったから。それに実年齢よりも若く見える。成人してすぐに父親になっていたというのはかなり意外であった。
「難しいのだよ……年頃の娘と話すのと同じように身構えて、つい厳しい口調になってしまう」
「そう、ですか……」
「先日あの子が倒れてね。本人は貧血だと言っていたが……だからかな、君にも無理をして欲しくないと思ってしまうのは」
わたしの中の課長に対するイメージが完全に崩れ去った。この人はただ不器用なだけなのだろう。人に対してどう接すれば良いのかわからず、つい厳しい態度をとってしまう。
「すみませんでした……」
「何がだね?」
「いえ、その……」
「まあ、良い。言いたいことはなんとなくわかっている。それよりも」
わたしの手元のお弁当箱をじっと見つめながら、課長は不思議そうに首を捻った。
「何処かで会ったことがあるような気がするんだよな、彼」
「え……え?! 彼って──」
「朝の、君の彼だ」
腕を組んで天を仰ぐ。うーん、と唸り頭を掻くも、どうやら答えは出てこないようだった。
「ご存知なんですか?」
「以前何処かで会っているのは確かだと思うのだが……思い出せないな、誰だったかな」
セバスチャンの正体──わたしが彼について知っていることなんて、数えるほどしかない。家事全般が得意で、嘘が下手で、葱と甘いものが好きで──その程度だ。
(考えてみたら、本名は勿論だけど誕生日も血液型も何も知らないんだ……わたし)
どうしようもなく空しくなり、顔を伏せた。彼はわたしに尽くしてくれているのに、わたしは彼のために何もしてあげられていない。
──と、その時。
「失礼します」
ルーフバルコニーの出入口のドアが、内側から開いた。姿を現したのは、見覚えのある──。
「核村……」
「お疲れ様です、課長」
唖然とするわたしの横を通りすぎ、核村は課長の正面で姿勢を正した。
「すまないね、真戸乃くん。私が呼んだのだ。朝、話をしようとしたのだが邪魔が入ってね……」
ああ、だからさっき課長は「ちょうどよかった」と言ったのか。核村に説教をするついでに、わたしに謝罪をさせようということだったのだろう。
「真戸乃」
くるりと振り返った核村はわたしの姿を捉えると、九十度ほど腰を折って頭を下げた。
「色々とすまなかった! そして好きだ!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます